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水月庵

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同じ時を刻む

「主上、この度の行幸、まことに……」
 侍女がかしこまって口上を述べようとするのを、主人の病室から出てきた鎌足の妻、鏡はやんわりと止めた。
「仰々しい挨拶など、今はまどろっこしいだけでしょう。
 葛城さま、どうぞこちらへ」
 現夫の無二の主であり、自身の元夫という複雑きわまりない関係の葛城を、鏡は今でも葛城さま、と親しげに呼ぶ。が、そこに他意はない。
「鎌足の容態は」
「元々体調を崩されていたところに、今回の落馬のお怪我で……。
 もうずっと、熱が下がらないのです」
 言いながら、鏡は病室の扉を開けた。
 中には医師の他、鏡以外の妻である与志古と安見児もいる。
「与志古さん、安見児さん、少しだけこちらへ来てくださる?
 それと先生方も」
 鏡はそう言って、部屋にいる人々に退出を促した。
「それでは葛城さま」
 鏡は葛城に頭を下げた。
「ああ。ありがとう」
「ずっとあなたのことをお待ちでしたのよ」





 鏡をはじめ、皆が部屋を去った。後には、葛城と、寝台に横たわる病人が残される。
「皇子」
 すでに即位した今も、鎌足は葛城のことをそう呼ぶ。まったく、鏡といい鎌足といい、この夫婦は天皇を何だと思っているのか。だが、葛城は鎌足にそう呼ばれることが好きだった。
 落馬したときの骨折が因で熱が下がらないと聞いた。
 だが、今の鎌足は少しだけ落ち着いているように見えた。
「感心しませんね。この国の主ともあろうお方が仕事をほっぽり出して見舞いとは」
「このようなときに仕事など……」
「嘘です。来てくださって嬉しいです」
 鎌足が笑う。
「ああ。今日はおまえに大織冠の位と藤原の姓を授けに来た。だから……」
 早く良くなってくれ、という言葉は、音にならずに消えた。その言葉の空しさはもう分かっていた。

「皇子」
 静かな声で、鎌足が枕辺に座る戦友を呼ぶ。何だ、と応じる葛城に、何でもないことのように鎌足は訊ねた。
「皇子は俺と居て幸せでしたか」

 葛城は鎌足の手を握った。
 初めてこの手にとらわれたとき、葛城は十八だった。
 それから二十余年。ずっと共に歩んできた。
 もしあのとき、鎌足に出会わなければどうなっていただろうか、と考えたこともある。
 もし彼に出会わなければ、こうして至上の地位に就くことはなかっただろう。だが、代わりに誰の血にまみれることもなく、それなりに幸せに暮らせていたかもしれない。
 だが、葛城の答えは決まっていた。
「当たり前だ」
 たとえ、鎌足の心の中に居る『誰か』に嫉妬し続けた二十余年だとしても。
 それでも、彼の居ない人生など到底考えられなかった。

 鎌足は葛城の手を握り返した。
「俺もですよ。愛しています、皇子」
 葛城は思わず目を見開いた。
「何を……今になって、いきなり……。今までそんなこと、一度も言ったことはなかったのに」
「あれ? そうでしたっけ。
 寝顔には何度か言ったことがあるんですけどね」
 病床で鎌足がいたずらっぽく笑う。
「起きているときに、言ってほしかった。
 私はずっと、自分ばかりがおまえを好きなのだと……」
 彼に合わせて笑おうとしたが、上手く笑えなかった。
 鎌足が捧げてくれる忠誠を疑ったことはない。だが、自分に跪く彼に、自分が望むままに抱きしめてくれる彼に、これ以上を望んではならないのだとずっと思っていた。
「生憎、忠誠だけで生きていけるほど高潔な人間ではありませんので」
 鎌足が握った手を引き寄せる。
 手の甲に落とされた接吻に、いよいよ涙をこらえきれなくなった。
 言いたいことは山ほどあるはずなのに、どれひとつとして言葉にならない。
「そんなに泣かないでください。
 落馬したのは予想外でしたが、まあ概ね寿命ですよ」
 こちらは胸が張り裂けそうな思いなのに、鎌足はいつになく穏やかで、どこか満足げだ。
 手を握ったまま眠りに落ちた鎌足を、葛城は飽くことなく見つめていた。これが最後になると思うと、離れられなかった。

 翌日、中臣鎌足、いや大織冠藤原鎌足は息を引き取った。
「眠るように穏やかな最期でした」
 葬儀が終わり、しばらく経った頃。家を訪ねた葛城に、白一色の喪服に身を包んだ鏡は静かにそう言った。
「そうか」
「ええ。良い人生だったと、言っておりました。
 時に葛城さま、大津京の漏刻の完成はまもなく?」
「いや、まだもう少しかかりそうだ」
 葛城が首を横に振る。
「そうですか。……あれはもう、十年ほど前になりますね。
 初めて飛鳥で、葛城さまが漏刻をお作りになって時を刻んだとき、柄にもなくあの人がはしゃいでいたことを思い出したものですから。
 大津京でも、あなたが時をつくる姿を見たかったことでしょう」
 十年前のことを思い出したのか、鏡がふふっと笑った。
「大津京の漏刻が完成する頃には、私ももうこの世には居ないかもしれないな」
「まあ、何をおっしゃいますことやら」
「いや、本当に。鏡、おまえには悪いが、鎌足のところに行くのはたぶん私のほうが先だ」
「あら残念。私の出る幕がなくなってしまいますわ」

 感傷を抜きにしても、無二の忠臣を失った穴は大きい。
 戸籍の作成、令制の整備。それから後継者問題。旧都へ残してきた抵抗勢力の動きも未だ予断を許さない。
 そのどれもが、片腕を失った今、自分一人で立ち向かわねばならない問題だ。

 だが今は、鎌足の妻であったこの女性と、ただ亡き人を偲んでいたかった。

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