2015/09/23 Category : ナイルの雫 ナイルの雫 第6章 「そんな怖い顔、すんなって」牢へ入ってきた男は、身構えるアイリとメイを見るなりそう言って肩をすくめた。信じられない、というようにアイリが2、3度瞬きをする。メイは咄嗟に、自分の頬を親指と人差し指で抓った。「い……痛いっ」思わず顔をしかめるメイに、その男はふっと微笑んで見せた。「何やってんだ、馬鹿」アイリとメイがほぼ同時に叫ぶ。「キアン!」「お兄様!」二人の前に現れたのは、紛れもなく、メイの兄であるキアン将軍その人だった。「でも、何でキアンがここへ?」再会の喜びの波がとりあえずひいた後、アイリが問うた。「ああ、まぁ何つーか。 そこの門番を殴り倒してきた。 助けにきたんですよ、囚われのお姫様を。 ジェセルと二人で」キアンの言葉にアイリは片眉をつり上げた。「ったく、誰が姫だよ………って」アイリのうんざりしたような言葉が、一瞬止まる。「今おまえ何て言った? ジェセルがどうとか言わなかったか?!」掴み掛からんばかりの勢いのアイリにやや気圧されつつも、キアンは頷いた。「いますよ、あいつも。この宮殿の中に。 何か考えがあるって言うから今は別行動ですがきっとすぐにあいつもここに……」ジェセルが、ここに?アイリの胸に、熱いものが込み上げた。たかがアイリ一人のために国を放り出して、自らの身の危険まで冒してこんなところへ来るなど、一国の王として、しかも名君と謳われるジェセルカラー王として決して誉められた行為ではない。むしろ、馬鹿だ。大馬鹿だ。そうは思うけれど、事実自分はその馬鹿な行為を嬉しがっている。馬鹿はお互い様かもしれない。嬉しさと、嬉しいと形容するには激し過ぎるような感情がないまぜになってアイリの心を揺さぶる。アイリは思わずキアンとメイから顔を背けた。これでも自分は男だ。みっともなく泣くところなど、見せるわけにはいかない。 しかし、アイリが涙をこぼすことはなかった。束の間喜びで満たされた牢に、招かれざる客がやってきたからだ。「あら、見慣れない人がいるわね」涼しげな声で、客……シェンナ皇妃が言う。その口許には、笑みすら浮かんでいる。そして彼女は後ろに、大勢の兵士を従えていた。大勢の屈強な男達は、たおやかな彼女にはどうも不似合いだ。「あなた、その肌の色はエジプト人ね。 一体何をしにいらしたのかしら?」シェンナがキアンを指して言う。「その言葉、そっくりそのまま返すぜ、皇妃。 娘の部屋へこんなにたくさん男つれてくるとは穏やかじゃねぇな」キアンはそう言ってにやりと笑った。シェンナがアイリに目を向けた。「長い間、こんなところに閉じ込めてごめんなさいね。 でもそれも今日で終わりよ。 あなたには、ここで死んでもらうわ。 ……大丈夫。もうあなたの夫にはあなたは急病で死んだと伝えてあるから」それと、と彼女は目をキアンに戻す。「随分と派手に門番をやってくれたようね。 お礼はさせてもらうわ」シェンナがずっと口許に浮かべていた笑みを消した。それが、合図だった。ヒッタイトの兵士が一斉に武器を構える。隙のない、よく訓練された動きだった。「……来るぞ」キアンが剣を抜いた。アイリは心配げな表情でメイを振り返った。「大丈夫です、王妃さま。 私もこう見えてもこの人の妹……武門の家の娘ですから」自分の身くらいなら守れますわ、とアイリを安心させるように、メイが微笑む。三人は背中を合わせ、互いに死角を埋め合うような陣形をとった。キアンに斬りつけられた兵士が取り落とした剣を、アイリが拾う。随分と久しぶりの鉄剣の感触だ。ざっと見たところ、皇妃の私兵は15人以上はいる。対するこちらはたったの三人。言うまでもなく、圧倒的に不利な状況である。だが。アイリは、隙のない動きで敵を斬り活路を開くキアンの姿を見た。そうだ、こちらにはエジプト最強と謳われるキアン将軍がいるのだ。それに、ジェセルもここへ来ていると、キアンは言った。もうすぐ会えるのだ、彼に。こんなところで死にたくない。ジェセルの顔を見るまでは死ねない。自分でも驚くほどの、強い気持ちだった。アイリは思う。未だかつて、こんなにも強く、生きたいと願ったことがあったろうか、と。何としてでも、ここから脱出して、生き延びてみせる。アイリは前を見据えた。繰り出される剣を受け止め、弾き飛ばす。返す刀で、相手を袈裟懸けに斬りつけた。「久しぶりの勇姿ですね、アイリさま」前方で戦っているキアンが敵の攻撃を躱しながら余裕の表情で振り返り、にかっと歯を見せて笑う。「軽口叩いてないで真面目に戦え」アイリはそんなキアンに渋い表情を返した。アイリはメイを見やった。彼女も応戦中だった。自分の身くらい守れます、という彼女の言葉はどうやら真実だったようだ。とりあえず良かった、と胸を撫で下ろし、アイリは改めて敵に向き直った。敵の足元を、アイリの剣が一閃する。目の前の兵士はなす術もなくその場に頽れた。もともと、そう広くはない室内である。出口はもう、すぐそこだ。それを見て取り、アイリは額の汗を剣を持っていない方の手の甲で拭った。その僅かな油断がいけなかった。「王妃さまーっ!!」メイが殆ど悲鳴のような声で叫ぶ。何事かと振り返ろうとしたその瞬間、アイリは右肩に灼熱を感じた。一瞬、何が起こったのか全く分からなかった。後ろから斬られたのだと理解する頃には、灼熱は鋭い痛みに変わっていた。力を失ったアイリの手から剣が滑り落ち、床に当たって乾いた音を立てる。拾わなければ。そう思って、アイリは床に膝をついた。その瞬間、恐らくアイリを斬った張本人であろう兵士に小突かれ、アイリは床に俯せに倒れた。倒れながらも、アイリは辺りを見渡す。そして、愕然とした。さすがは訓練された兵隊。敵は随分と巧妙だったようだ。彼らは最初から、キアンとメイを極力アイリから引き離すように計算して、戦っていたのだ。二人の姿は……実際、距離的にはそんなに遠くはないのだろうが、今のアイリには遥か彼方に思えた。「終わりだな」手間取らせやがって、とでもいうような声が上から降ってくる。そして、兵士が剣を構える気配。アイリは咄嗟に身を捩った。脇腹に鋭い痛みが走る。次いで、兵士の舌打ちの音が耳に入る。咄嗟に身を捩ったおかげで、心臓を貫くはずだった剣は脇腹を掠めるに留まったらしい。だが、状況は決して良くはなかった。肩と脇腹の傷は恐らく、浅くない。傷口から血がドクドクと体外に流れ出ていくのを感じる。そして、アイリの周りに集まってくる、兵士達の足音。だが、まだ身体は動く。アイリの目が、先程自分が落とした鉄剣を捉えた。こんなところで、殺されてたまるか。その一心で、アイリは匍匐前進のような態で進み、剣に手を伸ばした。後もう少し。肩の痛みをこらえ、アイリは必死に手を伸ばす。中指が剣の柄に触れた、と思った瞬間その手を思いきり踏まれた。そして両手を背中で纏めて固定され、身体を強い力で床に押し付けられる。肩の傷の、引き絞られるような壮絶な痛みに食いしばった歯の間から思わず呻き声が漏れた。何故だ、とアイリは思った。仮にも自分は、この国の皇族なのに。もし母親が今も存命であったなら、自分はこの国の頂点に立てたかもしれぬ身なのに。そんな自分が、こうして賤しい男共に押さえつけられ、襤褸布のように死ぬのだと思うと何だか滑稽だった。兵士が剣を構えたのが気配で分かった。「アイリさま!」ようやく自分の敵を片付けたキアンが、こちらへ走り寄ってくる。だがきっと、もう間に合わない。今までの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。幼い頃の、乳母との記憶。テオと皇宮の庭……母が造ったシェン=アーラの庭だったか、を走り回った記憶。驚いたことに、今自分を殺そうとしているシェンナ皇妃との思い出もあった。だが、やはり一番多いのは、ジェセルとの思い出だった。思えば、彼に初めて会ったのは、ちょうど今のような状況の中だった。賊、いやシェンナ皇妃の私兵に襲われて絶体絶命だったアイリを、間一髪でジェセルが救ったのだ。……ジェセル、最期に一目、おまえに会いたかったなぁ。ジェセルの姿を頭に思い描きながら、アイリは目を閉じた。どさり。予期していたのとは全く違う衝撃に、アイリはゆっくりと目を開いた。首を回して確認すると、アイリを殺そうとしていたはずの兵士がアイリに覆い被さるように倒れている。兵士は、目を見開いたまま死んでいた。矢が、兵士の頸動脈を貫いていた。アイリは屍の下から這い出し、辺りを見回した。まさか。まさかまさかまさか。そのまさかだった。開け放たれた出入り口の向こうに、弓を構えて立つ男は、紛れもなくジェセルカラーその人だ。同じだ、あのときと。「遅くなって悪かった。ちょっと調べ物をしてたんだ」ジェセルがそう言って、アイリに微笑む。ジェセル、と叫びそうになったアイリを目で制し、ジェセルは次の矢を構えた。その照準を、今まで高みの見物を決め込んでいたシェンナ皇妃の心臓に定める。そして、部屋中に散らばった兵士達をじろりと睨み付けた。「おまえら、その三人に指一本でも触れてみろ。 皇妃を殺すぞ」弓を構えたまま、ジェセルが言う。ジェセルの声に、凍り付いたように兵士達がその動きを止めた。だが、弓を向けられた当のシェンナ皇妃だけは平然として、眉ひとつ動かさなかった。「あなたが一人増えたからって、三人が四人になっただけじゃない。 一体何ができるって言うの。 所詮、無駄な足掻きだわ」ジェセルは静かに弓を降ろした。そして、シェンナを見据える。「もうこんなことはおやめになっては? シェンナ皇妃……、いやリーズ姫」リーズ姫?ジェセルの言葉は、アイリやキアン、メイには何のことだか全く分からなかった。だが、シェンナ皇妃は明らかにその言葉に動揺している。心臓に弓を向けられてさえ、平然としていたのに。「ど……どうして? どうしてあなたがその名を?」「古参の女官から聞きました。 実はさっき、シェン=アーラの庭であなたを見かけたんです。 そのとき、あなたが言ったことに引っ掛りを覚えたものですから。 自分はいつまでシェンナなのか、と仰いましたよね。 俺はずっと、あなたがアイリを殺そうとするのは権力が絡んでのことと思っていました。 でも、そうじゃなかったんですね。シェン……リーズさま」ジェセルの言葉に、シェンナは苦笑混じりにそうよ、と答えた。「あなたの言う通りよ。 私の名前、本当はリーズっていうの。 シェンナというのは、あの人……皇帝が私につけた名前。 あの人の前妻、シェン=アーラ皇妃の愛称なのよ」その言葉に、皆が目を見開いた。信じられない。新しい妻を、前の妻の名で呼ぶなど。悪趣味にもほどがある。シェンナは続ける。「本物のシェンナは他国の王女だったらしいけれど、私はこの国の、単なる地方長官の娘に過ぎなかった。 陛下と初めてお会いしたのは、今から17年前、私が15歳のとき。 父が長官を務める地方に、陛下が視察にいらしたの。 そのときの陛下はまだ、妃を亡くした悲しみから立ち直っていらっしゃらなかったのね……とても寂しそうな顔をなさってたわ。 それが、私の顔を見た瞬間、その悲しみが晴れたような顔をなさったように思ったの。 今から思えば、きっと陛下は亡き皇妃に生き写しだった私に、皇妃の面影を見たのでしょう。 でも当時の私はそんなことは知らなかった。 陛下が私を求めてくださり、そして身分の低い私を正妻にしてくださるという言葉がただ、嬉しくて。 私は本心から、随分と年上の陛下をお慕いするようになった。 シェンナと呼んでもいいか、というお言葉は、確かに腑に落ちないものだったけれど、 陛下が下さった名なら、と思ったわ。 皇宮へ来て初めて知った。 私が前皇妃に生き写しであること、そして、陛下が本当に求めたのは私ではなく、私の中の、本物のシェンナの面影だってことを」シェンナはアイリを見た。「それでも私、陛下のことをお慕いする気持ちは変わらなかったし、アイリ、あなたのことも自分の子として愛そうと努力はしたのよ。 でもあなたが余りにも、本物のシェンナに似てきたから……」シェンナの言葉に、キアンはそうだったのか、と思った。シェンナは、アイリに似ているのだ。共に、シェン=アーラに似ているから、二人の容貌は似通っていたのだ。恐らくジェセルはもっと早い段階でそれに気づいて、彼女の出自を調べようとしたのだろう。「アイリ、あなたは私よりも出来のいい『シェンナ』になっていった。 もちろん、陛下が近親相姦しようとしたなんて言わないわよ。 言わないけど、段々陛下の心の比重が私よりもあなたに傾いていったのは事実。 ちょうどそれくらいの時期に私の実子、カランとシャラが産まれたこともあって、 私は、もはやあなたを子供……愛すべき対象として見られなくなった」「あなたよりも、私のほうが母に似ていた……あなたの存在意義を脅かす存在だったから私を憎んだというのはわかった。 けど、私はあなたや父の前から消えたのに、それなのに私を執拗に殺そうとするのは一体どうして」アイリが問うた。シェンナは苦笑した。「嫉妬よ。 ……私はシェンナとしてしか生きられないのに、私よりも出来のいい『シェンナ』であるあなたは、シェンナではなくあくまでもアイリだったから、かしらね」「どういうことです」「私、あなたに嫉妬してるの」シェンナは遠い目をしていた。「せめて『シェンナ』としてはあなたに勝ちたかった。 もっと欲を言えば、私も、誰かの身代わりとしてじゃなく自分自身に向けられる愛が欲しかった。 あなたがエジプトに嫁ぐって聞いたとき、どうしてって思った。 私は偽物のシェン=アーラとしてしか生きられないのに、私よりももっと出来のいい偽物であるはずのあなたは、なぜ自分自身の人生を歩むことが許されるのか、って……」シェンナは自嘲の笑みを浮かべた。「シェンナという名前は、私をシェン=アーラでもリーズでもない化け物に変えたのかもしれない」でも、それももういいわ、と疲れた声でシェンナは言った。「馬鹿なことをしたわ、私。 あなたを殺したって、仕方ないものね。 私が本当に殺したいのは、既に死んでいる本物のシェンナなのに」シェンナは合図をして、私兵を退かせた。「行きなさい。もう私、あなたのことはどうでもいいわ。 早くエジプトに帰ればいい。 尤も、私が私兵を退かせたからって、見るからに怪しいあなた達が無事にこの皇宮から出られるとは思えないけれど」「ここを出る前に、あなたにひとつ聞きたい」アイリが言った。アイリが、真直ぐにシェンナを見つめる。「もしも私が、母には似ても似つかない……そう、例えば私が男だったら、あなたは私を我が子のように愛してくれた?」こんなひたむきで切実なアイリの声を、ジェセルは今まで聞いたことがなかった。アイリがシェンナに、そうだと言って欲しいのか、いやそんなことはないと言って欲しいのか。ジェセルには分からなかったし、実際当のアイリにもよく分からないのではないか。ただ、生まれてすぐに母を亡くした幼いアイリはきっと、母に生き写しだという彼の人に母の愛を求めたのではないだろうか。そして、シェンナがそれに応えようとしていた時期も、おそらくあったのだ。しばらく考え込んだ後、シェンナは笑って首を横に振った。「有り得ないわ。もしあなたが男だったら、それこそカランの皇位継承争いの相手になってしまうもの」シェンナの答えに、アイリはそうですね、と笑った。アイリは傷の痛みを堪えて立ち上がった。そして、ジェセルとキアン、メイに言う。「じゃあ、帰ろっか」その口調は、不自然なほどに軽々しかった。出入り口まで歩いたところで、アイリはシェンナを振り返る。「さようなら……」少し迷った後、アイリは言った。「さようなら、シェンナどの」*「傷、痛むか?」牢を出てから、ジェセルが気遣わしげに聞いた。「痛まないわけないだろ」そう言って、アイリが苦笑する。アイリは、けど、と続けた。「まだ皇宮、いや、ハットゥシャの城壁を出るまでは油断できな……」アイリはそこで唐突に言葉を切った。そして眉を顰めて、うわ、と呟く。廊下の角を曲がった瞬間、四人の目に飛び込んで来たのは夥しい数の衛兵だった。「侵入者ありってことで警備が強化されたのか……」キアンが呆然と呟く。さすがにこれは、無理だ。こちらは四人しかいない上に、うち一人は怪我人なのだ。四人の気配を感じ取ったのか、衛兵の一人がこちらへ向かってくる。四人はもう一度廊下を戻り、壁に張り付くようにして息を殺した。が、その衛兵が四人の居るところへ到達することはなかった。第三者が、衛兵の行く手を遮ったからだ。「お役目ご苦労」辺りに、声変わりはしているもののまだ少年っぽさを残した声が響く。四人は廊下の角からそっと身を乗り出した。衛兵の行く手を阻んだのは、身なりのいい、華奢な少年だった。衛兵は少年の姿を見るや、がばりと平伏した。その少年の姿に、アイリがぽつりと呟く。「……カラン?」へ、と他の三人が間抜けな声を出す。「カラン……って、カラン皇太子のことか?」ジェセルの問いに、アイリはこくりと頷いた。「侵入者はどうやらこちらには来ていないらしい。 それよりも、南の方を確かめたらどうだ?」衛兵と向き合ったカランが言った。侵入者は北へ向かったと、衛兵は聞かされているのだろう。腑に落ちない顔をしたが、皇太子の言に逆らえるはずもなく彼は去っていった。それとともに、他の衛兵達もその場を離れていく。カランがこちらを振り返った。「もう大丈夫ですよ」ヒッタイトの男らしく、亜麻色の髪を長く伸ばしたカランは、アイリにもシェンナにもあまり似ていなかった。おそらく彼は父親似なのだろう。「どうして、おまえが私達を助けてくれるんだ?」怪訝な顔でアイリが問う。カランは苦笑した。「弟が姉を助けちゃいけませんか?」「いや、だって……。 ここで私をエジプトへ逃がして、おまえの母がやったことを私がエジプトで暴露すればエジプトとヒッタイトの全面戦争になるんだぞ。 ヒッタイト皇太子としては、私達にはここで死んでもらった方がいいんじゃ?」「それはごもっともです。 でも、恐らくあなた達がここであったことを暴露することはないでしょう」そこで一旦言葉を切って、カランは目をジェセルに移した。「だって、あろうことか他国の宮殿に不法侵入したなんて、バツが悪くて言えないでしょう、ジェセルカラー王?」ジェセルは目を見開いた。「何……だと?」どうして自分の正体を、この少年は知っている?カランはにやりと笑った。「少々気持ち悪い言い方をすれば、あなたのことは何でも知ってるんですよ、といったところでしょうか。 隣国の王の動向を知ることは、外交政策の基本ですからね」「間諜、か。抜け目ないな」ジェセルが苦笑いで答える。カランは長い髪を掻き揚げつつ言った。「まあでも安心してください。 ジェセルカラー王がここにいることは、私以外は誰も知りませんから。 私はこのことを誰にも口外せず、あなたたちを外へ逃がす。 そしてあなた達は母のことを誰にも言わない。 結果、わが国とエジプトの友好関係は保たれ、あなた達は元通り、エジプトで幸せに暮らせる。 文句はないはずだ」カランはついて来い、というように歩き出した。ハットゥシャの城門のところまで、安全に送り届けてくれるらしい。「皇太子殿下。今ここで俺を殺せば、エジプトが手に入るんだぞ?」前を行くカランの背中に、ジェセルは思わずそう言っていた。よせばいいのに、と自分でも思ったが。カランが振り返った。「貴国と我が国は友好国ではありませんか。 我が国が欲しいのは、エジプトの国土ではなくエジプト王国との友好ですよ」それに、とカランは続ける。「あなたは殺すには惜しい王だと思います。 若年でありながら、名君の呼び声高いあなたに、実を言うと少し憧れてもいるんです。 私は、将来即位した暁にはあなたのような王になりたいと思ってるんですよ」そう言って微笑うカランに、ジェセルは苦笑で応えた。「買い被り過ぎだ……それに、俺は他国の宮廷に間諜なんか送ってない」カランがぷっと吹き出した。とことん食えないこの男も、そういう顔をすれば年相応の少年に見えるらしい。「カラン殿が皇帝となったヒッタイトと渡り合ってかなければいけないとは……末恐ろしいよ」ジェセルの言葉にニヤリと笑みを返してから、カランは言った。「そうそう、あなた達を助けたのはもうひとつ理由があるんですよ」そう言って、カランは今度はジェセルとキアンに支えられているアイリの方を向いた。そして、内緒話でもするかのように彼の耳もとに口を寄せる。「私、知ってたんです。姉上が実は兄上だってこと」「……は?」アイリ以下、皆が目を丸くする。予想だにしないことを言われて、すぐにはごまかしの言葉も出てこなかった。目を見開いたまま固まったアイリに、カランは続ける。「姉上が実は男であったなら、私は正当な皇位継承者であるあなたから皇太子位を奪った……まぁ平たく言えば皇位纂奪者ってことですよね?」「別にそんなこと思ってない。 というか、性別を詐称した時点で俺は既に皇位継承争いからは降りてんだよ」ばれた限りは演技をしても無駄だと思ったのか、アイリは一人称を私から俺に変えた。声も地声に戻っている。「まぁ確かに。 それに私も今更皇太子位を降りろって言われても絶対降りませんけどね」弟の、いかにも彼らしい言葉にアイリはくすくすと笑った。笑うアイリに、カランはでも、と言う。「でもやっぱり、良心が痛むじゃないですか。 実の兄から皇位まで奪っといて、更に命まで奪うなんて。 だから兄上には、どこかで元気に、幸せに生きててもらわなきゃ」カランが言い終わると同時に、五人は城門を出た。ヒッタイト帝国の皇太子が一緒だったので、一度も衛兵に見咎められることはなかった。「……じゃあ、行くな」そう言って、アイリは弟に怪我していない方の手を挙げた。「お元気で」カランがアイリに応える。それを見届けると、アイリ達四人は門に背を向けて歩き始めた。歩きながら、ジェセルとキアンはどこで馬を調達するかなど、旅に関することを話し合っている。その二人から目を離し、一瞬足を止め、アイリは一度だけハットゥシャを振り返った。勇壮な獅子の装飾が施された城門が見えた。ふわ、と乾いた風が吹く。身に馴染んだ、故郷の風だった。だがもうこの景色を見ることも、風を感じることもないだろう。アイリはしばし故郷の景色を眺めた後、身を翻して少し先を行く三人に合流した。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword