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水月庵

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血に塗れた靴を履いて

本日の朝議も恙無く終わった。内臣(うちつおみ)である中臣鎌足は席を立ち、帰り支度をしていた。
「内臣」
 席を立った鎌足に、上座から涼やかな声がかかる。
 声の主は葛城皇子。高御座のその次、帝に最も近い位置に座する彼は、日嗣皇子であると同時に帝を凌ぐ権勢で君臨するこの国の主ともいうべき人である。
 葛城は軽やかな身のこなしで席を立つと、鎌足の傍へやって来てその耳へ口を寄せた。目隠しのように笏を立て、囁くような声で鎌足に耳打ちする。
「今宵私の邸へ来い。話がある」
「話とは」
 つられて、鎌足の声も小さくなる。
「右大臣のことだ」
 葛城の言葉に、鎌足は官人共と雑談している右大臣、蘇我倉山田石川麻呂にちらりと目をやった。
「……承知いたしました。それでは今宵、いつもの時間に」
 鎌足がそう答えると、葛城はその切れ長の目を細めて満足げに頷いた。






「采女は全て退がらせているゆえ、私の酌ですまぬな」
 夜。静まり返った邸で、葛城がそう言って笑う。
 袖口から覗く白い手。頼りない明りの下に浮かび上がるその白さが、妙な背徳感を煽る。
「右大臣殿のことで、とお伺いしました」
 年下の主に感じた妙な昂りを誤摩化すように、努めて事務的に鎌足は言った。
「少しは酒を楽しんでから、と思うたのに、おまえはせっかちだな」
 葛城が笑う。
「そうだ。今日おまえを呼んだのは他でもない、右大臣石川麻呂のことだ。
 私はあの男には、近々消えてもらおうと思っている」
 何でもないことのように、静かに酒をあおりながら、葛城は言った。

「彼は、去る乙巳の折の出来事の立役者ではありませんか。
 我々が今このような地位にいるのも、元を正せば右大臣殿が描いた絵図に乗ったからこそ……」
 顔色は変えず、尤もらしいことを言い募る鎌足の言葉を葛城はその白魚の手で遮る。
「鎌足。今私達が立っている場所、そしてそこから見える景色はかつて、あの男が見たのと同じもの」
 杯を持つ鎌足の指がぴくりと震える。
 あの男。……蘇我入鹿。鎌足と葛城、そして件の石川麻呂が共謀して殺した、希代の天才。
 鎌足の反応を見て、葛城はどこか切なげに笑った。
「……やはりまだ、忘れられないか」
 独り言のようなその言葉を、鎌足は敢えて聞かなかった振りをした。
「……戯れ言はよそう。
 私はな、鎌足。今こうしてあの男と同じ位置で我が国を見つめて、分かったのだ。
 彼が目指していたもの、真に望んでいたことが」

「豪族共の特権を廃して、帝の名の下に集権国家を築く」
 鎌足がそう言うと、葛城は驚いたように些か目を見開いた。
「あの男……蘇我入鹿が考えつくようなことに、私が全く思い至らぬとでも?」
「まさか。おまえをそこまで見くびってはおらぬ。
 私が言いたいのは、その未来は右大臣がいる限り来ないということだ」
 葛城が言うことは尤もであった。
 右大臣、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我の分家の男。権勢を恣にする蘇我本宗家の入鹿を倒し、その地位に取って代わるために彼は入鹿を殺したのだから。

 明りがジジ……、と音を立てた。采女を残らず退がらせた部屋の内。立ち上がりかける葛城を制して、鎌足が燭台に油を注いだ。そのままの位置で、彼は言う。
「しかし、右大臣殿はあなたの舅。あなたが目に入れても痛くない程可愛がっていらっしゃる二人の姫君の祖父君なのですよ」
「そんなことは分かっている」
 苛立った声で葛城は言った。
「だが、娘可愛さに国の舵を取り違えるような男を姫達も父として尊敬などするまい」

 油を注ぎ終え、再び葛城の元へ戻ってきて相対す形になった鎌足の、膝に置いた手に葛城は自分の手を重ねた。
「なあ鎌足。初めて私とおまえが会った日、どうせおまえは私のことを捨て駒にするつもりだったのであろう?
 入鹿を殺して、永遠に自分のものにするための」
 その言葉に瞬時に首を振って、何か耳障りの良いことを言おうと思った。だが、葛城の強い目がそれを許さなかった。
 鎌足の手を握る葛城の指に力がこもる。もう一方の手で、葛城は鎌足の肩に縋った。
「それでも良いと思った。私はおまえに魅せられた。
 あの日おまえが拾った私の靴は、今もおまえが持っているのだ。
 私はおまえがいなければ、一歩も歩くことはできぬ」

 さあ手の内は全て見せた。後はおまえの思うままにすれば良い、と耳元で囁く葛城の背を、鎌足は抱き返した。
 射干玉の髪が、そこから立ち上る芳しい香りが鎌足の鼻腔を、心をくすぐる。
 だがそれはまやかしだ。
 葛城皇子は血に濡れた皇子。その身体から香るのは忌まわしい血の匂いに他ならない。
 彼をそう変えたのは、誰あろう。

「血に塗れたその靴で、俺達はどこまで行けるのでしょうか」
 長い黒髪を弄びながら、鎌足は言った。
「おまえがいてくれるなら、どこまででも」
 鎌足に身を委ねながら、葛城は言った。

 孝徳天皇の治世五年の三月のこと、右大臣蘇我倉山田石川麻呂は弟である蘇我臣日向の讒言によって、死を選んだ。死した大臣の遺産は、価値あるものの悉くに「日嗣皇子の書、日嗣皇子の物」と記されていた。それをご覧になった日嗣皇子は大臣が潔白であったことを知り、深く後悔し嘆き悲しまれた。また、大臣の娘であり日嗣皇子の妻であった姫は心を壊され、程なく亡くなったという。

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