2015/09/23 Category : ナイルの雫 ナイルの雫 第4章 「これは義母上、この度はおめでとうございます。 産後の肥立ちもよろしいようで安心いたしました」「まぁ…ほほほ。 本当はこの子、あなたのお腹に宿ればよかったのですけれど…。 娘が嫁ぐような年になってからなんて、恥ずかしいわ」「そんな、とんでもない。 親子とはいえ私達は義理の親子。 義母上はまだお若うございますよ」二人の女(?)がヒッタイト帝国の都、ハットゥシャにある皇城の後宮の庭でにこやかに話している。一人は、茶色の柔らかく豊かな髪に神秘的な光を宿す紫の目の、年の頃は二十歳くらいの女(?)。しなやかな白い亜麻布のチュニックに、華やかな襟飾り。頭上には、エジプトの貴人の証である鷲の頭飾りを戴いている。目元には、緑色の濃いアイシャドウ。言わずと知れた、エジプト王妃アイリその人である。対するもう一人の女は、年の頃は30を少し過ぎたくらい。しかし、赤子を抱くその白い腕はまだ瑞々しさを失っていない。その白い肌によく映える黒髪の上では、繊細な造りのタワナアンナ冠が輝いている。そんな彼女の名は、シェンナ。ヒッタイト帝国のタワナアンナ、つまり皇妃である。「聞いておりますわよ」シェンナが言う。「何を、でございましょう?」やや怪訝な様子でアイリが聞いた。「あら、何をはぐらかしてらっしゃるのでしょう? あなたとあなたの夫たる方のことですわ。 とても仲睦まじくてらっしゃるのですってね」形の良い、紅い唇にいたずらっぽい笑みを浮かべてシェンナがそう言う。「仲睦まじい…ねぇ。まぁそうですが…」アイリは、独り言のように口の中でごにょごにょとそう言った。そして目の前の、ワインが注がれた杯を手に取り、ひとくち口に含んだ。照れているともとれる娘のそんな様子に、シェンナの笑みは深まった。そんな二人の様子を、アイリの女官であるメイは少し離れたところから見ていた。うう、怖いよ…。メイは心の中で呟いた。 確かに、表面上は仲の良い母娘に見えなくもない。血が繋がっていないにも拘らず、二人は目元の辺りなど何処か顔立ちすら似通っている。が、それは本当に表面だけなのだ。本当は、この義理の親子の仲は険悪もいいところである。どれくらい険悪かというと、義母が義娘の命を狙うほど。「義母上、聞いてくださいます?」メイの耳に、シェンナに向かって発せられたと思しきアイリの声が飛び込んできた。その声は何処か刺を含んでいるように聞こえた。アイリの声は続ける。「私、エジプトへ嫁ぐ道中で死にかけたんです。 …盗賊に襲われて」「まあ、それは物騒ね。 本当に、ご無事で良かったこと」心底、アイリを労るようなシェンナの声。「ええ…」そう言いながら、アイリが少し笑ったのが、離れたところにいるメイにも気配で分かった。「もしあのときジェセルカラーさまが国境までいらしてくれていなかったら、きっと私、死んでました」「まあ! ではエジプトのジェセルカラー王はあなたにとって、命の恩人でもあるわけね。 それは、仲がおよろしいのも当然ね」シェンナが鷹揚に笑ってそう言ったちょうどそのとき、彼女が腕に抱いていた赤子が泣き出した。メイと同じく、少し離れたところに控えていた赤子の乳母が出てきて、中庭はちょっとした騒ぎになる。アイリとメイは、部屋へ引き上げることになった。*「あんのやろう…っ!」ヒッタイトの侍女達が引き上げ、部屋には自分とメイしかいないことを確認してから、アイリは先程とは打って変わった低い声で唸るように言った。同時に、頭上で輝いていた鷲の頭飾りも外し、そこら辺にごろんと転がす。メイは慌ててその頭飾りを拾うと、しかるべき場所へ直した。「は…腹が立つのはわかります。 けど頼みますから王冠放り投げたりしないでくださいませっ! …最高級品なんですから」傷でもついたら…、と言うメイに、アイリは一瞬ばつの悪そうな顔になったが、その顔はすぐに一瞬前の怒り顔に戻ってしまった。「輿入れの時、俺達を襲ったのは確かにヒッタイトの兵隊…しかも誰かの私兵だった」アイリの言葉に、メイはえ?と聞き返す。「私兵…ですか?」「ああ。だってさ、考えてもみろよ。 いっくらなんでも正規軍が盗賊の振りして自国の皇族を殺したりするわけねーだろ?」苦笑まじりにアイリが言う。「あ、そうですよね…。 …てことは、王妃さまを狙ったのはその私兵の主人。 そして、そんなに大規模な私兵を持てる人って……」メイの言葉の後を、アイリが引き継いだ。「あの皇妃くらいしかいないってわけ」アイリは続ける。「なのにあの毒婦、そのことを匂わせてやっても顔色ひとつ変えやがらねぇ。 まったく、どんだけ面の皮が厚いんだか」メイは、シェンナ皇妃について語る主人の辛辣な言葉を黙って聞いていた。アイリが人をそんなに悪く言うなど、初めてだ。まあ、ジェセルのことを「垂れ目」とか言うことはよくあったけれど。が、あれはなんというか…愛情表現だ。いや、そんな風に言いきってしまえばジェセルが少しかわいそうではあるのだが。ともかく、ジェセルをからかうのと、シェンナ皇妃を罵るのとではまったく感じが違うのだ。今のアイリの紫の目は、まるで氷のようだ。いったい、シェンナ皇妃と王妃さまの間にはどんな深い確執があるっていうの……。メイは心の中で呟いた。* * *「失礼。入ってもよろしゅうございますか?」扉の外から、ヒッタイトの女官の声が聞こえた。メイはその声を聞き付け、ちらりとアイリのほうを見た。アイリが軽く頷いたので、メイは扉を開けた。外に立っていたのは、長い栗色の髪の年若い女官だった。確か、シェンナ皇妃の側仕えだ。失礼いたします、と言ってその女官は部屋へ一歩足を踏み入れ、アイリに膝をつく。「エジプトのアイリ王妃さまに申し上げます。 シェンナ皇妃におかれましては、御子様の気色が落ち着かれたので是非とももう一度アイリさまとお話ししたい、とのことでございます」「そうか。それで? 私はどこへ行けばいい?」「皇妃さまの私室に、とのことでございます。 ご案内いたしますわ」そう言って女官はアイリに背を向けかけたが、再び振り返る。「言い忘れておりました。 皇妃さまは、御娘であらせられるあなたさまと他人行儀にはしたくない、と仰せで…。 供の者は、お一人まで、とのことでございます」女官の言葉に、アイリとメイは顔を見合わせた。……なんだか、とてつもなく嫌な予感がする。* * * *二週間後、エジプト。「お兄様」後ろに女官を従えたネフェルトがジェセルの居室に入ってきた。ネフェルトはジェセルの妹にして、彼の第二王妃候補に挙がっている少女である。「ほら見て、お兄様」言いながら、ネフェルトは後ろを振り返って女官から籠を受け取った。「美味しそうでしょう? お兄様の好きな棗の蜂蜜漬けですわ。 女官に言って買ってきてもらいましたの」「………」寝台に腰掛けたジェセルは黙ったまま何の反応も見せない。ネフェルトのほうを見ようともしない。「聞いてらっしゃるの?」ネフェルトが身を乗り出してジェセルの顔を覗き込む。幾分やつれたその顔を見てネフェルトはため息をついた。「それは、王妃さまのことはお気の毒でしたけれど…… でももう過ぎたことですもの」仕方ありませんわ、と続けるネフェルトの言葉をジェセルは力なく遮った。「黙ってくれないか。おまえに何が分かる」ジェセルの言葉に、ネフェルトはその形の良い眉を顰めた。「…もう知りませんわ、お兄様なんて!」ネフェルトはそう言ってくるりと踵を返した。ネフェルトがジェセルの部屋を訪れたのとちょうど同じ頃。宰相セヌウは、執務室で下エジプトから送られてきた文書に目を通していた。時折、何かを書き留めておくために、机に置いてあるパピルスにペンを走らせる。コンコン、と扉がノックされた。「どうぞ」文書から目を離すことなくセヌウは言った。入ってきたのはキアンだった。頭巾は被らず、エジプト人には珍しい長髪を背中に流している。「どうしたんです、キアン将軍」入ってきたのがキアンだとわかると、セヌウは文書から顔を上げた。「…どーもこーもねぇよ」苦りきった顔でキアンは言った。つられて、セヌウの顔も暗くなる。「陛下は相変わらずですか」溜め息まじりのセヌウの言葉にキアンはこくりと頷く。「……ああ。 あの報せが届いてからというもの、ジェセルの奴、飯も食わねーし寝もしねぇ。 おまけに俺や役人が話しかけても生返事ばっかりで心ここにあらず」「……仕方がないですよ」言いながら、セヌウはまだ出入り口の辺りに突っ立ったままだったキアンに椅子を進める。キアンは素直に椅子に腰を降ろした。「仕方がない、か……」キアンが呟く。それきりキアンもセヌウもお互い口を開かなくなり、二人の間に重い沈黙が横たわった。一週間ほど前、テーベにひとつの報せが届いた。ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャからだった。曰く「アイリ王妃、ハットゥシャにて急病死」報せを受け取ったジェセルは一言そうか、と言っただけだった。泣きもしない、怒りもしない。そのときのジェセルからは、おおよそ全ての感情が抜け落ちていた。それから一週間。相変わらずジェセルは泣きも怒りもしない。そして、食事も睡眠も殆どとらない。時折パンをひと欠片齧るだけ。そしてたまに力尽きたように目を瞑るだけ。話しかけても、生返事ばかりで全然はかばかしい返事をしない。「どうしたらいいのか、まるでわかんねぇんだ」ややあって、キアンが口を開く。セヌウは視線をキアンの方へ戻した。「俺、あいつとは所謂幼馴染みってやつで、さ」「そうでなかったら仮にも王に向かってあいつとか言えないでしょうね」セヌウがそう言えば、キアンは決まり悪げに笑った。「…ま、そうだな。 で、俺はジェセルが生まれたときから奴を知ってるわけだが、 それでも今みたいなあいつを見たのははじめてだ。 …先王、つまりジェセルの父親が崩御されたときでさえ、あいつは泣かなかった。 実の父親だぜ? 悲しくなかったわけないのに。 それでも、次の王たる自分が取り乱すわけにはいかない……って」セヌウは黙ってキアンの話を聞いていた。「……悪ィな、仕事の邪魔して」しばらくして、いつの間にかできていた眉間の皺を元に戻しながらキアンは言った。「じゃあな、セヌウ殿。 俺も仕事に戻る。 俺たちまで仕事を放り出すわけにはいかねぇもんな」キアンはそう言って席を立った。* * *「あら、将軍ではありませんの」セヌウの執務室を出てから1、2分。キアンはネフェルト王女に出くわした。「これは……王女。ご機嫌麗しゅう」キアンが社交辞令を口にすれば、ネフェルトは不機嫌な様子を隠そうともせずに言った。「適当なことを仰らないで! 今のわたくしの機嫌が麗しそうに見えて?」「いや……それは」しどろもどろになるキアンに、畳み掛けるようにネフェルトは言った。「全然麗しくなんかありませんわ! いったい何ですの、お兄様は。 妃が死んだのですもの、悲しいのはわかりますわ。 でも仕方ないじゃありませんの、いくら嘆いたところで死んだ者は戻ってきませんわ」「王女は、アイリさまのことがお嫌いのようですね」キアンの言葉にネフェルトはフ…、と笑った。「…お兄様の妃の座は本来わたくしのもの。 それをあの方はかすめ取ったのですわ。 そして死んだ後もあの方はその座をわたくしに譲ろうとなさらない…」ねぇ将軍、とネフェルトは続けた。「あの方と比べて、そんなにわたくしは劣っていて?」「王女……」「劣っているだなんて、思いませんわ。 だってわたくしはお兄様の子を産めますもの」ギクリとした。この王女は、知っているのか……?しかし内心の動揺を隠してキアンは言った。「王女、一体それはどういう?」ネフェルトは不敵な笑みを浮かべた。「わたくし、見ましたのよ。 将軍とあの方が剣の試合をしてらっしゃるところを。 確かにあの顔はアイリ王妃でしたわ。 けれどもあれは女ではありませんでしたわね。 …紫の目に、あの美しいお顔。 そんな方が男女一人ずつ二人もこの世に存在するとでもいうのかしら?」「……それは」どうやって誤魔化そう。キアンは必死に言葉を探した。嫌な汗が背中を伝った。そのときだった。「キアンさま! た……大変です、王が…陛下が、お倒れに…っ!」アイリがいない間、ジェセル付きの女官になっているテオが慌てた様子で走ってきた。「何だと?!」言うか早いか、キアンは走り出していた。「王女も早く!」走りながらネフェルトのことも促したが、ネフェルトはそこを動かない。「わたくしは行きませんわ! あんなお兄様、勝手に死ねばいいのよ!」引っぱってでも連れていくべきかと思ったが、とりあえず今はジェセルだ。キアンはネフェルトには構わず先を急ぐことにした。「ジェセル!」キアンはジェセルの部屋へ飛び込んだ。ジェセルの寝台は王宮付きの医師団によって取り囲まれている。脇には、キアンと同じで慌てて走ってきたのだろうセヌウがいる。「ジェセル」キアンは医師団を掻き分けてジェセルに駆け寄った。キアンの呼びかけに応じてジェセルがうっすらと目を開ける。周りの医師団からおお、と安堵の声が漏れた。お薬を、と医師の一人が薬湯の入った器を差し出した。キアンはそれを受け取ると、ジェセルをそっと抱き起こした。そしてその器をジェセルの口許に当てがう。が、ジェセルは薬湯を飲もうともしない。「…頼むから飲んでくれよ…」切実さを帯びた声でキアンは言った。そして、憔悴しきった幼馴染みの姿を見てキアンはあれ、と思う。「…おまえ」キアンがそう言うと、ジェセルは目だけを動かしてキアンを見た。「護符はどうした?」護符とは、ジェセルがいつも肌身離さずつけていたスカラベの護符のことだ。「アイリに渡した…。絶対返せよ…って…」ジェセルの答えを聞いて、キアンはしまった、と黙り込んだ。「陛下、ひとつ聞いてもよろしいですか」不意に、セヌウが口を開いた。一旦医師団を退出させ、ジェセルの返事を待たずにセヌウは言った。「陛下は絶対返せと言ってその護符を王妃さまに渡したのでしょう? 陛下が愛したアイリ王妃は、あなたとの約束を破るような方でしたか?」ジェセルの目に、光が宿った。「…そうだ…俺はまだ、アイリの遺体を見てない…」「そうです。 御自分の目で確かめもしないうちから亡くなったと決めつけるのは愚かなことです。 …可能性は低いですが、王妃さまは生きてらっしゃるかもしれない」その言葉を聞いて、ジェセルは自分の力でがばりと起き上がった。セヌウは苦笑した。「…ヒッタイトまで行って確かめるおつもりですね。 まあ、行くなと私が行ったところであなたさまは聞き入れますまい」そう言った後で、セヌウはキアンに向き直った。「キアン殿も一緒に行ってさし上げてください。 陛下に万が一のことがないように。 何があっても、あなたは陛下をここへ連れて帰ってきてください」「セヌウ殿……」「その間の国政は、陛下は急病だとか何とか言って私が何とかします。 今日もお倒れになったのです。 病気だと言っておけば誰も疑わないでしょう」「すまない、恩に着る」ジェセルが言った。「そうと決まったら……」言いながら、キアンはジェセルに先程の薬湯を差し出した。「飲めよ。それとあと、今食事を用意させるからちゃんと食って体力つけろ」ジェセルは薬湯を受け取った。そして苦さに顔を顰めながらも全部飲みほした。ややあって、女官が食事を運んできた。しばらくぶりになる食事をジェセルはゆっくりと口に運んだ。その様子をセヌウとキアンは温かく見守っていた。それから数日後の夜、ジェセルとキアンは王宮の裏門から外へ出た。いや、出ようとした。「待って」今まさに裏門を出ようとしたところで、何者かがジェセルを呼び止めた。声の主はネフェルトだった。「……ネフェルト…」「あの方に会いに行くのね」「ネフェルト…」「そんなにあの方が好きですの? 国をほっぽり出すほどに……」妹の言葉に答えてジェセルは口を開いた。が、何か言葉を紡ぐ前にそれはネフェルトに遮られた。「何も仰らないで。 自分の好きな人が他の人をどれほど愛しているかなど、聞きたくありませんわ」ネフェルトはジェセルを見つめた。そして続けた。「ただ一言だけ、言わせてちょうだい。 …死なずに帰っていらして。 だって、わたくしだって自分の好きな人には死んで欲しくありませんもの…」ジェセルはネフェルトの頬を撫でた。すまないとは思うが、ジェセルにはネフェルトをアイリ以上に愛してやることはできない。だが、彼女は血を分けた妹なのだ。妹として、この少女を愛しくは思っている。「帰ってくるよ、絶対に」ジェセルがそう言うと、ネフェルトはこくんと頷いた。「行くぞ」キアンを振り返り、ジェセルは言った。大きな満月が南の空に輝く夜、ジェセルとキアンはエジプト王宮を後にした。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword