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水月庵

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ナイルの雫 第5章

「……不味い」
パンを一口齧るなり、アイリは呟いた。

高い声を作ることもせず、地声のまま放たれた主人の言葉に、メイがぴくりと反応する。

「そうですか?
 もちもちしていて、結構美味だと思いますが」

言いながら、メイはもぐもぐとパンを頬張っている。

「……あのな」
そういう問題じゃない、とアイリは苦虫を噛み潰したような顔で言う。

この状況で、とアイリは声を震わせる。
そして腰掛けていた長椅子から立ち上がり、声を荒げて叫ぶ。
「この状況で、どーやったら暢気にパンの味なんか感じてられるっていうんだ!
 おまえの頭の中は一体どうなってるんだ、え?!
 一回かち割って中を見てみてぇよ!」

アイリの怒号に、メイは2、3歩後ずさった。

「えーと、確かに私、暢気とか度胸が据わってるとか、もはや尊敬に値するとかよく言われますけど……」
言いながら、メイは部屋を見渡す。

先程までアイリが腰掛けていた長椅子は、一国の王妃が使うにふさわしい高級品であり、他の調度品も同様だ。
部屋の所々には色とりどりの花が飾られている。

国賓が滞在するにこの上もなくふさわしい部屋である。
……外側から鍵が掛かっていること、それに窓が極端に小さいことを除いては。

メイはその小さな窓から外を眺める。
が、あまりよく見えない。
小さすぎる上に、その窓にはご丁寧にも鉄格子までが設置されているからだ。

少し落ち着きを取り戻したアイリも、窓のほうへと近付く。
そして窓の桟に手をかけ、自分よりも幾分背の低いメイの頭越しに外を見やる。
尤も、よく見えないのだが。

そして、呟く。

「一ヶ月、か……」






この通り、アイリは死んでいない。
生きている。

エジプトへと届けられた「アイリ王妃死去」の報せは正しい情報ではなかった。

が、現実はそれに限りなく近いものだ。
果たしてこの先、ジェセルの待つエジプトへ帰ることができるのかどうか。


二ヶ月前、アイリ達は話があるのだといってシェンナ皇妃に呼び出された。
そして来てみれば……これだ。

行き先はシェンナ皇妃の自室だと言っていたにも拘らず、連れてこられたのはこの部屋。
この部屋は皇宮の北端にあり、元々皇族や貴族など、身分の高い者が罪を犯した時に入れられる、ありていにいえば牢屋だ。

だから高価な調度品に似合わず、窓には鉄格子がはまっているし、扉は外から厳重に鍵がかけられるようになっている。

ここに入れられた当初、メイはどうにかして脱出できないものかと室内を隈無く見て回っていたが、ここがそんなに生易しい場所でないことは、この皇宮で育ったアイリが何よりも分かっている。


「何故、こんなことになったのでしょう……」

ここに入れられてから、何度目かもはや分からない問いをメイが口にする。

アイリは苦い顔で首を横に振った。

「ヒッタイトへ来る前から何かあるとは思ってたが……。
 なぜ牢に監禁されているのか、俺にもさっぱり分からん」
エジプトへ嫁ぐ前ならいざ知らず、とアイリは言う。

エジプトへ嫁ぐ前ならば、女装がばれたということも考えられた。

しかし、エジプトのジェセルカラー王に嫁ぎエジプト王妃という称号を持つ今となっては、それも考えにくい。

こんなことを自分でいうのも何だが、アイリは自分は完璧に美女を演じていると思っている。
何しろ、産まれてからずっと女を演じているのだ。
少々のことではこの変装を見破られない自信がある。

それに加え、今はエジプト王妃だ。
王妃と呼ばれているこの自分が実は男だなどと一体誰が思うだろう。


つまり、アイリは隣国の王妃であってシェンナの愛息であるカラン皇子と皇位を争う、ヒッタイト帝国の第一皇子ではない。
だとすればシェンナにアイリを害する理由などないではないか。

むしろ、アイリを殺しなどすればエジプト軍がヒッタイトに攻めてくるかもしれない。

何故シェンナは執拗にアイリを害そうとするのか、はっきり言って皆目分からない。


アイリはお手上げだとでも言うようにメイに両手を広げてみせた。
そして、言う。
「とりあえず今は、シェンナ皇妃の真意などどうでもいい。
 最優先事項は、如何にしてここを脱出しエジプトへ帰るか、だ」

アイリの言葉に、メイはくすりと笑った。

そのような応えは予期していなかったのか、アイリは何笑ってるんだ、と目を丸くする。

「申し訳ございません。
 ……嬉しかったんです」

「嬉しかった、だと?」
おうむ返しにアイリが聞き返すと、メイはええ、とまた微笑んだ。

「アイリさまがエジプトに『帰る』と言ってくださったことが、です。
 そして、何としてでもジェセル陛下のもとへ戻りたいと思ってくださることが」

メイの言葉に、アイリは照れたように笑った。
「まぁな。俺の帰るところは、どうもジェセルの所以外にないみたいだから」

アイリが言い終わった直後、ギィ、と厳めしい音とともに鍵が外され、重い扉が開かれた。
今までの何のかんのと言っても和やかだった空気を一変させ、アイリとメイは身構えた。



それから遡ること数時間。
場所はヒッタイト皇帝の后妃や子女が住う後宮。
中でも、南側に位置し一番日当たりがよく場所も広い、皇帝の正室が起居する部屋。

皇妃シェンナ付きの女官達が目を輝かせてその商品を覗き込む。
それは、美容に良いとされる珍しい薬草の数々だった。

商品を手にした青年が、顔を朗らかに綻ばせ商品の説明をしてゆく。

「まぁ、それじゃこれを毎日煎じて飲めばわたくしの肌も張りを取り戻すかしら?」
中年の女官が言う。

「ええ、貴女はただでさえ肌が美しくていらっしゃいますから、きっと若い娘のように滑らかな肌になるかと」
女官の言葉に青年は鷹揚に頷き、そう答える。
そして女官ににっこり微笑んでみせた。

目鼻立ちがすっきり整った端正な顔立ちの青年の笑みに、中年の女官はまるで少女のように頬を赤く染める。
「そ……それじゃあ戴こうかしら」

「ありがとうございます」
青年はそう言うと、後ろを振り返った。
そして、青年の後ろに控えていた若い男――まだ少年といってもいいくらいの――に言う。
「セル、早くその薬草をお包みしろ」

セルと呼ばれた彼は青年に言われた通り、薬草を必要な分量だけ手早く取り分ける。
そして、それを満面の笑みとともに女官に手渡した。
青年の弟分だという彼もまた、かなりの美形である。
若干垂れ気味の目が特徴的だ。

この二人組は、最近ヒッタイト皇宮への出入りが許された商人だ。
薬草や香油、そして装飾品などを商っていて、彼らの商品は今や後宮の女達から絶大な支持を得ている。

「意外と簡単だったな」
女官達の前を辞して数分。
人気のない廊下へ差し掛かった時、不意に先程の青年が口を開いた。

「そりゃそうだろ」
そう返すのは、セル、と呼ばれていた若い男だ。

セルはにやりと笑って続ける。
「俺を誰だと思ってる。
 この俺に手に入らない品などない」
そう言って心持ち胸を反らせるセルに、青年はくっくっと笑った。

「それは確かに。
 何たっておまえは世界一富める国の王様だもんな」

青年の言葉に、セルは人差し指を己の唇へやった。
そして声を低めて言う。
「こら、迂闊なことは言うな。誰かが聞いたらどうする」
「……すまん」

殊勝に詫びる青年を見ながら、セルは苦笑まじりに続ける。
「にしても、元々ジェセルカラーだったのがジェセルに短縮されて、今はセルか。
 俺の名前も随分と短くなったもんだ。なぁ、キアン?」

彼の言葉に、今度は青年が焦る。
「おい、てめぇで注意した舌の根も乾かぬうちに自分が迂闊なこと言うなよ」
青年の言葉に、セル……否、エジプト王ジェセルカラーはフッと笑う。
つられて青年――勿論こちらはキアン将軍である――も笑った。

今から一ヶ月前、ジェセルとキアンはこっそりエジプト王宮を抜け出して遥々ヒッタイトまでやってきた。
王妃アイリの消息を確かめるためだ。

そして、そのために二人が立てた計画というのが、これである。
名付けて、商人に化けて皇宮に忍び込もうぜ大作戦。

まず、数多の魅惑的な商品を比較的皇宮に近い市場で売り歩く。
すると、その情報がたまたま市場に買い物に来た女官などを通して宮中に広まる。
そうして宮中への出入りが許されれば大手を振ってアイリ探しができるというわけだ。

些か乱暴な作戦ではあるが、今のところは上手くいっている。
さすがジェセルがファラオの職権を濫用して掻き集めただけあって商品がどれもこれも素晴らしかったのがその要因であろう。

二人は僅か一週間で宮中への出入りを許可されるに至った。


「で、何か感じないわけ?」
キアンが言う。

何を、とジェセルが訝しげな顔で聞き返す。

「何って、だから『おおっ俺には分かる!間違いなく近くに愛しのマイスウィートがっ!』みたいな」

大げさな身振り手振りとともにそう言うキアンを冷めた目で見つつ、ジェセルは至極真っ当なことを言う。
「そりゃ、俺はアイリを探すためにここに来たわけだけど。
 でも、かと言って俺はあくまで普通の人間であって超能力者でもアイリ探知機でもないんだ」

「アイリ探知機、ねぇ。…ま、そうだよな。
 じゃあもうちょっと自由に動き回れるようになったら地道に探そうな」

キアンはそう言ってジェセルの頭をポンポンと撫でた。

「それにしても」
キアンに頭を撫でられながらジェセルが言う。

「どうした?」
キアンが尋ねると、ジェセルは目を細めつつ答えた。
「いや、きれいな中庭だなと思って」

今、二人が立っている廊下からは美しく整備された中庭が見渡せる。
人工的に造られた池には澄んだ水が張られており、その水面は陽の光を反射して煌めいている。
その脇に植えられている大きな木は優しげな木陰を作っていて、それが何とも風流だ。

「シェン・アーラ」
キアンがぼそりと言った。

言葉の意味が分からず、ジェセルが首を傾げる。

「この中庭。『シェン・アーラの庭』っていうらしい」
先程、女官の一人が教えてくれたのだとキアンは言葉を補った。

「へぇ。シェン・アーラ。女性の名前か何かか?」
ジェセルの言葉にキアンが頷く。
「ああ。前皇妃……つまりアイリさまの母君の名前らしい。
 この中庭は、彼女が存命中に造らせたものだそうだ」

「アイリの母君……」

相変わらず視線は中庭に向けたまま、ジェセルは口の中でキアンの言葉を繰り返した。

優しい光が満ちる庭。
この庭の造営に力を注いだというシェン・アーラなる女人もまた、美しく優しい人だったのだろう。
この庭を見ればわかる。

もし、シェン・アーラ皇妃が夭折などしなければ。
ジェセルは思う。
もしもシェン・アーラが夭折しなければ、アイリはあんな辛酸を舐めることなどなかっただろう。
彼は普通にヒッタイトの第一皇子として育ち、皇太子になり、ゆくゆくは皇帝となりこの大帝国を統治したことだろう。

そうしたら、自分とアイリが出会うことは、きっとなかった。
いや、あったとしてもそれは敵国の元首同士として、だろう。

「それは困るな……」
ジェセルは思わず口に出して呟いた。
何が、とキアンが聞いてきたが、ジェセルは答えず、再び『もしも』の世界に戻ってゆく。

ジェセルの妃になる生き方と、ヒッタイト帝国の皇帝になる生き方。
アイリにとってどちらが良かったのか、聞いたことはないけれど。
でも、少なくとも自分は。

「キアン」
ジェセルは隣の幼馴染みに視線を向けた。

キアンが、何だ、と聞き返す。

微笑とともに、ジェセルは言った。
「アイリに会えたことは、俺の人生最大の僥倖だと思うんだ、俺。
 ま、その陰にはアイリの辛酸に満ちた前半生があったわけだけど、それでも。
 それでも俺は、あの人と俺を出会わせてくれた神さまに礼を言いたい」

向こう側からの人の気配を感じ、ジェセルとキアンは即座に柱の陰に隠れた。
今二人がいる廊下とは反対側から一人の女官を連れた女が中庭へ降りてゆく。
間一髪でジェセルとキアンは気づかれなかったらしい。

一目で貴人と分かる女が、木陰の椅子に腰を下ろす。
「いつ見ても、きれいな中庭ね。本当に、憎らしくなるくらい」
庭の池の水と同じくらい、澄み切った綺麗な声だった。
だが、その声にはどこか哀切な響きがあるように聞こえてならない。

ジェセルとキアンは柱の陰から聞き耳を立てた。

女官が言う。
「こんな庭、壊してしまえばいいのです!
 皇妃さまのお心を煩わせる、こんな庭……」

……皇妃?!
女官の言葉に、思わず二人は身を乗り出した。

皇妃と呼ばれた女は、女官の言葉に苦笑まじりに応える。

「そうはいかないわ。
 だってこの庭は、皇帝陛下の心の慰めなのよ」

「シェンナさま……」
女官が気遣わしげに皇妃の名を口にする。

その名前に、ジェセルとキアンは同時に目を見開いた。

シェンナ……。
間違いない。目の前の女こそ、アイリの継母。

おそらく、アイリを殺した……いや、そうあって欲しくはないが、とにかくアイリに害なした張本人だ。

しかし。二人は思う。
想像と、随分違う。
もっとアクの強い、権力欲の固まりのような女を想像していたのに。
目の前のシェンナ皇妃は、それとは余りにもかけ離れていた。

長く真直ぐな黒髪に白い肌。
そして彼女は三人の子供を産んだとは思えぬほど儚げでたおやかだった。

それから……彼女は、誰かに似ている、ような気がする。

「シェンナ……か」
不意に、皇妃が呟く。

柱の陰から身を乗り出しているジェセルとキアンには気づく気配もなく、また女官に語る風でもなく、遠い目をして独り言のようにシェンナは続ける。
「わたくしは一体、いつまで『シェンナ』なのかしら?」

その言葉を聞いた女官が焦り出す。
「も……申し訳ありません!
 私ったら、つい失礼なことを……」

焦る女官にシェンナはにこりと笑ってみせた。
「いいのよ。確かに今のわたくしの名前はシェンナなのだから。
 それに……」

笑みを収め、シェンナは真顔で言う。
「それに、わたくしの苦しみはもうすぐ終わるわ。もうすぐ……」

シェンナは立ち上がった。
「付いていらっしゃい。今から北の棟へ行くわ。あの子の所へ」

そう言ったシェンナからは、何か並々ならぬ気が漲っているようだった。


「キアン」
シェンナと女官の姿が中庭から消えたのを見届けてから、ジェセルが低い声で呼びかけた。

「俺たちも行くぞ。北の棟へ」

柱の陰から出て、シェンナが向かったのと同じ方向へ歩を進めながらジェセルは続ける。
「これは全くの勘だが……。
 多分、シェンナ皇妃が会おうとしているのは、アイリだろう。
 作戦は変更だ。
 少々強引にでも、北の棟とやらへ行く。
 邪魔者はなぎ倒せ」

キアンはくすりと笑った。
「『アイリ探知機』発動か?
 ていうか、いいのかよ?
 仮にも一国の王様が、他国の宮廷に忍び込んでばっさばっさ人斬ったりなんかして」

ジェセルもつられて笑う。
「何を言い出すかと思えば。
 今の俺は王なんかじゃない。
 おまえの弟分の、商人見習いだ。……そうだろ『兄貴』」

ジェセルはキアンとともに、一路北を目指した。

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