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水月庵

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ナイルの雫 終章

夜。
宰相セヌウは執務室にいた。
手許を照らす微かな灯りを頼りにパピルスにペンを走らせる。

時折、その手を休めて肩や首をぐりぐり回してみる。
肩も首も腰も大分凝っているらしく、軽く動かすだけでミシリと身体が軋み、酷使された身体がまるで悲鳴を上げているようだ。

ひと月前から、この上下エジプトを治めるファラオは不在である。
ついでにいうと将軍も。
加えて、そのことを知っているのはセヌウとネフェルト王女、そしてテオの三名のみ。
他の大臣などには病気と言って誤摩化してある。

内政については全て引き受けてやるから心おきなくアイリ王妃を救いに行けと大口を叩いたはいいが、ファラオ不在のなか国を取り仕切るのは思ったよりも重労働だった。

さすがにもうそろそろ、病気と言って誤摩化すのには無理が生じ始めている。
今日など、さる大臣の一人から、本当はおまえがファラオを害して国を牛耳ろうと企んでいるのではないかというような事を言われてしまった。

セヌウはため息をついた。
勿論そのようなつもりは毛頭ない。
だがセヌウが古参の大臣からはあまり好かれていないのも事実だった。

セヌウの三十過ぎという年齢は宰相として国政を取り仕切るにはやや若年であるし、おまけにセヌウには家柄がない。
普通の、少しばかり裕福な庶民の家庭に生まれ、猛勉強の末何とか下っ端の書記になることができた。

王宮で働くうちに先代のファラオに才を見出され近侍となり、そして現王ジェセルカラーが即位するや臣下の最高位である宰相へ上り詰めたのだ。

自分は宰相を任されるような器ではない、と己を過小評価する気はないが、二代続けてなかなかに冒険心のあるファラオだとは思う。

無事に帰ってきてくれるだろうか。
ジェセルカラー王にもしものことがあろうものならば先王に申し訳が立たない。

……いや、大丈夫だ。彼は必ず無事に、王妃を連れて帰還するに違いない。

そう自らに言い聞かせ、再びペンをとったときだった。

卓上の灯りが僅かに揺れた。






セヌウは扉のほうを振り返った。

「誰かいるのか?」

セヌウの声に応えて扉が開き、エジプト人には珍しい長髪の男が姿を現した。
セヌウは目を見開き、思わず椅子から立ち上がる。

「キアン殿、よくぞご無事で……!」

目の前にいるのは、王とともに密かにヒッタイトへ発ったキアン将軍だった。
キアンはセヌウにニッと歯を見せて笑ってみせ、自分の斜め後ろを指し示す。
「ちゃんとこいつもいるぜ」

キアンの後ろからジェセルが現れた。
彼はゆっくりとセヌウに歩み寄り、柔らかく微笑む。
「今戻った。いろいろと迷惑をかけて済まなかったな」

セヌウは静かに首を横に振った。
「いいえ、ご無事で何より。
 ……して、王妃さまは?」

問うても良いものかと躊躇いがちなセヌウの口調に反して、返ってきたのは二人の明るい声だった。

「生きてた。途中で一旦別れたけど、明日か明後日にはいかにも王妃のご帰還って感じで華々しくテーベへ帰ってくるはずだ」

ジェセルのその言葉に、セヌウは今度こそ心底ほっとした表情を見せた。

「さて」
ジェセルが言った。

「俺がいなかった間の、国政についての報告を聞くか」
嫌だけど、とため息混じりに彼は言う。

若きファラオの、年相応のその様子にセヌウはニヤリと意地悪げに笑った。
「はい。陛下の裁可を仰がねばならぬ事項は山ほどございます」

そう言ってやると、ジェセルはえぇー、とげんなりと肩を落とした。

* * *

その翌日、テーベの王宮前広場に多くの民衆が詰めかけた。

エジプトへ帰還する王妃とそれを出迎えるファラオの姿を一目見るためである。

ジェセルは手首と二の腕の腕輪や幅広の襟飾り、セケムティ冠といった正装でアイリを待っていた。
側にはキアンとセヌウが控えている。

やがて、多くの兵士達に先導され王妃の輿が姿を現した。

アイリが輿の幕をめくって姿を見せ、民衆に手を振る。

その腕を飾る、金とラピスラズリの腕輪。
裾の長いチュニックに鷲の頭飾り、胸元に光る護符。

美しい自分達の王妃の姿に民衆は歓喜した。

王妃、王妃、お帰りなさいませ、と民衆が歓喜の声をあげる中、ジェセルは輿に近づいた。
そしてアイリに手を差し伸べて輿から抱き下ろす。

「ジェセル」

ジェセルの肩に掴まりながらアイリは微笑んだ。
その額には微かに汗がにじんでいる。

「傷、痛かっただろ?」
気遣わしげにジェセルが言う。

特に酷い傷は肩と脇腹の二ヶ所だったが、小さな傷は他にもあるらしく、腕にも包帯が巻かれていた。

「平気。おまえの顔見てたら吹っ飛んだ」
アイリがそう言ってくすっと笑う。

妃の言葉に苦笑しつつ、ジェセルはアイリの身体を地に下ろした。

あ、そうだ、と言ってアイリが自分の胸を彩っていた護符をはずした。

「約束通り、これ返す。何とか生きて帰って来れたしな」
言いながら、護符をジェセルの首に掛けてやる。
そして、至近距離にあるジェセルの瞳ににこりと笑った。

「アイリ……」
彼の笑顔に感極まり、ジェセルは妃を抱き締めようとした。

* * *

が。

「アイリさまっ……!」
キアンやセヌウ、居並ぶ文武百官を押し退けて一人の女が走ってきた、いや突進してきた。

アイリの乳兄妹、テオである。

「よくぞ……よくぞ、ご無事で……。
 アイリさまがあのような恐ろしい目にお遭いだというのに何もできず、本当に申し訳ありませんでした。
 ですが、本当に無事でよかった……!
 お会いしとうございました!」

走ってきた勢いそのままにテオはアイリに抱き着いた。

瞬間、アイリは痛みに顔を歪める。
テオの腕が脇腹の傷を直撃したのだ。
思わず声を出しそうになるのを何とかやり過ごし、アイリは笑った。
そして、テオの背中に腕を回して彼女を抱き締める。

「心配をかけたな。
 だがこの通り俺は元気だ」

アイリの言葉に、彼の腕の中のテオは心底ほっとしたように微笑んだ。

が、それも束の間、テオの笑顔がくしゃりと歪む。
そして、その頬を透明な涙が伝う。

「本当に良かった……。
 アイリさまが死ぬようなことがあったら私も生きていけませんっ!」

しゃくり上げながら訴えるテオの髪を、アイリは優しく撫で続けていた。

「……何かさ」
その光景を遠巻きに見守りつつ、キアンが隣のセヌウに言う。
「何です?」
「あいつ、形無しじゃねぇ?
 折角命駆けて助けに行ったのにさ、良いとこ取られちゃって」
キシシ、とまるでジェセルの受難を楽しむように笑うキアンに、セヌウは苦笑で応じた。
「思っていても、言わないであげてください。
 はっきり言われると更に陛下が可哀想です」

* * *

その日の夜遅く、日付も変わろうかという頃、ジェセルはアイリの部屋をおとなった。
メイをはじめ、女官達はファラオの訪問に慌てて身なりを整え、跪く。

「すまないな、こんな遅くに。王妃はまだ起きているか?」

「はい、ジェセルさまをお待ちですよ。こちらへどうぞ」
メイはにこやかに言うと、立ち上がって手燭を持ち、ジェセルを奥の寝室へ案内した。

寝室へ行くと、ちょうどテオが寝台に座るアイリの傷の手当を終えたところだった。
ジェセルに気付き、テオが立ち上がりアイリの隣を譲る。
ジェセルがそこへ座ると、メイとテオは一礼して部屋を去った。


「本当に良かったわ、アイリさまが無事お戻りになって」
寝室を出て、女官部屋へ戻る道すがらテオが言う。
その声がやけに湿っぽいのに気付き、メイは苦笑した。

「泣いてるわよ、あんた」

言われて、テオも苦笑し、泣き笑いのような表情になる。
「8割は嬉し涙なの」
言いながら、テオは目尻を指の腹で拭った。

「じゃあ残りの2割は何? 失恋?」

メイの言葉に、テオは虚を突かれたように一瞬固まった後、今更だけどね、と笑った。

「アイリさまは私の初恋だったの。
 だってアイリさまって、女の格好をすれば他のどんな女より美しいのに、でも凛々しくて、強くて」

テオの言葉に、メイはうんうんと頷く。

でも、とテオは言った。

「でも、ジェセルさまならいいや。安心してアイリさまを任せられる。
 アイリさまはヒッタイトのお方なのに、こんな言い方も変なんだけど、でも、ジェセルさまと一緒にいるアイリさまを見てると、やっとこの方は自分のあるべきところへ収まったんだなあって思うの」

* * *

「ねえ、知ってる?」
わざと明るい声でメイは言った。

「え、何?」

「民衆が、アイリさまのことを何て呼んでるか」

メイの言葉に、テオは知らない、と首を横に振る。

にっこり笑って、メイは答えを告げた。
「『ナイルの雫』って呼んでるのよ。
 母なるナイルが大地に遣わした一粒の雫。民衆の希望。
 それが何故かヒッタイトに今まで飛んじゃってたけど、やっと戻ってきてくれたんだって」

メイの言葉に、テオはえ、と目を丸くする。

「愛されてるのよ、アイリさまは。
 エジプトの皆が、異国人のアイリさまを慕ってる。
 これってすごいことよ」
言いながら、メイはテオの頭をポンポンと撫でた。

頭を撫でられながら、そうよね、と頷くテオの目にはまだ涙が光っていたが、それでも彼女はどこか誇らしげだった。

「まあでもその、あれだわね」
テオの頭から手を離し、メイが言う。
「何? どうしたの?」
首を傾げて問うテオに、メイは咳払いをした。

「だから、あれよ。やっと帰ってきたんだもん。
 あのお二人はきっと今頃……」

「わーーっ!! 言わなくていい、言わなくていいっ!
 そ、それにアイリさまは今怪我人なのよっ!」
メイの言葉に真っ赤になってテオが胸の前で手を振る。

が、メイはどこ吹く風だ。
「何よ、大事なことよ、夫婦の営みは。
 いいなー、私も男欲しいー」

「あのねぇ……」
テオは頭を抱え、はぁー、と深いため息をついた。

メイがくすりと笑う。
「あんたも早く恋人つくりなさいよね。
 失恋を癒す一番の方法は新しい恋をすることなんだから。
 エジプトには良い男いっぱいいるわよ?
 ま、アイリさま以上の男ってなると少ないかもしれないけど」

さ、もう寝ましょ、と言ってメイはすたすたと歩調を速めた。
テオは慌ててその後を追った。

* * *

「もう寝てるかと思った」
アイリの隣に座ったジェセルが言う。

その言葉に、アイリはまさか、と笑った。
「俺のせいで随分政務をサボらしちまったからな。忙しいんだろ?
 旦那の帰りを起きて待ってるくらいの優しさは持ってるつもりだぜ」

「旦那、か」
からからと笑うアイリにつられて、ジェセルも笑う。
そのジェセルの顔を見返したアイリが、次の瞬間、ふっと真顔になった。

「どうした?」
怪訝な顔で問うジェセルに、アイリは目を伏せる。
そして弱々しい声で言った。

「本当に俺で良いのか?」

「……え?」
彼のこんな弱々しい声など聞いたことがない。
思わず目を丸くしてジェセルは問い返した。

「だって俺は男だから、王妃としての一番重要な仕事を果たせないだろ?
 それに外国人だし。
 一応ヒッタイトの王族ではあるけど、俺はヒッタイトの権力者連中からは疎まれてるから外交の役にも立たない。
 
 今日、俺が帰ってきたとき、エジプトの民がすげぇ歓声で歓迎してくれただろ。
 嬉しかったけどさ、でも俺、すごく怖くなった。
 俺は皆を欺いてるんだって思うと……」

膝に置いた拳を、アイリはぎゅっと握った。
伏せた睫毛は柄にもなく震えていた。

ジェセルはその手に自分の手をそっと重ねた。
そのまま手首を握り、アイリを自分のほうへ引き寄せる。

「ちょ、何だよ」
いきなり抱き締められて、アイリは目を白黒させた。
ジェセルはアイリの後頭部に添えた手に力を入れ、更に自分に密着させるようにした。

アイリは腕を突っ張って離れようとするが、怪我のせいで力が入らない。

「俺、怪我人なんですけど」
アイリの言葉に、ジェセルは苦笑した。

「分かってる。無体なことはしないって。
 ただ、こうやってると何か安心しない?」

言いながら、ジェセルはアイリの髪を撫でた。
人の温もりがアイリを優しく包む。

「安心する、ような気がする」

アイリがそう言うと、ジェセルは満足げに微笑んだ。
髪を撫でられるのが心地よくて、アイリは思わず目を閉じた。

* * *

「俺はさ、アイリ」
ジェセルが言う。
「何?」
アイリはゆっくりと目を開けた。
「もう覚悟を決めてるんだ」
「え?」
髪を撫でる手を休めることなく、ジェセルは言う。

「確かにアイリを女と偽って王妃にしておくことは、民を偽ることになるのかもしれない、というか、なる。
 あんなに俺達を慕ってくれている民を。
 そう思ったら心は痛むけど、でも」
そこで言葉を切って、ジェセルはくすっと笑った。

「仕方ない。俺はアイリじゃなきゃ駄目なんだから」

くすくすと能天気に笑うジェセルに、アイリは盛大にため息をついた。
「仕方ないって、あのなぁ……」

ジェセルは表情を引き締めた。
髪を撫でるのを止め、アイリの紫の目を真っ直ぐに見つめる。

「俺は、アイリだけしか伴侶はいらない。
 これだけは、何があっても譲れない。
 まともな王なら、新たに第2王妃を娶るべきだって分かってはいるんだけどさ。

 だから俺、決めたんだ。
 せめて他のことでは民に誠実であろうって」

目頭がじんと熱くなった。
自分しかいらない、と言われたのが嬉しかった。
そして、愚にもつかぬ事を未だにうだうだ言っている自分が恥ずかしかった。

たぶん、ジェセルはとっくの昔に自分の中で結論を出していたのだ。
全てを納得した上で、彼は、アイリを王妃にすることを神々の前で誓ったのだ。

「形無しだな、俺」
アイリは笑った。
「俺はおまえより3年も長く生きてるのに、これじゃ俺のほうが子供みたいだ」

アイリがそう言うと、ジェセルは途端に焦り出した。

「そ……そんなことない!
 だって俺はアイリがいないと駄目なんだし……」

慌てたように首を横に振るジェセルを見て、アイリはくすくすと笑った。

普段は17歳とは思えぬ堂々たる為政者振りなのに、笑ったり焦ったり、感情を露にするとまるで子供だ。

* * *

「じゃあ俺も覚悟決める」
ジェセルがそうしたように、アイリもジェセルの目を見ながら言った。
「子供だけはどう頑張っても無理だし、民を欺いてることに変わりはないけど、でもちゃんとエジプトのこと学んで、お前のこと支えて、死んだらエジプトの土に……」

アイリはそこで言葉を切って首を傾げた。
何かが引っかかったらしい。

「土に……ならないんだよな、エジプト人は」

妃の言わんとしたことを察して、ジェセルはああ、と笑う。
「そうだな、土には還らない。ミイラになるからな」

「ミイラねぇ……」
アイリは呟いた。

うーん、と考え込むアイリを、ジェセルは不安げに見つめる。

エジプトの死生観はかなり特殊だ。

人は、肉体と、霊魂であるバー、そしてカー(精霊)の3つの要素で成り立っている。
人が死ぬと、バーは肉体から離れてしまうが、肉体がそのまま保存されていればカーは肉体に留まり続ける。
そしてやがて、カーの仲立ちによりバーが肉体へ戻り、人はアアル(冥界)で復活して永遠の生を歩むのだ。
だから、肉体が失われないためにエジプト人は遺体をミイラにして保存する。

エジプトで生まれ育ったジェセルには当たり前のことなのだが、異国人であるアイリには受け入れがたいものがあるのかもしれない。

ジェセルは再度、頭をひねるアイリを見た。

アイリもジェセルを見る。

そして、唐突に言った。

「俺、ミイラにならせて頂きます」

* * *

相も変わらず自分の顔を、穴が開きそうなくらいに凝視してくるジェセルに微笑を向けながら、アイリは言う。

「確かに若干違和感はあるけど。
 でも今からエジプトのこと学んで、その空気とか大地の感触とかもたくさん感じて、たぶん、実際に死ぬ頃には俺も完璧にエジプト人になってると思うんだ。それに」

言いながら、アイリが、ジェセルの頬に手を伸ばす。

少しひんやりとした両手がジェセルの頬を包んだ。

「それに……何だ?」
自分を包んでいるアイリの手に手を添えつつ、ジェセルは言葉の続きを問う。

アイリはにっこりと笑った。

そして、言葉の続きを言う前に、ジェセルに顔を寄せ、唇に軽く口付けた。

不意打ちの接吻に驚き、少しだけ頬を上気させている少年王に、アイリは再び微笑む。
そして言う。
「それに、復活できるっていうの、悪くない。
 そしたら死んでもまた会えるんだろ? おまえに」

ジェセルはそうだ、と大きく頷いた。
愛する人がいて、その人が死後も自分といたいと言ってくれる。
それはどんなに幸せなことだろう。

アイリといると自然と笑みがこぼれる。

ああ、この状態を、幸せと呼ぶんだろうな、と思った。


雲がなく、星々の煌めきが冴え渡る夜。
若き王と王妃は、かつて神々の前で誓ったことを、今度は互いに誓い合った。

二人でこの国を治めながら、限りある生を全うし、アアルで復活してからは永遠の刻を共に歩もう、と。

fin.

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