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水月庵

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手を重ねる

有間皇子の変あたりのときの赤兄と敏傍

 すっかり冷え込むようになった霜月の三日のこと。
 門が開閉する音を、蘇我敏傍は褥の中でぼんやり聞いていた。ややあって、今夜は開くはずのない寝台の帳がゆらりと揺らいだ。驚いて飛び起きる。
「うわっ……、何だ、常陸か」
 毎日顔を突き合わせているおなじみの少女の顔に、ほっと胸を撫で下ろす。と同時に、慌てて少女に背を向けて、枕辺に置いてあった上着を羽織った。

「常陸ですよ、お義父様。……どうして何も着てらっしゃらないの?」
 常陸と呼ばれた少女が小首をかしげる。
「俺は寝る時は何も着ない主義だ。それよりもどうしたんだ、こんな夜更けに」
 そそくさと帯を締めながら、早口にそう訊ねる。
「さっき門のほうで物音がしたでしょう? それで目が覚めちゃって」
 もし盗賊か何かだったら、と不安を口にする少女を安心させるように、敏傍は笑ってみせた。
「大丈夫だ。大方、赤兄がどこかへ出かけて行ったんだろ」
 何でもないことのように、敏傍がこの邸の主の名、つまり常陸の実の父親の名を口に出す。






「まあ」
 敏傍の言葉に、常陸は秀麗な顔を険しくして、眉を吊り上げた。
「お義父様というお方がありながら、父上ったら。
 事と次第によってはもう絶対邸へ入れてあげないんだから」
 我がことのように憤慨する常陸を、まあまあと言って敏傍が宥める。
「そう言ってやるなよ。赤兄にだってそんな夜はある。
 それに、行き先はおまえの母君のところかもしれないだろ?」
「それはそうかもしれませんけれど」
 常陸は俯いた。
 蘇我常陸娘(そがのひたちのいらつめ)。
 今年十三歳になったばかりのこの美少女は、この邸の主、蘇我赤兄(そがのあかえ)の一の姫である。生母の元を離れ、赤兄と敏傍が暮らすこの邸で、妹の大蕤(おおぬ)とともに后がねとしての教育を受けている。赤兄曰く、かつて外戚として権勢を誇った蘇我本宗家の若君であった敏傍ほど、お妃教育の師にふさわしい人はいないらしい。お妃教育にさして自信があるわけではないが、少なくとも敏傍は常陸と大蕤を娘同然に大切にしているし、二人の姫もまた、敏傍を『お義父様』と呼んで慕っている。

「でも、お義父様はお嫌じゃないの?」
 敏傍の顔色を伺いながら、常陸がためらいがちに訊ねる。その言葉を、敏傍は一笑に付した。
「大丈夫だ。おまえと大蕤の母君のことは尊敬してるし、大事な姫を預けてくれたことに感謝もしてる。厚く遇されて当然だと思ってる。
 もちろんそれは他の女性に対しても同じだ。
 ただ……」
「ただ?」
「都がもぬけの殻の今の状況で、留守官を仰せつかってる赤兄が何か他の用事で家を空けたとしたら、少しだけ物騒だな」
 そう。女帝の行幸に従って、葛城皇太子を始め主だった皇族や臣下がこぞって牟婁の湯へと旅立っている今、都はほぼ空っぽの状態である。残っているのは皇太子直々に留守官を任された赤兄と、後は先帝の皇子である有間皇子くらいだ。

 常陸がはあ、とため息をついた。
「今頃皆様は牟婁の湯でお湯を楽しんでらっしゃるのよね。私も行きたかったわ。
 全く、どうして父上は留守官になんてなってしまったの」
「留守官なんて名誉なことなんだぞ。それだけ信頼されてるってことなんだから」
 不満げに頬を膨らませる愛娘をそう言って嗜める。
「さ、もう寝ろ。夜更かしは身体に毒だ」
「わかったわ。おやすみなさい」
 常陸は素直にそう言って、かつて敏傍が教えた通りに優雅に一礼して去っていった。
 その後ろ姿を見送ってから、敏傍も再び床に就いた。
 今宵は隣にいつもあるはずの温もりがない。
 その寂しさを紛らわすように、身体に掛けた布をたぐり寄せると、それを抱きしめるように丸くなった。
 どうやらこのまま、眠れそうにない。



 夜明け前に赤兄は帰ってきた。寝台の脇に腰を下ろして自分の髪を撫でてくる主を、敏傍は寝た振りで出迎えた。が、髪や頬をしきりに撫でてくるその手と、自分に向けられるその視線がくすぐったくて、我慢できずに敏傍は目を開けた。
「起こしてしまいましたか」
 申し訳なさそうに赤兄が言う。
「全くだ。気持ち良く寝てたのに」
「すみません。あなたの寝顔が綺麗だったので、思わず」
「そうか。それなら仕方ない。許す」
 ひとしきり馬鹿馬鹿しいやり取りをした後、赤兄がふっと真顔になる。

「何も聞かないのですか?」
「何を?」
 質問を質問で返すと、赤兄は困った顔をした。その顔を見て敏傍が笑う。
「夜中にこっそり出かけて行って、今まで誰と何をしていたかを、か?」
「お見通しなのですね」
 赤兄の言葉に、敏傍は曖昧に頷いた。
「おまえが先に寝ててくれなんて言うからおかしいと思ってた。
 でも聞いたところで楽しい話じゃないんじゃないかな」
 身を起こしつつ、敏傍は言った。伸ばした手で赤兄の頬を包む。
「どうした? 辛そうな顔をしてる。俺が何かしてあげられることはあるか?」
 赤兄は自分の頬に添えられた敏傍の手に自分の手を重ねた。
「今はまだ何も言えません。ただ、この先私がすることは全てあなたを守るためだと、どうか理解していただきたい」
「わかった。他には?」
「あとは……、そうですね、娘達を引き続きよろしくお願いします」
「任せろ」
 そう請け合ってから、敏傍は頬に置いた手を滑らせ、赤兄の首に手を回す。そして赤兄の身体を自分のほうへ引き寄せると、そのまま彼を巻き込むように寝台へ倒れた。
「敏傍様?」
「二度寝しようぜ。どうせ皆今ごろ温泉でのんびりしてるんだから、俺らもこれくらい許されるだろ?」
 驚いた表情を見せる赤兄に、敏傍はそう言ってにんまり笑った。
 今帰ってきたばかりで外出用の衣のままの赤兄は、素肌の敏傍を抱いて束の間の眠りに落ちた。



「天と赤兄知る、我知らず、か」
 端近に座った敏傍が呟く。霜月も中頃の本日、敏傍の見つめる先にはすっきりと晴れ渡った冬の空が広がっている。
 去る霜月の十一日、有間皇子は謀反を企んだかどで処刑された。敏傍が呟いたのは、その尋問の際に皇子が言い放ったという言葉だ。
 皇子を陥れた張本人である赤兄が、敏傍の隣で怯えたように肩を震わせる。だが、敏傍が続けて言った言葉は予想とは違うものだった。

「自分も謀反に乗り気だったくせに悲劇の皇子気取りでよく言う」
 弾かれたように自分を見た赤兄から、敏傍は気まずげに顔を背けた。
「俺だって皇子を哀れに思わないわけじゃない」
 赤兄がふらっと出かけていったあの夜から二日後、この邸を訪れた若き皇子の姿を思い起こしつつ、敏傍は言う。
「難波の都ごと捨てられた父帝が失意のうちに亡くなるのを見送って、その後は狂人の振りをして自分を守って。
 そして最後、おまえに騙されて死んだ。
 あの方の短い生涯に幸せな時期なんてあったのかなって思うよ」
 敏傍は赤兄に向き直った。膝に置かれた彼の手に、自分の手を重ねる。
「これは俺の憶測だが、皇子はたぶん分かってたんじゃないか」
 敏傍の言葉に、赤兄が僅かに目を見開く。
「罠だって分かってて、それでも自らの命と誇りのために賭けに出た。そして敗れた。
 そうなんじゃないかなって思う。……せめてそうだったらいいと思う」

 赤兄は敏傍の手を握り返した。やや筋張った細長い指に自分の指を絡める。時折ぎゅっと力を込めたり、爪の形をなぞったり。
 特に抵抗などはせず、敏傍は赤兄の手の中でいいようにされる自分の手を見ていた。

 先の帝の遺児である有間皇子は、共に女帝と皇太子を倒そうというこの男の甘言に乗せられ、若い命を散らした。それは赤兄と皇太子が共謀して仕組んだこと。
 すべては皇太子、葛城皇子が牟婁の湯へ行き、赤兄が留守官として都へ残ることになったとき、決まっていたのだ。
 赤兄に悟られぬよう、敏傍は心の中だけで笑った。
 天才と謳われた兄、蘇我入鹿のことを弱冠二十歳にして葬り去った葛城皇子が有間ごときに恐れを生してこんな大掛かりな罠を仕掛けたとは笑わせる。
 だが。
 敏傍は、まるで慈悲を乞うかのように自分の手に縋る男を見やった。
 彼は常々、力が欲しいと言っていた。『史上最悪の逆臣』の弟をこの世の全てから守るための力が。
 そのために彼は卑劣な策略に加担した。もしかしたら、策略の片棒を担ぐことへの見返りは敏傍の身の安全の保障そのものであったのかもしれない。
 彼のことは蔑み笑うことなどできない。全身全霊をかけて今までも、そしてこれからも自分を守ってくれる愛しいこの人を、遥か西の国の聖母のごとく清らな愛で包んであげたいと思う。
 けれど生憎、敏傍はそこまで人間ができてはいなかった。

「有間皇子を、抱いたか?」
 言ってしまってから、激しく後悔した。最低だ。敏傍の言葉に、赤兄の手が止まる。
「敏傍様、私は……」
 縋るような目で何かを言いかけた赤兄を、敏傍は慌てて遮った。
「ごめん。俺、何言ってるんだろう。忘れてくれ。……何も言わないでくれ」

 敏傍は膝立ちになって、上から赤兄に口づけた。敏傍の細い腰に赤兄の腕が絡む。口づけが深くなるほど、腕の力も強くなる。
 敏傍は赤兄の肩につかまり、甘えるように身体をすり寄せた。
 赤兄の手が帯に伸びる。それに形ばかりの抵抗を見せながら、敏傍は思う。余計なことを考えるのはやめよう、と。
 もう自分は蘇我本宗家の次男でも、物部の氏上でもない。
 父や兄が生きていたあの頃……、まだ赤兄を好きになる前に時間が戻ることはないのだ。
 そして、もう戻りたいとも思わない。
 あのとき甘樫丘で死に損なった自分は、こうして誰かを踏みつけにしつつ、好きな人の手を取って生きていく。
 それでいい。
 そう思った。


おい誰が裸族になれと言った

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