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水月庵

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間違いと純愛

その日は、春だというのにやけに蒸す日だった。まだ梅雨入りには些か早いはずだが。
 大奥の将軍御座所で一人、昼寝を決め込んでいた家光は異様な湿気と、そして人の気配を感じてパチリと目を開けた。
「あら、お目覚めですの」
 もう少し寝顔を見ていたかったのに、と、いつの間にやら寝そべる家光の隣に座ってその寝顔を盗み見していたらしい女は笑った。
「いつからそこに」
 相手が自分の側室であるお万だと見て取ると、家光の表情もふっと和らぐ。ともすればもう一度寝入ってしまいそうな声で彼女に問うた。
「今来たばかりですわ。珍しくお一人で居られると聞いたもので。今日は蒸しますわね」
 お万が手にした扇を広げ、家光に風を送る。室内の湿気を吹き飛ばすような軽やかな涼風が家光の頬をくすぐった。






 家光がのそりと起き上がり、ググッと伸びをする。
「僕が一人ってそんなに珍しい?」
「ええ。上様のお側にはいつも水戸様がいらっしゃるような印象があります」
 他愛もない世間話だといった風情の軽やかな口調でお万は答えた。
「そうか。あれは『副将軍』だからな」
 満更でもなさそうに家光が相槌を打つ。
「今日はご一緒ではありませんの?」
 家光は曖昧に笑った。
「では右京様は? 最近のお気に入りでしょう? それに今は江戸にいらっしゃるとお聞きしましたが」
 右京様とは、高松藩主松平頼重のことである。右京大夫を名乗っていることからそう呼ばれている。数え24歳の若大名で水戸様こと徳川頼房の長子だ。そして、お万の言う通りここ最近家光が最も気に入っている男の一人である。
「あいつらは今頃二人とも、家族会議の真っ最中だ」
 家光は苦笑した。
「ああ。君も水戸の世子の噂くらいは聞いているだろう? 水戸の世子……光国は昔からやんちゃなところはあったが殊に最近は手がつけられないほどのかぶきっぷりでね。
 まあ、そんな光国も今日怖い父上と大好きな兄上に二人掛かりで懇々と怒られれば少しはマシになるだろうさ」
「まあ」
 ある意味微笑ましくもある水戸の家族模様にお万は扇を持っていない方の手を口元に当ててふふっと笑った。

「鶴千代だって昔は傾奇者だったくせに。何だかんだであの人も父親になったということか」
 鶴千代とは水戸様の幼名である。
「お寂しゅうござりますか?」
 からかいと気遣いが入り混じったような声音で聞いてくるお万に対し、少しね、と家光は笑った。不思議と、彼女の前では素直な言葉がすらすらと出てくる。

「父親といえば」
 少し躊躇う様子を見せてから、お万が切り出した。
「申し訳ござりませぬ、私が告げる筋ではないのですが、あの子がそうしてくれと言うものですから……」
 家光がお万を流し見る。彼女が『あの子』と言うからには、話題は十中八九。
「お玉のことか? あれがどうかしたか」
 家光は自身の側室であり、もとはお万の侍女だった女性の名を挙げた。
「どうやら最近気分が優れぬようなのでお医者様に診せましたら……」
 そこでお万は花も綻ぶような笑顔を見せた。かつての尼姿からは想像もつかなかった豊かな黒髪がふわっと揺れる。
「懐妊しているようですの。おめでとう存じます。またお子様が増えますわね」
 我が事のように嬉しそうな顔で笑うお万に釣られ、家光の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「そうか。それなら一度お玉に労いの言葉と、それと贈り物も持って行かないとな」
「はい」
 相変わらず嬉しそうな顔で頷いた後、お万はふっと思案顔になった。
 どうした、と問うも、いえ……、と呟くばかりでどうも歯切れが悪い。
 彼女はパチリと扇を閉じた。
 さらりと衣擦れの音を立てて立ち上がり、半分開いていた障子を閉める。暑いんだけど、という家光の抗議は彼女には届いていないようだ。
 家光の隣に戻って来てからも、彼女はまだ言い淀んでいる。家光はそれでも辛抱強く待ったが、お万は何も言わないので諦めて、菓子でも出そうか、と言いかけた段になってようやくお万は重い口を開いた。

「……お玉とも、これで終わりなのですか」
 思いつめた表情でそう言ったお万に対し、家光は一瞬目を見開いたが、すぐにその表情を些か曇らせる。
「まあ、そうなるかな」
 家光が答えるとお万は細くため息をついた。
「今まで上様の御子を二人産んだ方はいらっしゃいませんものね」
「変に勢力の強い側室をつくると厄介なことになるからなぁ」
 何でもないことのようにそう言ってのけた家光に、お万はますます憂い顔になる。
 先程言った通り、家光には数多の側室と数人の子がいるが、側室達は皆、彼の子を一人しか産んでおらず二人産んだ側室はいない。それは、家光が子を産んだ側室はお役御免とばかりに二度と抱かないからだ。
 理由はきっと彼が先程言った通り将軍の寵愛をかさに権力を振りかざす女を作りたくないからだろうが、肌を重ね子まで生した女に心が残ることはないのだろうか。
 そう問おうとして、やめた。答えは分かりきっている。
 これまで家光は数多の男女にその寵愛を与えてきたが、真にその心を支配しているのは、今も昔もたった一人だけだ。そのことを打ち明けてもらえるほどには、お万は家光に愛されていた。

「すでに四十路を迎えられた上様と水戸様が今も肌を重ねていらっしゃるかはあまり想像したくありませんけれど」
 甘えるように家光にしなだれかかりながらお万は言った。
「想像しなくていいよ」
 あははと笑いながら家光が応える。自然な動きで側室の身体を受け止めた。
「上様の本当の意味での伴侶は水戸様なのですね。……何ゆえ、そこまであの方を?」
 お万の柔らかい身体を抱きとめながら、しばし家光は考え込んだ。

「……鶴千代は僕が正しくなくても、強くなくても受け止めてくれるから」
 家光の腕の中で、お万は目を瞬いた。女達に対して多少冷たいところはあるが、お万にとって家光はいつも正しい将軍だ。強い将軍だ。
 お万がそう言うと、本当はそうじゃないんだよと家光は苦笑した。
「僕は病弱で引っ込み思案でどもりがちの、出来の悪い人間だった。おまけに顔も良くない。せっかく生まれた待望の男子だっていうのに、両親にも愛されなかったよ」
「そんなこと……」
 お万は信じられない面持ちで家光を見上げた。だって今は流暢に話しているし、器量だってずば抜けた美形ではないかもしれないがそんなに自嘲する程のものとは思えない。

「そんな僕には乳母のお福ですら焦燥を募らせてたみたいだけど、鶴千代は違った。
 どもりながら喋る僕の言葉をあの人はいつも何の気負いもない普通の顔でじーっと聞いて僕が喋り終えると普通に会話を続けてくれたし、僕が女の子の格好をしたいと言えばふーんって言って白粉と紅を持って来たし、しょっちゅう二人で城を抜け出して飽きるまで馬鹿をやった。
 たぶん鶴千代は大してできた人間ではないけれど、それでも僕を救ってくれたのは鶴千代だ。
 おかげで今こうして僕は普通に生きているし、普通に喋れてもいる」
 だけど、と家光は言った。
 お万が小さく首をかしげる。

「理由なんて必要?」
 お万の頭上にますます疑問符が浮かぶ。
「どうしてって君が聞くから一生懸命思いつく限りの理由を喋ったけど、実のところそんなにしっくり来ていないんだ。
 そんな理由が何一つなくても僕はあの人に恋したと思う。
 ……それは君だって同じなんじゃないか?
 君は何か理由があってお玉を好きになったのか?」

 元から大きい目をお万はますます大きく見開いた。目が落ちてしまいそうだと家光が笑う。
「ご存知でしたの」
「知ってたから君がお玉を側室に推挙したとき本当に良いのかとしつこく聞いたんだよ。
 ……あと、そうだな。やっぱり君といると落ち着く。似た者同士だから」
 お万はますます身体を家光にすり寄せた。柔らかく力が抜けてゆく。
「お玉の勝気で快活なところが好きです。弾けるような笑顔も。私を慕ってくれる無垢な瞳も」
 そこまで言って、お万はふふっと笑った。
「確かに上様の言う通りですわね。好きなところを言葉にしても空回るばかり。そんな浅いところではないのね」

 お万は言った。
「あの子は何も知りません。私の想いも。貴方がこの先二度とあの子に触れないことも。未来永劫、誰もあの子に触れないことを私が喜んでいるということも」
「それでいいんじゃない? 君がいいなら」
「間違っていますものね、こんな想い。……上様、私達は間違っているのでしょうか」
 自分を抱きしめる男を見上げる。
「間違ってるらしいよ」
 何でもないことのように家光は言った。
 それが妙に心地良かった。

「さて」
 家光が立ち上がる。
「お玉のところへ行ってくるよ」

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