2016/08/11 Category : 古代史 親愛なる君へ 「では叔母上、そろそろ失礼させていただきます」 和家麻呂(やまとのいえまろ)は上座に座る佳人にそう言い、恭しく頭を下げた。「ええ、今日はありがとう。また偶には顔を出してね。頼りにしているわ」 佳人はふわりと笑った。無垢な少女のような透明感のあるその笑みは、年頃の子供を持つ母親のものとはとても見えない。 佳人ーー彼女は家麻呂の父の妹で、名を和新笠(やまとのにいがさ)というーーの笑みに会釈を返し、家麻呂は立ち上がった。 部屋を辞して廊下を進み、建物の外へ出る。 初夏の眩しい陽射しに家麻呂は思わず目を細めた。 額に片手をかざして遠くを見晴るかせば、抜けるような青空の下で青々と輝く田畑が延々と続いているのがわかる。成長途上の稲が風に乗ってそよそよとさざめく中、老若男女が畑仕事に精を出している。ここからは見えないが、田畑の地帯を越えた先には古津の湖から難波津へと流れ込む大河があり、そこでは大勢の水手が櫂を握っていることだろう。今ごろ都は大仏開眼会に湧いているころだろうが、その喧騒はここからでは窺い知ることができない。 のどかな農村であり、同時に交通の要衝でもある。 そして、秦氏をはじめとして他にも家麻呂の属する和氏など、渡来系の一族が多く根付いていることもあり、どこかしら文化の香りが漂う。 ここ山背国乙訓里は、そういう土地であった。 遠くの景色をひとしきり眺めたあと、近くに目をやると、この家の庭、というより畑にも土いじりをする男女の姿があった。 家麻呂の姿に気づき、女が顔を上げた。 長い黒髪を側頭部でひとつに束ね、衣の袖は作業の邪魔にならないように紐で縛っている。 品良く整った顔立ちをしているのだが、その出で立ちのせいで少しばかり毛並みの良い庶民にしか見えない。 彼女と一緒にいる、少年と形容したほうがしっくりくる年恰好の男も、鄙には稀な、思わずぞくっとするような美少年ぶりなのだが、地面に立てた鍬の柄に手を置いて首に掛けた布で汗を拭う仕草がいかんせん板につきすぎている。「家麻呂、今帰り?」 女が小首を傾げて家麻呂に問いかけた。それに頷きつつ、それにしても、と家麻呂は苦笑した。「ここまで農作業の似合う皇族ってどうなんですかね、能登さん」 幼馴染の気安さから軽口を叩いた家麻呂に、あたし達は名ばかり皇族だからね、と彼女はあっけらかんと笑った。 この二人はともに家麻呂の叔母である和新笠の子である。つまり家麻呂のいとこにあたるのだが、それだけではなく、彼らの父親は皇族である。 天智天皇の孫である白壁王の長女、能登女王と同じく長男、山部王。それが、この美しい姉弟の正体であった。 だが、皇族とはいえ庶子に過ぎず、そもそも父親の白壁王からして傍系の傍系である。 そのため、彼らの暮らしぶりはせいぜい田舎の土豪の子といった程度であり、家麻呂にとっても二人は仕えるべき主人というよりは気の置けない遊び相手であった。 突然、能登が大きなため息をついた。「どうしたんです、能登さん」 家麻呂が気遣わしげにひとつ年上の従姉の名を呼ぶ。 彼の問いに答えたのは、彼女の弟、山部王のほうだった。「この前、大仏開眼供養が終わっただろ? だからやっと義兄上が足しげく通ってくれるかと思いきや、なしのつぶてだから姉さんご機嫌斜めなんだ」「ああ、そういえば能登さんの背の君って確か大仏鋳造の最高責任者だったな」「そう。だから大仏さえできてしまえばまた前のように毎日兄上に会えるーって、そういう不純な動機で姉さん、大仏開眼の日を指折り数えて待ち望んでたんだがな」「ちょっと山部?」 鍬の柄の上に頬杖をついて饒舌に喋る弟を能登が睨めつける。「あんたの口ぶりだとまるで私が市原さまに飽きられたみたいじゃないの」「違うんですか?」 山部がしれっと言う。「違うわよ! いい? 違うのよ、家麻呂。 実はね、あの大仏まだ細部が全然できてないの。だから市原さまはまだ職場に詰めっぱなしってわけ。 ひどいと思わない? 新婚なのよ? なーにが仏教の力で衆生を救う、ですか馬鹿馬鹿しい。大仏に男とられて不幸になってるんですけどこっちは!」 能登が地団駄を踏んだ。「もうやだなんか落ち込んできた。もっと他の楽しいこと考えよう。……あ、そうだ家麻呂」 能登が意味ありげにニヤリと笑う。 家麻呂に近づき、その肩を抱いた。 二の腕のあたりに感じる柔らかい弾力に家麻呂は慌てて身を引こうとしたが、能登は我関せずである。「山崎津へ行ったそうね? 感想はいかが」「あっあれは……! 友人に誘われて仕方なく。……大体、うら若い女性がそのようなことを大きな声で言うのは……」 湯気でも出そうな勢いで家麻呂が顔を赤らめる。 その反応でわかるように『山崎津へ行く』とは単に港に行くことを指しているわけではない。 港を行き交う船乗り達を相手に商売をする遊び女が集まる場所。 山崎津は、ここらでは一番大きな色街である。「確かにうら若いけどもう人妻だもん。恥なんてないもん」 肩を抱いているのとは逆の手を伸ばし、能登は家麻呂の頬をつついた。桜色の爪が乗った華奢な指先が少しだけ彼の頬にめり込む。「ねえねえどうだったの。お姐さまは優しくしてくれた? お祝いしたほうがいいかしら。あ、でもそれは可愛い恋人ができたときのほうが……ん?」 能登が不意に口をつぐむ。同時に、家麻呂の肩に回していた腕をほどいた。 彼女の声に被せるように、穏やかならぬ物音が響いたからだ。 それはどうやら、山部が支柱にしていた鍬を地面に投げ捨て、さらにそれを蹴飛ばした音だったらしい。「いいご身分だな」 俯き、不穏な笑みを浮かべた山部が地を這うような声で言う。 彼はそのままつかつかと家麻呂に近づき、その胸倉を下から掴み上げた。「ひえっ」 予想外のところからの攻撃に家麻呂が情けない悲鳴をあげる。「山部どうしたの落ち着いて。そんなに羨ましいなら今度連れて行ってもらえば……」「そういうことじゃない!」 取り成すような能登の声を遮り、山部は叫んだ。「ふざけやがって」 掴んだ胸倉を今度は乱暴に突き放す。「二度と私の前にその面を見せるな」 吐き捨てるようにそう言い、先ほどの一撃でよろけた家麻呂にさらに体当たりをくらわすと、山部は足音も荒く屋敷へと戻っていった。「なんかよくわかんないけど」 この世の終わりのような顔で固まる家麻呂の脇腹を能登がつつく。「これあたしよりあんたが追いかけたほうがいい案件じゃない? 不用意な発言については後でちゃんと謝ったげるからとりあえず追いかけな」 その言葉に家麻呂はようやく正気を取り戻し、弾丸のごとく駆け出した。「若いっていいわねぇ。いっそあたしも市原さまを追いかけて突然の上京でもしてみようかしら」 彼の後ろ姿を見送りながら、能登はひとりごちた。*「山部! 待ってくれ!」 山部の居室へと続く廊下の中ほどで家麻呂は彼に追いついた。 細い腕を掴み、振り払おうと暴れる身体を後ろから抱え込むように押さえる。「不潔な奴だと、俺のことを軽蔑したか? 口もききたくないくらい嫌いになったか?」 山部は何も答えない。ただジタバタ暴れている。「……嫌われついでに、もっと気持ち悪いことを言ってもいいかな。 山部、俺な……、山部が好きだ」 山部が動きを止めた。「馬鹿かおまえ。なんでこの状況でそんな」「そうだな。馬鹿だな。こんな気持ちは錯覚だと、女を抱いてしまえば忘れられると思った。でも」 家麻呂は後ろから、山部の身体を骨が軋むほど強く抱きしめた。 首筋に顔をうずめると、微かに汗の匂いがした。遊女の甘ったるい白粉の匂いなんかよりずっと扇情的な匂いだ。「錯覚じゃなかった。忘れられなかった」 首筋をなぞる唇から発せられる低い声が振動を伴って山部の身体に響く。「おまえがいい。おまえじゃないとだめだ。おまえをだ……抱き……」 家麻呂の声が尻すぼみに消える。 肝心なところで口ごもった家麻呂に、山部は脱力したようにため息をついた。「そこまで言うなら最後まで言え……」 家麻呂の腕から抜け出し、彼に向き直る。 家麻呂の赤い顔を見上げ、すぐに気まずげに目を伏せた。切れ上がった目の上で長い睫毛が震えている。「山部。おまえがあんなに怒った理由……、俺は自惚れてもいいのか?」 これまた気まずそうに目線を斜め上のほうに流しながら、家麻呂が問うた。「い、いいんじゃないか? 都合良く解釈しておけよ」 そう言ってから、意を決したように山部は顔を上げた。 家麻呂の首に腕を回して、唇を寄せ合う。 不器用に唇を触れ合わせ、すぐに顔を離した。 目を見合わせて、二人して照れ笑いをする。 もう一度、と家麻呂が山部の頤に触れた。 その手に促されるように山部も目を閉じ……ようとしたが、結局その目は逆に見開かれることになった。「姉さん……」 山部が呆然と呟く。「えっ!?」 山部の声に、家麻呂も慌てて振り返る。 そこには、農作業を終えて戻ってきたらしき能登女王の姿があった。「ごっごめんなさい!」 能登が叫ぶ。「まさかこんなに展開が早いとは思わなくて……。 あっ私のことは気にせず続けていいのよ? さあどうぞ!」「続けられるか!」 赤い顔で山部は姉に抗議した。家麻呂も同感である。 廊下で起きている騒ぎに、何事かと新笠まで出てきた。「あら家麻呂、まだ帰ってなかったの?」 柔和な笑みを浮かべてそう問う新笠の裳裾には、能登と山部の年の離れた弟である早良王がしがみついている。 もう何が何だかである。 先程の甘やかな雰囲気は完全に消し飛んだ。 だが、幸せだった。 家麻呂は山部と顔を見合わせ、笑いあった。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword