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水月庵

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綺麗なお姉さんは好きですか


 かの紀州の空や海にも似て、明るく天真爛漫な子供。
 自分で言うのも何だが、私はそういう子供であったらしい。
 そのように評してもらえるのは嬉しい。悪い気はしない。
 本心からそう思ってはいるのだが、そもそも私は江戸生まれ江戸育ちで己の領国であるところの紀州を一度も見たことはなかったし、それに。






 私はいつも、寂しかった。

 父は私が生まれる前に死んだ。私が生まれてくることを父は知っていただろうか? 今となってはそれすらわからない。
 そして母は、どうやら私よりもお酒のほうがお好きなようだ。
 お酒を召し上がって最初のほうはまだ良いのだが、杯が進むにつれて段々と陽気になって騒ぐようになり、母がそうなったのを見るや女中たちは慌てて母から私を遠ざけてしまうのだ。
 お顔を真っ赤にして大きな声で笑う母。
 女中たちに促されて別室へと移動しながら、私はいつも泣きそうな思いでその姿を見つめていたのだった。
 そのような幼少時代を過ごしつつ、私は四歳で紀州の藩主になり、翌年には元服して名を菊千代から慶福に改めた。
 藩主といっても四歳の子供に何ができるわけでもなく、父上の前の藩主であった治宝おじいさまが一切を取り仕切る江戸の紀州屋敷で私はぬくぬくと過ごしていた。

 そして、これはそんな日々が二年ほど続いたのちのこと。

 その日は将軍家慶様に拝謁するために江戸城へ参上する日だった。
 実は朝から少し熱っぽくて、本当は一日中屋敷で寝ていたかったのだけれど、そのようなことを言えば皆を困らせてしまうし、何より私はわがままを言うのがどうにも苦手な子供だった。
 調子の悪い身体を何とか宥めすかし、上様の御前に平伏して型通りに挨拶の口上を述べる。
 年端もいかぬ子供がたどたどしく述べる口上をじっと聞いていらした上様は、口上が終わるとともにすっと気遣わしげな表情になった。もしやどこか具合が悪いのでは、と仰った上様に慌てて首を横に振る。
 さすが、上様はよくお気づきになる。
 だが、主の体調も見抜けぬとは、などと家の者が責められでもしたら大変だ。
 私が否定すると、上様はそれ以上は何も仰らなかった。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、視線をちらりと横に流す。
 小さな桜色が目に入った。
 上様のおそば近くに侍するあの方の、膝の上に置かれた白い手の先にはいつも桜の花びらが乗っている。
 例えば私の母上などもいつも入念に爪の手入れをなさっているのだが、それでもこんなに綺麗な桜色ではない。
 私はしばし、その花弁に見入っていた。

「やはり体調が優れぬのでは?」
 上様のものとは違う、若々しい声。頭上から聞こえたその声にはっと我にかえる。
 見れば、上様ばかりかその人まで気遣わしげな表情で私を見ていた。
 私よりも九つ年上のこの方は、名を一橋慶喜という。
 このように上様に近しい者達しか集まらぬような少しくだけた場では、彼はいつも上様の一番近くに侍っていた。
「いえ、ほんとうに、そういうわけでは……」
 体調が悪いのも本当なのだが一度否定した手前認めるのも気まずいし、ましてや『あなたの綺麗な爪に見蕩れておりました』だなんて恥ずかしくて絶対に言えやしない。
 否定はしたが、彼はやはり私の体調不良に気づいていたのだろう。
 今日は少し早めにお開きにしましょうか、と傍らの上様に親しげな様子で囁いていた。
 その言葉に上様もそうだな、と頷かれた。

 それから皆と言葉を交わすことしばし。
 何はともあれ、おつとめは終わった。あとは帰って寝よう。そう思いながら黒書院の間を辞し、廊下に出た。
 身の丈に余る長袴に苦戦しながら足を一歩前に踏み出す。そのとき、確かに床を踏みしめたはずだったのに、どうしたわけか全くその感覚がなかった。まるで雲でも踏んでいるかのような。
 おかしいな、と思いつつももう一方の足を前に出す。いや、出そうとしたのだが、私はそのまま体勢を崩した。どうやら思ったよりも熱が上がってしまっていたらしい。
「紀州どの!?」
 焦ったような声はおそらく一橋卿のもの。その声が聞こえたと同時に、私は何やら柔らかいものに抱き留められた。その感触を最後に、私は意識を手放してしまった。



「母上……」
 夢の中で、私は母の姿を求めていた。母はたぶん、私のことが嫌いというわけではないのだと思う。ただ、息子よりも己の楽しみのほうが大事というだけで。
 仕方がないかな、とは思っている。
 それでも、弱った時くらい側にいて抱きしめてほしかった。
 魘される私の額に、何か冷たいものが触れた。しっとりとして心地良い。
 額に当てられたそれが、今度はするりと頬を包み込んだ。
「母上でなくてすみません」
 苦笑混じりに、少し申し訳なさそうに囁かれた声。
 母上でないのは知っている。
 だって白粉の匂いも酒の匂いもしないから。
 代わりに、その人の着物からは微かに伽羅が香った。
 何だかもったいないような気もしたけれど、あまり心配をかけるのも申し訳なくて、私はゆっくりと目を開けた。
 思った通り、そこには一橋卿がいた。
 いつの間にか布団に寝かされていた私の隣に腰を下ろし、どうやらずっと看病をしてくれていたようだ。
「お目覚めですね、良かった」
 にこりと向けられたその笑みに応える代わりに、私の頬に添えられていた手に自分の手を重ねる。
 そして、甘えるように、その手に頬を擦り付けた。
 一橋卿がクスッと笑う。
「なんか本当に母親になった気分」
 私も釣られて笑ってしまった。
 まだ熱はあるようだが、身体はだいぶ楽になっていた。

「そういえば、ここは……」
 私は確か城中で倒れたはずだ。
「上様の御休息の間です。熱が高かったので、紀州のお屋敷まで駕籠にお乗せするのも心配で」
「えっ」
 上様の御休息の間というのは、当たり前ながら上様しか使えない場所のはず。それは子供の私にもわかる。
 畏れ多いこと、と慌てて飛び起きようとした私を、一橋卿はやんわりと押さえた。
「また熱が上がってしまいますよ。上様にはお許しをいただいているので安心してください」
「でも……」
 飛び起きようとした拍子にずれた布団を直しながら彼が言う。
「いいんですよ、子供がそんなこと気にしなくても」
 からかうような口調ながら、布団の上から私を撫でる手はとても優しい。

「こどもではありません」
 確かに年齢的には子供だが、こう見えても紀州の主だ。
「ああ、これは失礼を。紀州どのはしっかりしてらっしゃいますもんね。俺があなたくらいの歳のときなんて泥んこで毎日馬鹿みたいに走り回ってましたよ。手裏剣を投げたり、屋根によじ登ったり」
「あなたが?」
 私は思わず目を見開いた。
 こんなに綺麗な人が?
「そんなに意外ですか?」
 一橋卿が笑う。
「実のところ最近は少し窮屈なんですよ。水戸にいたときのような気ままはできないし、上様は色白がお好みのようなのであまり日焼けも……あ、すみません子供にする話じゃなかった」
 活発な子供だったというのも意外だし、もうひとつ意外といえば、案外この人はよく喋る。
 そして本当に、子供にする話ではないと思う。
 窮屈なのだと言いながら満更でもなさそうなその様子が何だか面白くない。けれど、それがどうしてなのか、なにぶん子供なのでよくわからない。
「あ、噂をすれば上様」
 むくれている私を余所に、一橋卿がはしゃいだ声を上げる。

「具合はどうだ」
 部屋に入ってくると私の寝ている傍に、一橋卿とは私の布団を挟んで向かい側に腰を下ろし、上様は気さくな様子で仰った。
「あ、ええと……」
 身体の具合はだいぶ良くなったことと、畏れ多くも上様の御座所を使わせていただいて申し訳ないということ。
 それらを伝えなければいけないと思うのだが、どうも上手く言葉が出てこない。
 私に代わって、一橋卿が上様に告げた。
「御熱も幾分下がり、落ち着いたようです」
「それは良かった。どれ」
 上様が私の額に手を置く。少し乾いた、ひんやりとした手。
「おお、まだ少し熱いがもう大丈夫そうじゃな。腹は空いておらぬか?」
「少し……」
 どこまでも気さくで優しげな様子な上様におずおずと申し上げる。
 食欲があるならばますます安心じゃ、と上様は破顔した。
 私はあまり丈夫な性質ではないらしくて寝込むことも多いのだが、このような労わり方をされたのはもしかして、今日がはじめてではないだろうか。
もちろん乳母や小姓達とて手を尽くして看病はしてくれるのだが、彼らはあくまでも使用人。このように親しげに接してくれはしない、というか接することができるはずもない。
父は私が生まれる前に死んだ。そして母はお酒に夢中。私の看病など、してくれるはずもない。
そう考えると、このお二人がまるで話に聞く『優しいお父様とお母様』みたいで。
 尤も、上様はお父様というよりもおじいさまと申し上げたほうがいいようなご年齢だし、一橋卿は私と十も違わないし、そもそも男性だけれど。

「粥ならば召し上がれそうですか? それとも果物など、甘いもののほうが」
「甘いものがいいです!」
 甘えついでとばかりに、一橋卿の問いに食い気味に答える。
 一橋卿と上様が私の身体越しに顔を見合わせて笑った。
 完全に幼子を見る目だ。いや間違ってはいないのだが。
 でも恥ずかしいし、少しきまりが悪い。
「それでは果物と、菓子も用意させよう。ああそれと紀州の屋敷には使いを出しておるし、わしは今日は大奥で寝むゆえ、ここは自由に使うと良い」
 では養生するのじゃぞ、と仰って上様は立ち上がった。
「大奥へ、でございますか」
 上様を見上げ、一橋卿が言う。
「何じゃ拗ねた顔をして」
「別に」
「一人で寝るだけじゃ。女は呼ばぬ」
「お呼びになれば良いではありませんか。それとて上様のつとめです」
「怒るな。今のわしはもうそなただけじゃ」
 私の頭越しに交わされる会話。上様はご自分よりも遥かに年下の一橋卿の機嫌を必死にとっておられる。考えるまでもなく、これはたぶん聞いてはならない類の会話だ。
 先程はこのお二人がまるでお父様とお母様のようと思ったが、この会話を聞けばやはり、なぜだか少し面白くない。
 なぜそう思うのだろう。
 そんなことを考えているうちに、私はまた眠りに落ちた。
 結局、お菓子は食べそびれた。



「覚えてたんですか?そんな昔のことを」
 頭上から声が降る。あの日と変わらぬ、しっとりとした声。幕閣や公家の連中とやり合うときの朗々とした声も良いが、私はやはり今のこの囁くように優しい声音のほうが好きだ。
「忘れていると思ったか?」
 寝返りを打ち、今私が枕にしているその人の膝を撫でた。
「だって上様はまだ小さかったでしょう、あのとき」
「いくら小さくとも、幸せな記憶は忘れぬものだ」
 彼の手を取る。その指の先には相変わらず綺麗な桜色が乗っていた。
 その手を自分の口元へ持っていき、唇で軽く触れると、お戯れを、と彼は笑った。

 あの日から十年あまりが過ぎた。
 上様こと家慶公はあれから程なくして身罷られ、その後を継いだ家定公ももはやこの世にはなく、今は私が『上様』だ。
 そしてあの日の江戸城中奥としつらえは似ているがここは江戸から遠く離れた京のみやこ。
 三代家光公以来二百年あまりも主人の訪れを得なかった二条城に今、私と一橋卿、いや慶喜はいる。
 目まぐるしく変わる情勢の中で揉まれるばかりの日々にほんの少し生まれた平穏なひととき。
 人を遠ざけて、私は彼の膝で微睡んでいた。
 あのとき幼子だった私はもう大人になったが、彼はあの日と少しも変わらず綺麗だ。仄かに香る伽羅も変わらず快い。

 慶喜が小さくくしゃみをした。
「風邪か?」
 今度はわしが看病してやろうか、と言うと、彼は首を横に振った。
「風邪ではないと思います。ただ、今日は少し冷えるので」
「そうか」
 ならば、と身を起こす。
「上様?」
 突然膝から重みが消えたことに要領を得ない顔をしている彼を抱きしめた。
 その身体を抱きしめるたび、思ったより細いな、と思う。
 その明晰な頭脳を武器に混沌の時代を泳ぐ一橋卿は普段はもっと大きく勇ましく見えるのだが。
「あたたかいか?」
 腕の中の彼に問う。
「はい。でも……まだ日も高うございます」
 そう言いつつも、彼は大人しく腕の中に収まってくれていた。そればかりか、やや遠慮がちに私の背中に手を回してくる。
 不届きなことをしているという自覚はある。
 このようなことをするために我らは江戸から遠く離れたこの場所にいるわけではない。
 わかってはいるのだが、それでも、今日もまた秘密の逢瀬を重ねてしまうのだ。

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