2019/04/15 Category : 幕末明治 将軍と海 明治二年秋、謹慎を解かれた頃の慶喜とたまたま出会った庶民の話 秋の昼下がり。時刻はまもなく申の刻を迎える頃だろうか。 俺は浜辺をぶらぶら歩いていた。朝方は漁へ出る、あるいは漁から帰ってくる俺みたいな漁師やその釣果を買い求める商人で賑わい、また、夏の間は水遊びをする子供達の歓声が響くこの浜辺だが、随分と風の冷たくなったこの季節のこの時間じゃあすっかり静かなものだ。 寄せては返す波の音や、風にさざめく松の葉音がやけに大きく聞こえる。わずかに傾いた日の光が思ったより眩しくて、俺は思わず手を額にかざして目を細めた。 ひと気のないこの時間の浜辺が、俺はけっこう好きだ。死後の世界ってこんな感じだろうか、などと柄にもなく文学的な感傷に浸ったりしてしまう。 砂が草履と足裏の隙間に入り込んでくるのも構わず海へ向かってさくさく歩いていた俺は、しかしいくらも進まぬところで足を止めた。 珍しいこともあるものだ。 海辺には先客がいた。 距離はまだ離れているし、俺の今いる場所から先客を見ようとするとちょうど逆光になって顔はよく見えない。ただ、どうやらその人は男で、漁師や農民ではなさそうだなということだけはわかった。江戸、もとい東京には髷を落として異人のような格好をするお歴々がちらほらいるらしいが、この駿府、いや今は静岡というのか、ではまだそんな意識の高い人間はついぞ見かけない。 身分の高い人だったら近づいたら怒られそうだし、それにこんな季節、こんな時間にここへいるのだ。ひとりになりたいとか、そういうことなのだろう。そう思うと、ここは静かに立ち去るのが適切か、と思えた。 波打ち際に佇むその人物が靴を脱ぎ、海へ向かってふらっと一歩踏み出しかけたのを見るまでは。 考えるよりも先に、俺は駆け出していた。 彼に追いつくなり、その腕を掴んで力任せに引き寄せる。「えっ何!?」 彼は驚いた顔で振り返り、俺を振り払おうと手を振り回した。意外と力が強い。掴んだその腕なんか、俺の姉ちゃんよりも細いくらいなのに。「馬鹿な真似はよせ!」 暴れる彼を押さえ込みながら、俺は叫ぶ。「へ?」 彼は間の抜けた声を出していたような気がする。だが俺は必死で、ろくに聞いちゃいなかった。「何があったか知らねえが、生きていればこの先いいことだってきっとある! だから死ぬなんて馬鹿な真似……」 無我夢中で言い募っていた俺だったが、途中で何やら違和感を覚えてふっと言葉が途切れた。急に彼が大人しくなったからだ。暴れるのをやめた彼は、そればかりかくすくす笑っていた。「あの……俺は」 何かとんでもない早とちりをしてしまったのだろうか、と恐る恐る尋ねると、彼の笑い声が大きくなった。「何? 俺が入水すると思って止めに来てくれたのか? いい奴だな」 言われて、俺はしおしおと手を離した。 自由になった手で、彼は目の端に滲んだ涙を拭った。それはたぶん言うまでもなく、笑いすぎたことによって出た涙だ。「とんだご無礼を……」 恥ずかしさと、そしてどう見ても庶民ではないその人の身体に触れてしまった、いや触れたどころか後ろから抱きしめてしまった畏れ多さにもうどうしたらいいかわからない。「顔を上げてくれ」 縮こまっている俺に彼は言った。それでも動けずにいると、頰にあたたかいものが触れた。彼の手のひらだ。両の手のひらで俺の顔を柔らかく挟み込み、彼は俺の顔を上げさせた。 その段になって、俺ははじめてまともに彼の顔を見た。 ほぉ、ともはぁ、ともつかぬよくわからない声が無意識に口をついて出ていた。 簡潔に言うと、とんでもない美形が至近距離にいた。小野小町かと思った。 すっと通った鼻筋にほっそりとした顎。しっとりと潤んだ目は、その長い睫毛が落とす影すら美しい。そして何より、いっそ青白いといったほうが良いほど、肌が白かった。 これはあまり長時間見てはいけない類の人間だと思う。この美貌に目が馴染んでしまうと、姉ちゃんはもとより、村で美人と評判のミヨちゃんですら茹でダコにしか見えなくなってしまいそうだ。 俺は一生、ミヨちゃんを美人と思う俺のままでいたい。 ここ数年で世の中は急に変わったらしい。 江戸の公方様は朝廷の天子様に政権を返上し、江戸は東京に、駿府は静岡になった。 だけど、公方様が天子様に政権をお返しする前の日も当日も、その次の日も、俺は常と変わらずこの海で網に魚を引っ掛けていた。できればこの先もずっとそうありたい。 そういえば、その公方様は今この静岡にいるんだったっけ。 首を落とされることもなく、つい最近晴れて自由の身になったと聞いた。「し……死ぬつもりじゃねえなら何で意味深に靴脱いだりなんか」 絶世の美形に魅入られまいという精一杯の反抗と羞恥の誤魔化しを兼ねて負け惜しみのように俺は言った。「濡れちゃうと思ったから」 至極当たり前の答えが返ってきた。 彼は相変わらず俺の頰に手を添えたままだ。にっと笑って俺の頰を軽くペチペチやりながら彼は言う。「死んだりしないよ、俺は。 ……死にたいと思うことはあるけどな」 そう言う彼の顔からはいつの間にか笑顔が消えていた。 俺の顔から手を離し、彼は海に向き直った。 潮が満ちてきた。 打ち寄せる波がひっきりなしに彼の洋袴の裾を濡らしている。「昔は、この海の向こうから来る厄介者をどうしてやろうかという気持ちでしか海を見たことがなかったけど」 彼がぽつりと言った。 気を悪くしたらすまない、と前置きしてから、彼は続けた。「永遠に続いているような海を見たら、何だか死に近いような、この果てに死んだ人がいるような、そんな気がする」 同じようなことを考える人がいたのか。 海は死の世界なのかもしれない。だから怖いし、懐かしく慕わしいのかもしれない。 尤も、俺だってこんな日でなければ、普段は海のことを仕事場としか思わないのだが。「会いたい人がいるんですか? その、……果ての世界に」 尋ねると、彼は頷いた。「いるよ。それも一人や二人じゃない。……たった二十歳で死んだ人、俺のせいで、俺の身代わりのように殺された人。こんな時代に生まれなければあの人はもっと長く生きられたかもしれないし、俺の側近になんてならなければ彼らは死ななかった。 その他にも一体どれだけの人が俺のせいで死んだことか。 そうやって人の生き血を啜って生きてきたんだから、首を斬られても別に、俺は満足だったんだけど」 髷のない短い髪を冷たい潮風に揺らしながら遠い目で彼は言う。 その白い横顔は相変わらずぞっとするほど美しい。「やっぱり貴方は」 俺は彼、否かつての公方様に言った。「今日ここに死にに来たんじゃないんですか」 晴れて自由の身になって。死ぬことを許される身になって。 もし俺が貴方を見つけなければこの海に消えていたんじゃないんですか。 俺の言葉に、公方様は目を丸くされた。その後、首を横に振った。「まさか。俺は死ねない。こんな俺に、それでも生きてほしい、幸せになってほしいなんて言う男がいるからな」 その人のことを思っているのか、公方様の表情が和らぐ。「馬鹿なんだ、そいつ。見どころのある奴だったから、この先この国がどうなっても生きてほしいと思ってフランスに行かせてやったのに。のこのこ帰ってきて、生きてる俺を見て良かったって言って泣いてた。優秀な奴だったから新政府からのお誘いもあったのに、それを断っても俺の側に居たいなんて抜かしやがった」 良かったな、と俺は思った。 色々と言う人はいるだろうし、今後ずっと憧れのミヨちゃんが茹でダコにしか見えなくなる呪いを俺にかけたことは度しがたいが、それでもこの人は幸せになるべき人だと思うから。 この短時間で俺は公方様を好きになっていた。そして失恋したらしい。「じゃあこれからはその人と生きていくんですね」 俺は言った。 当然公方様は頷くと思っていた。 だが何と、彼は再度首を横に振った。「何で!!」 びっくりして声が裏返ってしまった。 大きな声を出した俺を非難するように、公方様は大仰な仕草で自分の耳を手で塞がれた。「言っただろう。あいつは優秀なんだ。だから俺はあいつに言った。おまえはおまえの道を行けと」 言いながら、公方様は洋袴の衣嚢から何かを取り出した。直径一寸余りの円盤状の金属だ。 表面にはやたら鼻の高いおっさんの横顔が描かれている。「何ですかそれ」「フランスの貨幣だ。例のあいつと一緒にフランスに行ってた弟がくれた」「はぁ」「外国の貨幣にはこうやって偉い人の顔が描かれている。こういう硬貨になるか藩札みたいに紙のお金になるかはわからないけど、我が国の貨幣にもいずれ人の顔が描かれるようになるかもしれない。我が国の発展に多大なる功績を残した偉人の顔が」「それで?」 何でこの人はいきなりお金の話をし出したのだろう。高貴な人ってやっぱりよくわからない。「そうなったときあいつは、我が国の、一番高価な貨幣に描かれるべき人間だ。絶対にそうなる。 だから」 公方様は手の中の硬貨を握りしめた。 そして俺に向き直って笑った。眩しい。歯並びまで完璧だ。「あいつが心置きなく羽ばたけるように、俺はここで楽しく生きる。今までやりたかったけどできなかったことをいっぱいして、毎日笑って、あいつがたまに来てくれるのを待つ。これからの人生、そうやって生きていく」 そう言うか早いか、公方様は腕を振りかぶってその硬貨を力一杯海に向かってぶん投げた。 硬貨は綺麗な弧を描いて、西日にきらめきながら海の彼方へ消えていく。「何してんですか! 弟さんのお土産でしょう!?」 俺はまた叫ぶ羽目になった。「いいんだよ。俺は一生フランスになんか行かないから。ここにいるから」 俺の叫びなんてどこ吹く風で、最後の将軍徳川慶喜公は無邪気に笑っている。 海に向かって、フランスまで届け、だとか何とか叫んでいる。 俺は脱力した。 と共に、何だか笑いがこみ上げてくる。彼につられたのだろう。 気がつけば、俺も彼と一緒になっていろいろと叫んでいた。 その海の先にはもう死の世界なんて見えなかった。***というわけで栄ちゃん一万円札おめ [4回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword