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水月庵

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将軍と海





明治二年秋、謹慎を解かれた頃の慶喜とたまたま出会った庶民の話



 秋の昼下がり。時刻はまもなく申の刻を迎える頃だろうか。
 俺は浜辺をぶらぶら歩いていた。朝方は漁へ出る、あるいは漁から帰ってくる俺みたいな漁師やその釣果を買い求める商人で賑わい、また、夏の間は水遊びをする子供達の歓声が響くこの浜辺だが、随分と風の冷たくなったこの季節のこの時間じゃあすっかり静かなものだ。
 寄せては返す波の音や、風にさざめく松の葉音がやけに大きく聞こえる。わずかに傾いた日の光が思ったより眩しくて、俺は思わず手を額にかざして目を細めた。
 ひと気のないこの時間の浜辺が、俺はけっこう好きだ。死後の世界ってこんな感じだろうか、などと柄にもなく文学的な感傷に浸ったりしてしまう。
 砂が草履と足裏の隙間に入り込んでくるのも構わず海へ向かってさくさく歩いていた俺は、しかしいくらも進まぬところで足を止めた。
 珍しいこともあるものだ。
 海辺には先客がいた。



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烈公さんちの美人姉妹




「姉妹」ではない



 水戸徳川家の上屋敷である小石川邸の廊下を、十ほどの年齢の子供が二人、連れ立って歩いていた。
「なあ五郎」
 一方が傍らを歩くもう一方に話しかける。
「どうした、七郎」
「うん……なんか落ち着かないなって思って」
 その黒い瞳をきょろきょろと所在無げに動かしながら七郎と呼ばれた少年は言った。
 もう片方──五郎はそんな彼の様子にふふっと笑う。
「何言ってるんだよ。自分の家なのに」
「そうはいってもさぁ」
 七郎は床に視線を落とす。塵ひとつ落ちておらず、顔が映りそうなほどよく磨き上げられた床。
 確かに五郎の言う通り、ここは自分達の家である。
 五郎と七郎こと水戸の五郎麻呂と七郎麻呂は同い年の兄弟で、水戸徳川家の前藩主徳川斉昭の子息だ。
 だが、江戸の華美な風俗に染まらぬように公子達はみな領国である水戸で養育すべしとの斉昭の方針で産まれてすぐに水戸へ移された二人には当然ながらこの邸で暮らした頃の記憶はない。

「にしても父上は五郎に一体何の用なんだろうな。いきなり江戸に来いなんて」



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天空より誰そ彼を思う




また備中松山主従の話。

 初夏の夕暮れである。
 夏に向けて緑を増してゆく木々の葉に西日が燦々と照り映える。
 外から降り注ぐ日差しに少し眩しそうに目を細めながら、部屋の中では振り分け髪の幼な子が一心不乱に筆を走らせていた。
 小さな手で筆を握り、覚えたての字を広げた白い紙いっぱいいっぱいに書いている。
 力加減など知らぬ幼な子のこと。文机はおろか畳の上にも点々と墨が散っているが、彼は気にする気配もない。
 見ようによっては少し眠たそうにも見える重たげなまぶたの下の目は、しかし真剣そのものだ。
 ただひたすら、今日習った字を忘れぬように一生懸命書いてゆく。
 と、そのとき、カタリとかすかな音を立てて襖が開いた。
 その音に幼な子はようやく紙から目を離して振り返る。


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綺麗なお姉さんは好きですか


 かの紀州の空や海にも似て、明るく天真爛漫な子供。
 自分で言うのも何だが、私はそういう子供であったらしい。
 そのように評してもらえるのは嬉しい。悪い気はしない。
 本心からそう思ってはいるのだが、そもそも私は江戸生まれ江戸育ちで己の領国であるところの紀州を一度も見たことはなかったし、それに。



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秘密




備中松山主従です。従出ないけど。


『山だしが 何のお役に 立つものか 子曰はくの やうな元締』
 近頃備中松山に流行る狂歌である。
「ええい忌まわしい!」
 御殿へ上がる道すがら、道路脇の木にくくりつけられていたその狂歌を書いた紙をぐしゃぐしゃと握りつぶしつつ、三島貞一郎が舌打ちをした。
「落ち着けよ。この門をくぐったら御殿──敵地だ」
 言動に気を付けろ、と、彼と連れ立って歩く兄弟子がやんわりと貞一郎を制する。
「昌一郎どの。あなたは悔しくないのですか。城の連中は先生を何だと思ってやがる」
 なおもいきり立つ貞一郎に、昌一郎という名の太めの男ははぁ、とため息をついた。
「悔しいに決まってるだろう。先生はあんな連中に中傷されるようなお人ではない。……が、先生の弟子である俺達がみっともなく騒いでどうする。ますます先生の顔に泥を塗ることになるぞ。
 だからほら、背筋を伸ばせ。襟を整えろ」
 言いながら昌一郎は弟分の襟に丸くふくよかな手を伸ばし、その袷を軽く整えてやった。
 十九歳の三島貞一郎と二十九歳の村上昌一郎はともに、国一番の秀才と名高い山田安五郎の私塾で学ぶ才子である。
 入門してからこのかた、師の教えを少しでも多く吸収しようと切磋琢磨する毎日を送ってきたのだが、この度その日常を一変させる出来事が起こった。


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