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水月庵

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大江戸摩天楼

扉を開け放ち、露台に出るや否や強い風が前髪をなぶった。思わず目を閉じる。風がおさまるのを見計らって目を開けると、薄曇りの空の下に広がる巨大都市。ほんの数十年前にはただの寒村だったなど信じられない。
 いずれ自分のものになるであろうその都市を眼下に見下ろしながら、少年は自分の左手首に巻かれた包帯をするりとほどいた。そこにはざっくりと刃物で切り裂いた痕があった。もうほぼ瘡蓋になっている。その傷にそっと指を走らせる。何を思ったか瘡蓋を爪先で少しめくってみれば、ピリピリとした痛みが走った。めくれたところに血が滲む。
「あーあ、思い切りが足りなかったなぁ」
 欄干に体重を預けて、遥か高みから街を見下ろしつつ独りごちる。

 ここは江戸城天守閣。






 天下随一の城に聳える摩天楼から見下ろす景色はまさに天下人の光景だ。
 だが少年は無感動だった。
 ただ、ここから飛び降りれば一瞬で死ねるだろうなと思った。
 ぐっと身を乗り出してみる。
 裃姿の旗本達が行き交うのが見えた。随分と小さく見える。

「今飛び降りたら巻き込んじゃうかな」
 それはさすがに可哀想だ。それに、巻き込みはしなくとも目の前で人が潰れるところを見せるのは忍びない。
 そんなことを思いつつ、少年はしばらくそのままの体勢で地上を見下ろしていた。
 小さな人間が威儀を正して歩いている姿がなんだか面白い。

「そんなところにいたのか。竹千代」
 後ろから出し抜けに声をかけられ、少年──竹千代の肩がぴくりと動く。
 振り返ると、彼と同じくらいの年恰好の少年が立っていた。どこか猫科の動物を思わせる切れ長の吊り目には少し呆れの色が浮かんでいる。
「乳母殿が血相を変えて探し回ってるぞ。あんなことがあった後だからな」
 最上階へ続く階段をひと息にここまで上ってきたのであろう猫目の少年は、しかし全く息を乱すことなくそう言った。
 そして、竹千代の側へと歩み寄り、さり気なく彼を欄干から離す。
 そのまま竹千代の手を取り、手首の傷を指の腹でなぞった。その指が、先程めくった瘡蓋のあたりで止まる。
 しかしその指からは『あんなこと』を仕出かした竹千代を咎めようという思いはあまり感じ取れなかった。

「また血が出てる。掻いちゃだめって言っただろ」
「痒かったから……」
「それはわかるけど」
 少年はしばらく竹千代の傷を触っていたが、やがて飽きたのか竹千代から手を離し、欄干に背を預けた。
「鶴千代」
 竹千代が少年の名を呼ぶ。
 ん? と鶴千代は首を傾げた。
「景色見ないの? せっかく上ってきたのに」
 うーん、と鶴千代は首をひねる。

「実は俺、高いところからの景色ってそんなに好きじゃない」
「へぇ」
「別に嫌いでもないけどさ。見下ろしたから何なんだって感じ。俺たぶん自分の城には天守作らないわ」
「へぇ意外」
 竹千代は目を見開いた。
「神君の末子として蝶よ花よと育てられた高飛車な鶴千代様におかれましては高いところから下民を睥睨するのがさぞお好きだろうと思っておりましたが」
 茶化すようにそう言うと、額を指で弾かれた。地味に痛い。

「天守に登ると黒歴史を思い出してな。全身が痒くなる」
 鶴千代はため息混じりに言った。
「黒歴史?」
 問うと、彼はそう、と頷いた。
 そして身体を翻し、下界へと向き直る。頭頂部で束ねられた鶴千代の長い髪が見事な弧を描いてしなり、鞭のように竹千代の頰をかすめる。
「痛っ」
 そうは言ったものの、そのときふわりと広がった芳香に、悪い気はしない。
 落ちれば確実に死ぬであろう高さを全く恐れることなく、鶴千代が欄干から身を乗り出す。

「昔、まだ駿府の城に父上や兄上達と住んでいたとき」
 江戸の街を睥睨しながら鶴千代は話し始めた。
「父は俺と尾張、紀州の兄上を連れて天守に登り、俺たち三人に戯れにこう言った。『ここから飛び降りれば何でも望みのものをやるぞ』と」
「笑えない冗談だね」
竹千代は苦笑した。
「だろ? 実際、兄上達はへっぴり腰で顔を引攣らせてたよ。……あーおまえに見せてやりたかったな、あのときの兄上達の情けない顔」
 我らこそ東照大権現の実子なりと肩をそびやかして、いつも竹千代を見下している歳近い叔父達の、オロオロする姿を想像すると少し胸がすっきりした。

「で、鶴千代は何て言ったの」
 問うと、何でもないことのように鶴千代は答えた。
「飛び降りますって答えた。で、そうまでして何が欲しいと聞かれたから、天下が欲しいと答えた」
「でも死んじゃうじゃん」
 至極当たり前のことを言うと、鶴千代はくすっと笑った。
「父上も同じこと言ってた」
 尊敬する祖父と同じことを、と言われて少し嬉しくなる。が、その一瞬後、いやそれは誰でも同じことを言うよなと思い直す。

「そのときはそれでいいと思ったんだよ。死んでも一瞬でも天下人になれるならそれもありかなって。
 で、じゃあ飛び降りるかと思って柵に足掛けたあたりで父上と兄上達三人がかりで引き戻されてな。めっちゃ怒られたし泣かれた。
 危ないだろとか、落ちたらどうするんだとか。理不尽だろ、飛び降りろって言ったのはそっちなのに」
 欄干の上に肘を乗せ、頬杖をつきながらそう語る鶴千代の横顔を竹千代はじっと見つめた。
 鶴千代は無表情だ。綺麗に整った額から鼻、口、顎の線と相まって、まるで人形のようだ。

「それで?」
 あまりにもその表情から何も読み取れないので、竹千代は焦れた。
 何を思って今その話を自分にしたのかと問うも、鶴千代は相変わらずだ。
「別に。天守閣といえばってことでただ何となく思い出しただけ。
 あー別に俺がそうまでして欲しかった天下人の地位が云々とか説教くさいこと言うつもりは一切ない」

「今でも……」
 竹千代は言った。その瞬間、急に強い風が吹いた。
「え? 何?」
 風の音に遮られ、竹千代の声は鶴千代の耳には届かなかったらしい。
 自らの耳に片手を添え、鶴千代が聞き返してくる。
 何でもない、と誤魔化そうかと一瞬思った。
 だがやはり、意を決して聞いてみることにする。

「鶴千代は、今でも天下が欲しいの?」
 そうだ、と言われたときの応えはまだ考えていない。

 欄干から身体を離し、鶴千代は竹千代に向き直った。
 風に煽られ、黒髪が別の生き物のようにわさわさと動いている。
 鶴千代はニッと笑った。
「言っただろ、黒歴史だって。全然いらない」

 竹千代は目をパチクリさせた。そんなにあっさりと、はっきりきっぱり言われるとは思っていなかった。
 何と言っていいやらわからなくなってしまった竹千代に、鶴千代がすっと近づく。
 よくわからないまま、鶴千代に顎を掴まれた。
「だって俺が天下を手にするってことは、その世界におまえがいないってことだろ。そんなのつまんない」
 鶴千代はそう言うと、竹千代に顔を寄せ、その頰に唇で軽く触れた。
「つ、鶴千代!?」
 竹千代がみるみるうちに耳まで真っ赤に染まる。
「いきなり何だよ……」
 慌てふためく竹千代を尻目に、鶴千代はくるりと踵を返した。その拍子に彼の髪がまた竹千代を直撃する。
「痛い……」

「もう戻ろうぜ。おまえのほっぺめっちゃ冷たい」
 鶴千代はそう言ってスタスタと中に入っていってしまう。
 竹千代は慌ててその背を追いかけた。

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