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水月庵

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兄と弟




武智麻呂と房前が兄弟団欒しながら長屋王を排斥する意向をかためる話


 やはり、あの方には消えていただく他あるまい。
 柄にもなくグルグルと長い間考え続けた結果、俺はそう結論付けた。
 あの方。長屋王。
 高貴で、とても聡明なお方。
 俺はずっとあの方に憧れていた。
 邸を訪れた俺を歓迎してくださり、俺の作った取るに足らぬ詩歌を褒めてくださったあの屈託のない笑みを思い出すと今でも胸が焦がれる。
 認めたくはないが、その感情はある意味、恋ともいえた。
 だが。それでも。
 あの方は屠るべき敵。
 俺の描く未来に彼はいない。

「あなた、房前さま」
 快活な妻の声に、思索の海に沈んでいた俺ははっと我に返った。






「あら、また何やら難しいお顔をしているのね。眉間に皺が寄っていてよ」
 花鈿の描かれた自分の額に細い指をやりつつ、妻がそう言っていたずらっぽく笑う。
 その仕草につられるように、俺は自分の眉間を触った。
「牟漏、俺はそんなにいつも難しい顔をしているか」
「ここのところはずっとそう。思案なさっている顔も素敵だけれど、少し心配になります。
 そうそう、今ね、お義兄さまがお見えになったの。
 わたくしは席を外すから、久しぶりにご兄弟でのんびりお話でもなさったらいかが?」
 妻の言葉に、俺は曖昧に頷いた。
 俺の兄、藤原武智麻呂。
 一つ違いの兄とは子供の頃はそれはそれは仲の良い兄弟だったのだが、最近は二人で話す機会などほとんどなかった。
 別に仲違いをしたわけではない。
 だが、いい年をした男兄弟など、まあそんなものだろう。
 正直に言えば、先んじて出世した俺のことを兄が本当はどう思っているのか、それが少し怖いという気持ちもある。
 とはいえ、わざわざ足を運んでくれた兄を追い返すなどという選択肢は俺の中にはない。
 久方ぶりに兄と膝を突き合わせて話すことになった。



「つらそうな顔をしているな。何か相当悩んでいるだろう」
 侍女の先導で俺の居室に足を踏み入れた武智麻呂兄上は、俺の向かいに座るなりいきなりそう言った。
「そんなに、顔に出ていますか」
 これでも宮廷では何を考えているかわからないだの老獪な政治家だのといわれているのだ。
 それなのになぜ、牟漏や兄上はこうも容易く俺の表情を読むのか。……いや違うな。彼らが卓越した読心術を持っているわけではない。単に俺がこの二人の前だと緩んでいるだけだ。

「長屋王さまのことだな」
 侍女が退出し、完全に二人きりになったのを確認してから兄は言った。
 言いながら、兄が酒器を持ち上げる。優雅に動く白い手。幼い頃は女の子みたい、可愛い、と周囲から言われ続けていた兄は、五十路に差し掛かろうとしている今でもなんだか綺麗だ。
 その手の動きに誘われるように俺は自分の盃を差し出した。
 盃が満たされていくのを見つめながら、俺は言った。
「あの方は何よりも……皇族第一のお方です」
 なみなみと注がれた酒に口をつけてから、今度は俺が兄の盃に酌をする。兄はその酒をゆっくりと美味しそうに飲み干した。
「そうだな。私もそう思う。
 で、おまえはどうする。
 長屋王さまに消えていただくか?」
 何でもないことのように、穏やかな笑みすら浮かべて兄は言う。
 そんな大それたことをいとも容易く、この人は。

「長屋王さまは確かに類い稀なる才覚をお持ちの素晴らしいお方です。しかし」
 知らず、乾いてくる喉を酒で潤してから、俺は口火を切った。
「あの方の頭の中には皇族しかいない。皇族こそこの国の主、そのほかに尊いものなどないのだと。
 それは間違いではない。
 だが、あの方は駄目だ。
 皇族至上主義に走るあまり、その下で彼らを支える我々臣下、そしてその更に下にいる民草のことが全く見えておられない。
 長屋王さまは決して権力の座に居てはならぬお方です」
 俺の言を、兄は黙ってじっと聞いていた。
 真っすぐに俺を見つめる黒目がちの目と視線がかち合う。
 その目をしばし見つめ返したあと、俺は苦笑して首を横に振った。
「いや、兄上に建前を語るのはやめておきましょう。
 ……もし、長屋王さま、あるいは彼が御正室との間にもうけられたご子息が皇位に即くようなことがあれば、我々は終わりだ。
 我が藤原氏の隆盛のために、あの方には消えていただかねばならない。
 そうですね、兄上」
 縋るように、兄に同意を求めた。
 おもむろに盃を置いた兄が、俺との距離を一歩詰める。
 白い手が俺の頭に伸びる。
 そのまま、兄は俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「房前、よく言った。おまえの言う通りだ」
 兄はそう言って笑った。

 その綺麗な笑みのまま、兄は、だが、と言った。
「だが房前、おまえは何もするな」
 思いもよらぬ言葉に、要領を得ぬ表情で俺は兄を見返した。
「何もするな、とは」
 兄の言葉をそのまま繰り返す。

 兄は二、三度瞬きをした。そして、また穏やかに笑う。
「私が矢面に立つ」
 全く気負う様子もなくさらりと言ってのけた兄。何故です、と俺は問うた。
「決まっているだろう。おまえに皇族殺しの汚名を着せたくないからだ。
 おまえは私の、自慢の弟なのだから」
 自慢の弟だと。
 そう言ってくださるのか。
 少しばかり政の才があることに驕り、兄の官位を追い越して何ら恥じることなく得意げにしていた愚かな俺のことを。
「おまえにとって私は不甲斐ない兄だっただろう。
 だから一度くらい、兄らしいことをさせろよ。な?」
 兄はそう言って、俺の肩を些か力強く叩いた。

 神亀5年の、暮れのことであった。

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