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水月庵

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烈公さんちの美人姉妹




「姉妹」ではない



 水戸徳川家の上屋敷である小石川邸の廊下を、十ほどの年齢の子供が二人、連れ立って歩いていた。
「なあ五郎」
 一方が傍らを歩くもう一方に話しかける。
「どうした、七郎」
「うん……なんか落ち着かないなって思って」
 その黒い瞳をきょろきょろと所在無げに動かしながら七郎と呼ばれた少年は言った。
 もう片方──五郎はそんな彼の様子にふふっと笑う。
「何言ってるんだよ。自分の家なのに」
「そうはいってもさぁ」
 七郎は床に視線を落とす。塵ひとつ落ちておらず、顔が映りそうなほどよく磨き上げられた床。
 確かに五郎の言う通り、ここは自分達の家である。
 五郎と七郎こと水戸の五郎麻呂と七郎麻呂は同い年の兄弟で、水戸徳川家の前藩主徳川斉昭の子息だ。
 だが、江戸の華美な風俗に染まらぬように公子達はみな領国である水戸で養育すべしとの斉昭の方針で産まれてすぐに水戸へ移された二人には当然ながらこの邸で暮らした頃の記憶はない。

「にしても父上は五郎に一体何の用なんだろうな。いきなり江戸に来いなんて」






 七郎が言う。
 そう。この度江戸へ招かれたのは五郎のほうだ。本当は五郎が一人で江戸に上る予定だったのだが、同い年の兄が江戸へ行くなら自分も一回行ってみたいとせがんで七郎もおまけとしてついて来たというわけである。
 そうだなぁ、と五郎がその形の良い顎に細い指を添えて思案顔になる。
「大名が部屋住みの子供達を呼び出す理由はほぼひとつだろうな」
 そう言われて首を傾げる七郎に、五郎は重ねて言った。
「たぶん僕の養子縁組先が決まったんだ」
 七郎はパチパチと目を瞬かせ、ちょうど同じような高さにある五郎の顔を見つめた。
「五郎どっか行っちゃうのか?」
 五郎は苦笑した。
「そりゃ僕は五男だからね。お家はもう慶篤兄上が継いでるんだから、お世継ぎのいない他のお家に養子に行くのが世の習いだよ」
「じゃあ俺もいずれ他の家に行くの?」
「うーん、それはどうかなぁ。七郎は正室の吉子様のお子だし、父上も七郎のことは手元に置いておきたいと言ってらしたという話を聞いたことがあるような……」

 そうして話していると、向こうのほうから女中が数人やって来て二人の前に膝をついた。
「よくいらしてくださりました、五郎麻呂様。お父上がお待ちでございます。さ、こちらへ」
 女中達に促され、同い年の弟にじゃあまた後でね、と告げて五郎は去っていく。
 七郎も、それから程なくしてやって来た他の女中に連れられてその場を後にした。



「おお五郎、久しいの。近う近う」
 五郎が通されたのは庭園の一角にある茶室だった。身をかがめてにじり口より中に入り、ご機嫌麗しい様子の父親の手招きに従ってその傍らに腰を下ろした。
 父の対面には男性が一人座っている。その柔和な雰囲気から一目で貴人と知れた。いや、貴人といえば御三家たる水戸徳川家の前当主である父とて相当の貴人なのだが、あいにく父は貴人というより奇人だ。
 五郎はその対面の貴人に顔を向けた。
 年の頃は三十路に入ったばかりといったところだろうか。色白でふっくらとした体つきをしている。やや太り気味ではあるが、綺麗な人だなと思った。心なしか父の鼻の下が伸びている。
「老中首座の伊勢守どのじゃ。ご挨拶せよ」
 父にそう言われ、慌てて居住まいを正す。
「お初にお目もじいたします、五郎麻呂にござりまする」
 そう言って、両手をついて優雅に頭を下げた五郎麻呂の姿に老中首座、阿部正弘はにこりと笑った。
「阿部正弘にございます。
 これはこれは、何とも礼儀正しく可愛らしいお子でいらっしゃる」
 正弘がそう言うと、斉昭もそれに上機嫌で答えた。
「いや、我が子ながら五郎はなかなか美しゅう育ってくれた。物腰も柔らかで実に養子向きと思うておるところじゃ」
「ええ、ほんに。この方であれば上様もきっとお気に召すことでござりましょう」
 正弘と斉昭が和やかに話すのを聞いて五郎は、ん? と首を傾げた。
 阿部正弘に引き合わされたということはてっきり自分は阿部家に縁付くのだと思ったのだが。
 五郎の疑問に答えるように父が言う。
「ちょうど今、一橋が当主不在となっておってな」

 一橋家、あるいは一橋徳川家とは八代将軍徳川吉宗の四男徳川宗尹を家祖とする将軍家の分家で、田安、清水と並んで御三卿と呼ばれる家である。将軍家に継嗣なき場合には代わって継嗣を出す資格を持つ家であり、事実前将軍徳川家斉は一橋家の出身であった。
 同じく将軍家の分家であり次期将軍を出す資格を持つ尾張、紀州、そしてこの水戸と異なる点は、御三卿はまとまった領地を持たず、また家中のことを取り仕切るのも幕府から出向した幕臣であるということ。要は御三卿は将軍を出すため『だけ』の家といえる。
 その御三卿の当主に自分はなるのであろうか。五郎は戸惑った。どうにも話が見えない。

 五郎の戸惑いをよそに、斉昭と正弘は相変わらず和やかな口調で会話を続けている。
「それにしても水戸様のお子がこのように可愛らしい方だとは。少々意外にござりますな」
「意外とはなんじゃ」
「いや、これは失礼をいたしました。しかしこの方がお傍近くに侍りあそばせばきっとすぐに、上様の水戸様への勘気も解けましょう。
 ときに五郎麻呂様。能は嗜まれますか」
「えっ? あ、はい。……多少は」
 急に水を向けられ、混乱しつつも五郎は答えた。正弘がそのふくよかな頬にふわりと笑みをうかべる。
「それは重畳。近々、上様が親しい者だけを集めて能楽の会を催されます。そのときに五郎麻呂様をお目にかけましょう」
「おお、そうか伊勢守どの。かたじけない。五郎よ、今日からしっかり稽古に励むのだぞ。そなたに儂の、いやこの水戸徳川家の運命がかかっておる」
 激励のつもりだろうか。父親に横からばしばしと肩を叩かれながら、五郎は何となく察した。
 五郎の父、徳川斉昭という男は尊皇攘夷思想の権化のような男である。その思想に突き動かされるがままに仏像を溶かして大砲をつくったり大規模な軍事演習を行ったりする彼は同じ思想を持つ志士からは絶大な人気を集めたが、時の将軍徳川家慶とはとにかくソリが合わなかった。
 そして三年ほど前についに幕命により家督を嫡男に譲らされ謹慎処分に追い込まれた。去年謹慎は解けたが、依然として斉昭は幕府にとって不穏分子のままだ。
 そのような状況の中でのこの話ということは、五郎麻呂は良く言えば将軍と父親との架け橋、悪く言えば将軍を誑かして父親の復権を叶えるという役割を期待されている──つまりはそういうことであろう。
 無意識に、身を庇うように自分の身体を抱いた。
 そのとき、茶室の外がにわかに騒がしくなった。
 女中や近習達の慌てたような声が聞こえる。
「ええい何事だ!」
 苛立った声と共に斉昭が外に出た。
 残された五郎は正弘と一瞬顔を見合わせ、彼と一緒に父の後について外に出る。

「七郎麻呂様! 何をなさっておいでですか! なりませぬ!」
 騒ぎの源は、茶室のすぐ側にある人造の池だった。
 池のほとりに使用人達が群がり、口々に切羽詰まった声で叫んでいる。
 そして、袴をたくし上げてざぶざぶと池に入っている五郎の弟、七郎。
 右手で池の鯉を鷲掴みにしている。
 まったくこいつは。
 五郎は思わず頭を抱えた。
 側室腹の五郎とは違い、七郎は正室の子。そして徳川斉昭の正室は有栖川宮家の姫である。つまり、七郎は水戸徳川家の子息であるだけでなく、母方を通じて皇室の血を引く高貴の生まれ。なのだが。
「だって暇なんだもん。五郎もなかなか戻ってこないしさ」
 鯉を鷲掴みにしたままそう言って小さな口を尖らせる七郎は、皇室の血を引くだなんて嘘のようなやんちゃ坊主であった。

「こら七郎!」
 斉昭がつかつかと大股で我が子に歩み寄る。
「何をしておるかおまえは! とりあえずお魚さんを離しなさい」
 怒号と共に鉄拳を脳天に一発お見舞いされ、七郎は渋々鯉を離した。ぽちゃんと水音を立てて水中へ戻った鯉は何事もなかったかのようにすーっと泳いで遠ざかっていく。
「いやぁ伊勢守どの、お見苦しいところを見せてしまい申し訳ない。こいつは五郎と同い年なのだがどうもまだ幼くて……」
 七郎の首根っこをむんずと掴みながら、斉昭は正弘に言った。
「いえいえ、とんでもございません。元気なのは良いことです」
 鷹揚に笑ってそう言った正弘は、ふと七郎の顔に目を留めた。
 やんちゃ坊主らしくこんがりと日に焼けてはいるが、ふさふさと長い睫毛に彩られた切れ長の目や小さな口は随分と綺麗な形をしていて、父親が自ら美形と評した五郎と並べてもひけをとらない。貴公子風の五郎とはまた違った愛らしさがあった。
「いかがでしょう、水戸様。能楽の催しにはこの七郎麻呂様もぜひ」
 正弘が言う。
「し、しかし伊勢守どの。これには能楽など……。こいつは盆踊りがせいぜい」
 焦ったように言い募る父親の足を七郎がすかさず踏んだ。
「失礼ですね。俺だって能くらい舞えます」
 七郎はそう言ってぷいっと父親から顔を背けた。
 その様子を見やりつつ、五郎はため息をついた。
 弟はおそらく、何もわかってはいるまい。
 それが証拠に、七郎は五郎を見て一緒にがんばろうな五郎、などと言って目を輝かせている。
 大人達の欲と思惑の中で自分たち兄弟はこれからどうなるのだろう。
 そう思って、五郎はもう一度深いため息をついた。

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