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水月庵

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陶工のミューズ




今回の頼重様は受け。

 その少年の出で立ちを見るなり、森島作兵衛は目を丸くして固まった。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す作兵衛に、十やそこらの少年は首を傾げた。
「おっちゃんどうしたん?」
 きゅっと上がった口角から声変わり前の可愛らしい声が漏れる。
「おっちゃんはないやろ、俺はまだ二十九……、いや君くらいの歳の子から見たらもうおっちゃんか……。
 というか、そうやなくてやな、自分その肩に担いでるもんは何なん」
 作兵衛は少年が肩に担ぐようにして持っているそれを指差した。
 ああこれ? と悪びれる様子もなく少年は言う。
「鳥やで。裏の山で猟ってん。これから捌いて焼いて食べるねん」




 右肩で獲物の鳥を担ぎ、左手に種子島を携えた少年は小さな胸を反らしてどこか誇らしげですらある。
「裏の山も、寺の持ち物のはずやけど? 殺生禁止の」
 作兵衛がそう言うと、少年は口を尖らせた。
「そやかてお肉おいしいもん」
 高い位置でひとつに結った長い髪がさらりと揺れる。
 不覚にも、少し可愛いと思ってしまった。
 よく見れば、なかなかに器量が良い。
 寺に住んでいると思しき有髪の少年。
 おそらく稚児や喝食の類なのだろうなと思った。……それにしては些か元気が良すぎるような気もするが。
「坊さんに見つかったら怒られるやろ」
 作兵衛がそう言うと、もう慣れた、と少年は笑った。
「おっちゃんは寺に何しに来たん?」
「おっちゃんはやめぇや。作兵衛や」
 苦笑まじりにそう言うと、少年は大きな目をぱちぱちと瞬かせ、作兵衛、とその名を小さな声で反芻した。
「で、作兵衛は何しに来たん?」
「ああ、俺はこの香炉やら何やらを納めにな」
 そう言って、背に担いでいた荷物を一旦降ろして風呂敷を解き、中の箱に納められた品をちらっと見せてやる。
 作兵衛の職業は陶工だ。
 箱を覗き込むなり、少年は目を輝かせた。
「すごい! これ作兵衛が作ったん?」
「まあ、まだ仁清には全然及ばへんけどな」
 稀代の陶工である野々村仁清を引き合いに出して自嘲してみせた作兵衛に、少年はぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことあらへん! 一回だけ仁清の作品を見せてもらったことあるけど、それよりも俺は断然こっちのほうが好きや」
 そう言って彼はにぱっと笑った。
 が、そのすぐ後にしょんぼりとした顔で俯く。
「まあ、いずれにしろ俺が買えるような代物やないけど……」
 そこまで言われて、悪い気はしなかった。
「それなら今度何か作ってやろうか」
 そう言うと、少年はまた瞳を輝かせる。
「ほんま?」
 答える代わりに、作兵衛は彼の頭をくしゃりと撫でた。
「なんだおまえ、竹丸に会ったのか」
 後日、友人の家を訪ねた折にその少年の話をすると、友人はこともなげにそう言った。
「あの子、竹丸っていうんか」
「殺生禁止の山で鳥を猟って食う子供だろう? そんな奴、あの天龍寺には一人しかいない。いや二人もいてたまるか」
 狭い部屋で勝手知ったる他人の家とばかりに寛いでいる作兵衛に茶を出してやりながら、やれやれと言わんばかりにそう言った男は、名を岡本庄右衛門という。
 もとは福島家の家臣であったが、主家が改易されてからは他の家に仕えることはせずにここ嵯峨野で浪人暮らしをしている。
 浪人の身ながら天龍寺の僧侶たちと交流があり、また京の公家とも誼を通じているらしい、少し底の知れぬところのある男である。
 ちなみに、作兵衛が天龍寺を顧客にできたのも庄右衛門の力によるところが大きい。
 作兵衛の対面に腰を下ろすなり、庄右衛門は大きなため息をついた。
「今日もその竹丸のことで寺に呼び出されて、今しがた帰ってきたところだ。また鳥獣を撃って、しかもあろうことかその肉を寺の厨房で調理して食っていたんだと。
 俺がいくら頭を下げてもあいつに反省の色が全くないんじゃあどうしようもない」
「あの子おまえの隠し子だったのか」
 目を丸くして問うた作兵衛に庄右衛門は苦笑した。
「まさか。俺の子じゃない。仔細は言えぬが、さる公家より預かった子だ」
「いわくつきか」
 そうは見えなかったが、と作兵衛が呟くと、庄右衛門は肩をすくめる。
「そこいらの子供と全く変わらず、能天気なものだろう。それが良いところでもあり……」
 最後まで言わず、庄右衛門は温くなった茶を啜った。
「ま、おまえもまた寺に行けば竹丸に会う機会もあるだろう。そのときは構ってやってくれ」
 湯呑みを置き、そう言った庄右衛門に、作兵衛も笑って頷いた。
 それからしばらくして、また天龍寺を訪れた帰り。天龍寺の塔頭のひとつである慈済院を訪ねると、思った通り竹丸がいた。
 縁側に腰をかけ、暇そうに足をぶらぶらさせている。
 作兵衛に気がつくと、沓脱石の上に置いてあった下駄をひっかけ、カランコロンと足音を立てながら駆け寄ってきた。
「今日は狩りはせぇへんのか」
 竹丸を胸で受け止めつつ、問いかける。
「こないだ怒られたばっかりやからな。当分はやめとく」
「『当分』か」
 そう言ってやると、竹丸は悪い顔で笑った。
 普通の、どこにでもいるやんちゃ坊主の表情だ。だが、ふさふさと豊かな前髪越しにもわかる形良く秀でた額や黒目がちの目を囲む長い睫毛はやはり市井の子とは思えない。
「そうや。今日はおまえに渡すもんがあるんや」
 そう言って、作兵衛は袖からあるものを取り出した。
 包紙でくるまれたそれは、手のひらに乗る程度の大きさの武者人形だった。陶器でできている。
 皿のような形にして差し出された竹丸の手にそれをちょこんと乗せてやると、彼の顔がふわっとほころぶ。
「俺にくれるん?」
「何か作ってやる言うたやろ」
 頷きつつそう言ってやると、竹丸は心底嬉しそうにその人形を胸に抱いた。
 喜んでくれて良かった。
 作兵衛は胸を撫で下ろした。
 作兵衛自身、それは会心の出来だった。
 人形だけではない。
 今日寺に納めてきた茶碗や茶壺など、もしかしたら竹丸の目に触れるかもしれないと思いながら作った作品はどれも、自分でも驚くほど納得のいく仕上がりだった。
 ひょっとするとこの悪ガキは自分に霊感を与えてくれる芸術の神なのかもしれない。
「おおきに」
 竹丸がにこりと笑う。
「今日からこの人形のこと、作兵衛やと思って抱いて寝るわ」
 下から上目遣いに見つめられ、そう言われると何だか変な気持ちになる。
 相手は十を少し過ぎたばかりのほんの子供なのに。
「お、おう。そうか」
 作兵衛のどこか挙動不審な様子に気づいているのかいないのか、竹丸は相変わらずにこにこと笑っていた。
 それから、作兵衛は天龍寺へ赴くときには必ず慈済院に寄って竹丸に会うようになった。
 いつ見ても彼は元気いっぱいだった。
 走り回って転んだらしく膝を擦りむいていたときもあったし、相変わらず狩りは続けているようで彼の狩ってきた獲物をこっそりご馳走になったこともあった。焼き加減も味付けも完璧だった。とはいえど、褒めてやるわけにはいかないが。
 その日は寺の僧侶たちと話し込んでいたせいですっかり夕方になってしまった。
 今日は慈済院に寄る時間はないか、と少し残念な気持ちになる。
「ほなそろそろ行きますわ」
 僧侶たちに断って腰を上げ、宿坊の襖を開ける。
 そして廊下に出ようとしたちょうどそのとき、他の誰かが廊下を歩いてくる気配を感じて作兵衛は一瞬動きを止めた。
「ああ作兵衛はん、今は出はらんほうがよろしおす。喝食が和尚はんのとこへ向かうところやよって」
 先程まで話していた僧侶が苦笑まじりにそう言う。
 喝食とは僧侶の身の回りの世話をする有髪の者のことである。それは専ら見目の良い少年であることが多い。つまり、そういうことだ。
「お盛んなことで」
 作兵衛は肩をすくめた。
 衣擦れの音が近づいてくる。
 どうせならばその美少年を一目拝んでやろうではないかという好奇心から、襖は開けたままにして、廊下のほうに目を向ける。
 小坊主の先導で、喝食が姿を見せた。
 白地に金糸銀糸の刺繍が施された小袖を身にまとい、綸子の帯を左の脇で結んでいる。
 濃い飴色の長い髪がまるで川のように細い背に流れていた。
 薄く白粉の塗られたその小さな顔を見たとき、作兵衛は思わず声を上げそうになった。
 襖が開いているのを不審に思ったのか、喝食がこちらを見る。
 彼の歩みがぴたりと止まった。
 黒目がちの目を見開き、小さな唇をわずかにわななかせる。
 その目は今明らかに作兵衛を映していた。
「竹丸どの、何したはるんどす、早う」
 先導役の小僧が焦れた口調で言う。
 その声に急かされ、喝食は……竹丸はすっと作兵衛から目をそらし、歩を進めた。着物の裾から小さな素足がちらりとのぞく。
 何も言えず、作兵衛はその姿を見送った。
「もう来てくれへんかと思った」
 またしばらくして、慈済院を訪れた作兵衛に、いつものように縁側に腰かけた竹丸はそう言った。
「しょうがないやろ。やっぱりおまえに会いたかったんや」
 作兵衛が言うと、竹丸は一瞬目を瞠った後、恥ずかしそうに笑った。
「物好き」
 下駄の音を鳴らして作兵衛に歩み寄る。
 そのまま作兵衛の胸に顔を埋めた。
 咄嗟に少年のその背に手を回そうとして、すんでのところで思いとどまった両手が所在無げに宙をさまよう。
 相手は住持の寵童だ。一介の陶工が手を出していい相手ではない。
 それに、胸から感じる高い体温も柔らかな髪や肌も、まだ子供だ。
 子供に手を出すようなところまで堕ちたくはなかった。
 竹丸の手が作兵衛の着物を掴む。
 今ここで抱きしめ返しても、竹丸は受け入れるだろう。
 だが結局、作兵衛はそうしなかった。
 ややあって竹丸が身体を離した。
 作兵衛を見上げるその顔は少しふくれっ面だ。
「そないな顔したらますます子供や」
 わざと意地悪くそう言ってやると竹丸はぷいっとそっぽを向いてしまった。
 が、すぐに顔を元に戻す。
「お? 何や誘惑してくれるんか?」
 余裕ぶってからかった作兵衛のその言葉には乗らず、相変わらず竹丸は作兵衛の顔をじっと見上げている。
「前から思っとったけど」
「ん?」
「作兵衛って意外と整った顔してんねんな」
「意外って何や。俺は元々水も滴るええ男や」
 作兵衛の軽口に竹丸がにっと笑う。
「その無精ひげをちゃんと剃って、適当に結んでるその髪もちゃんと髷の形に整えたらほんまにかっこいいと思う」
 作兵衛は笑った。照れ隠しだ。
「俺はええんやこのままで。もう武士でもあらへんし身なりに気ぃ遣う仕事でもなし」
「『もう』?」
 竹丸が首をかしげる。
「そういや言ってなかったか。こう見えて昔はそこそこの武家の子やったんや。ま、うちは豊臣方の旗本やったさかい大坂の役で没落して今はこのざまやけどな」
「豊臣方の……」
 竹丸の眉尻がわずかに下がる。どうしたのだろうと思っていると、竹丸は続けてこう言った。
「ほな徳川は嫌い?」
 作兵衛は首を横に振る。
「大坂の役いうても俺がちょうど今のおまえくらいの歳のときや。それに親を殺されたわけでもないしな」
 作兵衛がそう言うと、竹丸は何故か少しほっとしたような顔をした。
 すでに陽は西に傾いている。最近めっきり陽が落ちるのが早くなった。
 西日が照り映えて紅葉が一層紅く染まっている。
「竹丸。またな」
 作兵衛の言葉に竹丸がうん、と頷く。その拍子に揺れた長い髪も西日に染まって茜色だ。
 門に向かって二、三歩進んだところでふと振り返ると、竹丸はまだその場に立って作兵衛を見送っていた。
 そんなに名残惜しそうにしなくてもまた来るのに。
 そう思うと知らず笑みが漏れた。
 そして、その次に作兵衛が慈済院を訪れたとき。
 竹丸はどこにもいなかった。
「庄右衛門」
 作兵衛は無理やり首をねじり、友を見上げた。
「なんだ?」
 正面に立つ岡本庄右衛門が友を見下ろす。
「こんなときに何やけど、再就職おめでとう。いやぁなかなか言う機会がのうてな」
「ああ。ありがとう」
 最後に竹丸に会ってから十年余りの歳月が過ぎた。
 このままずっと気ままな浪人のまま過ごすのかと思っていた庄右衛門が再び仕官したのは、数ヶ月前のことだった。
 本当はすぐに会って祝いの言葉を述べ、祝いの品でも拵えてやりたいところだったが何かと忙しく、機会がなかった。
 仕官すればすぐにでも主家の領国なり江戸なりに旅立つのかと思いきや、何でも彼は京で留守居役のようなことをするらしく、狭い家を出て主家の京屋敷に移った以外は特に変わりがなかったのでまあ会うのはいつでもいいか、と思って今日まで来てしまった。
「よし。しっかり押さえておけ。逃がすなよ。ああでも腕は傷つけてはならん。職人の命だ」
 庄右衛門が手下らしき男に命じる。
 そう。森島作兵衛は今、再仕官を果たした友とその手下によって床に組み伏せられていた。
「立たせろ。このまま殿の御前に連れて行く」
 庄右衛門の言葉を受け、手下達は作兵衛の腕を後ろ手に押さえつけたまま強引に立ち上がらせた。
「何やねん」
 友を睨みつける。
「おまえが悪いんだろう。我が殿がせっかくおまえを召し抱えたいと仰せなのに断ったりするから」
 その言葉を鼻で笑う。
「断るなら力づくで連れて来いとは。おまえもえらいとこに仕官したもんや」
 何がおかしいのか、庄右衛門はふっと笑った。
「そうだな」
 庄右衛門に引っ立てられ、作兵衛が連れてこられたのは嵯峨野にある真新しい大名屋敷だった。
 数年前に四国高松に入封した松平右京大夫頼重の京屋敷だという。
 確かに嵯峨野は風光明媚な土地ではある。
 が、四国とは特に縁もなければ大坂からも京の中心部からも離れたこんな場所に屋敷を建てるとは酔狂な殿様だ。
「殿のおなりである。平伏せよ」
 豪奢な襖絵に囲まれた大広間に連れてこられ、また頭を押さえつけられる。
 真新しい藺草の香りがした。
「そのほうが森島作兵衛か」
 上座に設えられた席にゆるりと腰を下ろしたらしき高松藩主、松平頼重が言う。若々しい声だ。
「そなたを召し抱えたいという予の頼みを断ったそうだな。禄が気に入らぬなら倍にしても良いぞ」
 頭上に降り注ぐ声に、作兵衛はそういうことではなく、と反駁した。
「おい、殿に直接話しかけるとは何事か」
 庄右衛門から厳しい声が飛ぶ。
 ちらりと彼の顔を伺うと、見たこともないほど険しい顔をしていた。
「良い。直答を許す」
 再び、殿様の声が響く。
「それでは高松の殿様に申し上げます。いかに大金を積まれようともこの森島作兵衛、貴方様のための物作りはいたしません」
 きっぱりと告げた作兵衛に、周りの藩士達が何だと、と一斉に気色ばむ。
 鯉口を切る音まで聞こえた。
「構わぬ。続けよ」
 それを宥めたのはまたしても殿の声だった。
「何も貴方様が気に食わぬと申しているのではございません。ただ、私がこの腕を捧げる相手はただ一人と心に決めております。私の作品は皆、そのたった一人を想って作ったもの。他の誰かのためには作れません」
「ほう? そなたほどの職人にそこまで言わしめるとは、その者は果報者よの。どこの誰だ」
 殿様はどこか、面白がっているような声音だった。
「今、どこで何をしているのかは……いや、その生死すらも存じません。ただ、十年ほど前に天龍寺にいた喝食で、名を竹丸と……」
 一体、自分は初めて会う、しかも引っ捕えて自分の前に連れて来いと無情な命令を出した殿様に向かって何を言っているのだろう。
 庄右衛門の顔を再び伺えば、彼の顔はますます険しくなっていた。
 竹丸は今、どこで何をしているのだろうか。今もなお自分に霊感を与えてくれるあの子は生きているのか、いやもうこの世にはいないのかもしれない。
 ここで高松藩主に無礼打ちにされれば、あの子に会えるだろうか。
 状況もわきまえず湧き上がってくる感傷に蓋をするように、作兵衛は平伏したまま口角を吊り上げた。
「ともかく、貴方様には仕えません。お怒りになったのならばどうぞ切腹をお命じください。
 こう見えて元は千五百石の豊臣直参の旗本の倅でしてなぁ。切腹の作法くらいは心得ておりまっせ」
 広間は水を打ったように静まり返った。
 どこまでも無礼な陶工に、殿様はどのような制裁を加えるのかと皆が固唾を飲んで見守っている。
「十年ほど前に生き別れた喝食か。生死も分からぬ少年に魂を捧げるなど馬鹿のやることだ」
 衣擦れの音とともに、殿様が立ち上がる。
「その少年がいかに美しかったとしても──」
 殿様はそのまま、作兵衛のほうへと歩み寄ってきた。
「十年前に少年やったんなら今はもう」
 徐々に近づいてくる殿様の声に、作兵衛は心の中であれ?と首を傾げた。口調が変わったような。
 殿様が作兵衛の目の前にしゃがみ込む気配。
 顎に何か冷んやりとしたものが触れた。
 殿様の持つ鉄扇だ。
 閉じた鉄扇を顎に当てられ、そのまま顔を持ち上げられる。
「ええ大人やで。なぁ?」
 鉄扇で作兵衛の顎を持ち上げ、その顔を覗き込んで笑う、その顔。
「えぇ!?」
 たまらず、作兵衛は素っ頓狂な声を上げた。
「竹丸!?」
 無礼にも殿様の顔を指差し、作兵衛は絶叫した。
「気づいてくれへんかったらどうしようかと思った」
 鉄扇で作兵衛の頬をペチペチやりながらそう言った松平頼重は、すっかり大人になってはいるがまごうことなくあのときの竹丸が成長した姿だった。
 背が伸び、骨も太くなり、長かった髪もバッサリ切って後頭部でひとつにまとめている。そして、少し日に焼けていた。
「知ってて黙っとったんか」
 自分をここまで引きずってきた友人を、恨みがましい目で振り返る。
 庄右衛門は俯いて小刻みに震えていた。
「いや前もって話そうとはしたんだが到底信じてはもらえぬと思ってな。それにしてももうさっきまで笑いをこらえるのに必死で……何度も吹き出しそうになってその度に頬の内側を噛んでいたから口の中が痛くて……」
 もはや堪えきれなくなったらしく、庄右衛門はつっかえつっかえそう言った。
「ああそうかい」
 さぞかし滑稽だったことだろう。何せ目の前に本人がいるとはつゆ知らず十年以上変わらぬ愛を切々と語っていたのだから。
「作兵衛」
 竹丸改め頼重が十年以上の時を経てその名を口にする。
 すっかり大人の声だ。それなのに何故か懐かしい。
 鉄扇を懐にしまい、頼重は作兵衛に手を差し伸べた。
「俺と一緒に讃岐に来てくれる? 遠いし、京や江戸と比べたらまだ田舎やけど、でも海が綺麗で気候もええし悪いところではないと……」
 皆まで言わせず、作兵衛は頼重の手を握り返した。
「おまえが治める国やろ。それだけで充分や」
 青い空と青い海。その真ん中に真っ白な帆を掲げ、高松藩主の御座船は進む。
 陸地がどんどん小さくなってゆく。
 甲板の柵に頬杖をつき、作兵衛は遠ざかる大坂の町を見つめていた。
 伏見から川舟で淀川を下り、大坂湾で堂々たる御座船に乗り換えたのが今しがたのこと。航海が順調に進めば明後日には高松の城下に着くという。
 いつぞや竹丸に言われた通り、無精髭をさっぱり剃り落とし髪も整えたのだが、どこか落ち着かないのはそのせいだろうか。それとも、海風か。
「寂しい?」
 背後から声をかけられ、振り向く。頼重だ。出立のときの華やかな装束から寛いだ普段着に着替えている。
 頼重はそのまま作兵衛の隣に並んだ。
「そんなわけあるかいな」
 作兵衛が笑う。
「竹丸」
 名を呼びつつ、柵に乗せられた彼の手に自分の手を重ねた。そのままその手を掴んで引き寄せる。
 頼重は大人しくその腕の中に身を預け、作兵衛の背に手を回した。
「大きゅうなったなぁ」
 背はもう殆ど変わらない。
 頼重は照れくさそうに笑った。
 海に聳える玉藻城を戴く瀬戸の都まであと二日。
 二人きりになれるところへ行こうか。
 そう言って、頼重は作兵衛の袖を引いて船室へと歩き出した。

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