また備中松山主従の話。
初夏の夕暮れである。
夏に向けて緑を増してゆく木々の葉に西日が燦々と照り映える。
外から降り注ぐ日差しに少し眩しそうに目を細めながら、部屋の中では振り分け髪の幼な子が一心不乱に筆を走らせていた。
小さな手で筆を握り、覚えたての字を広げた白い紙いっぱいいっぱいに書いている。
力加減など知らぬ幼な子のこと。文机はおろか畳の上にも点々と墨が散っているが、彼は気にする気配もない。
見ようによっては少し眠たそうにも見える重たげなまぶたの下の目は、しかし真剣そのものだ。
ただひたすら、今日習った字を忘れぬように一生懸命書いてゆく。
と、そのとき、カタリとかすかな音を立てて襖が開いた。
その音に幼な子はようやく紙から目を離して振り返る。
「おお、これはこれは。邪魔をしてしまったかな」
入ってきたのは老人だった。
幼な子が文机に向かっているのを見て取ると、途端にその顔に柔和な笑みが浮かぶ。
「おじいさま!」
大好きな祖父の訪いに、幼な子の顔にもぱっと喜色が浮かんだ。
「どれ、じいが見てやろう」
孫の隣に腰を下ろした祖父はそう言って文机の上の、まだ墨の乾き切らぬ紙を手に取った。
幼な子は少し恥ずかしそうにもじもじしながら祖父を見上げる。
「うむ。大したものじゃ。まだ五つでこれだけ堂々とした字が書けるとは、さすがは寧八郎じゃ」
「おじいさまほんと? うれしい」
手放しで褒められ、幼な子──寧八郎はまた花が咲くように笑った。
「おお、じゃがこれはいかんな。頬に墨がついておる」
にこにこ笑う幼い孫の顔を満足げに見ていた老人は、彼の頬に墨がついているのに目を留めた。
そして、文机に置いてあった水差しの水を懐紙に含ませると、それで寧八郎の柔らかな頬をちょんちょんと優しく拭う。
「とれた?」
不安げな表情で問う孫を安心させるかのように、皺だらけの顔に笑みが浮かぶ。
「とれたぞ。すっかりいつもの可愛い寧じゃ」
懐紙を文机に置き、祖父は寧八郎のつやつやした振り分け髪を撫でる。
寧八郎はこつんと祖父の肩に頭を預けた。
「寧はほんにかわゆいのう。いったいどこのお家の養子に行くのであろうの。そなたほどの器量ならばどこの大名家も是非にと欲しがって、これは大変じゃ」
「寧は、養子にいくのですか?」
この家にはいられないのですか、と、祖父の腕の中から不安そうに寧八郎が言う。
寧八郎はその名が示す通り当主の八男坊だ。
上に兄が七人もいるのだからいくら優秀でも世子になれるはずもなく、となれば将来は後継のいない大名家に養子に入ることになる。
「寧はずっとおじいさまといっしょがいい」
駄々をこねる。大好きな祖父と離れ離れになるなど、五歳の幼な子にとっては到底受け入れられることではなかった。
可愛らしいわがままを言う孫の髪を、祖父は相変わらず優しい手つきで撫で続けている。
「わがままを言うてはならぬ」
言葉だけは厳しい祖父に、寧八郎の目にじわりと涙が浮かぶ。
「そなたは養子に行って、立派な大名になるのじゃ。じゃがの、寧。この先どこへ行こうが、そなたはずっと、このじいの孫じゃ」
涙をたたえた目を瞬かせながら、寧八郎はじっと祖父を見上げた。
「おじいさまのおじいさまがどなたであったか、寧は知っておるかの」
祖父の問いに、寧八郎はこくりと頷く。
「有徳院さまです」
有徳院殿。俗名を徳川吉宗。幕府中興の祖と今なお讃えられる八代将軍の直系の子孫が我らなのだという話は父からも、そしてこの祖父からも何度も聞かされていた。
「その通りじゃ。我らは有徳院さまの子孫。常に御公儀を守る立場であらねばならぬ。
どこのお家に養子に行くことになろうとも、ゆめゆめそのことを忘れてはならぬぞ、寧。
そして」
祖父の手も声も相変わらず優しい。
優しい声音をついぞ崩すことなく、祖父はこう続けた。
「しかるべきときが来たら、寧、そなたは御公儀のために死になさい」
優しい祖父の口から飛び出した『死』という重苦しい響きに寧八郎は一瞬すくみ上がった。
だが、見上げた祖父の顔は柔和そのもので。
そうか。それはきっと、祖父──松平定信の孫、ひいては徳川吉宗の玄孫に生まれた自分にとって当たり前のことなのだな。
幼い寧八郎はそう理解した。
「はい、おじいさま。寧は御公儀のために死にまする」
舌足らずな声で寧八郎は言った。
*
不意に目が覚めた。
辺りはまだ真っ暗闇だ。
夢見のせいだろうか、ひどく喉が渇いていた。
隣で眠る男を起こさぬように注意しながら、板倉勝静はそっと身を起こした。
夜着の衿元を申し訳程度に整えてから、枕元の水差しに手を伸ばす。
「『寧は御公儀のために死にまする』か……」
夢の中の幼い自分の言葉を反芻する。
祖父の夢を見たのは久々だった。
それはきっと悪夢ではないのだろうが、その夢を見て目覚めるたびに祖父と、そして幼い自分の発した言葉が胸に重くのしかかるのだ。
水で喉を潤していると、隣で男が身じろぎする気配がした。
「眠れないのですか」
まだ半分眠っているような、とろりとした声で問われて、苦笑交じりに答える。
「ちょっと目が覚めてしまって。ごめん、起こしたな」
暗闇の中、寝そべったまま自分を見上げる男と目が合った。
その目に見つめられると、夢のせいで胸に残った重苦しいものがじんわりと消えていくようだ。
男の名は山田安五郎。
勝静よりも十八も上で、学問の師で、備中松山藩主である勝静の政治上の右腕で、そして、おそらく世界で一番好きな人だ。
「夜明けはまだ先です」
安五郎はそう言って勝静の夜着の袖を引いた。
促されるままに、再び身体を横たえてその腕の中に入る。
大好きな男の胸に顔を埋めた。
「どうしたんですか、今宵の殿は甘えん坊ですね」
「たまにはいいだろう」
拗ねたように、あるいは媚びるようにそう言って、その広い胸板の感触を思う存分楽しむ。夢の残滓を消し去ろうとするかのように。
「先生」
安五郎を呼ぶ。
「どうされました」
眠そうな声。だが、頭を撫でてくれる手はとても優しい。同じく『優しい手』でも祖父とは全然違うな、と思った。当たり前だが。
「この藩は、大丈夫だよな」
『この国は』とは聞けなかった。
「何を仰るかと思えば」
安五郎が笑った。勝静の目の前で、男らしく突き出た喉仏が上下する。
「昼間申し上げた通り、十万両あった借金は完済しました。撫育局の動きも順調ですし、これからの数年のうちには逆に十万両の蓄えができますよ」
「そうだな」
勝静は頷いた。
安五郎と出会って、何もかもが順調だ。
思えば、彼と一緒に寝るときに祖父の夢を見て目覚めたことは今まで一度もなかった。
寧は御公儀のために死にまする。
胸に染み付いた幼な子の声を振り払うかのように、布団の中で安五郎の足に自分の足を絡める。
「殿」
たしなめるような安五郎の声。
「殿は私を腎虚で殺すおつもりですか」
「それは困るな」
勝静は笑った。
軽口を叩きながら、思う。
死ぬなどと言うな、寧八郎、と幼い自分に心の中で呼びかける。
山田安五郎と共に、自分は十万両の借金にあえぐ備中松山藩を救った。借金はすでに消え、民は皆生き生きと幸せを謳歌し、藩の蔵には黄金が満ちている。
未来は明るい。
きっと大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
大丈夫だ、きっと。
国のために死ぬ日など、きっと来ない。