2015/09/23 Category : ナイルの雫 ナイルの雫 第1章 「あちー…輿しんどいー……」砂漠を行く花嫁行列の主は、その華やかな輿の中で呟いた。「ア……アイリさま、皆に聞こえますわ」その横を馬に乗って伴をしているテオは小声で主を諌めた。彼女は花嫁--アイリの乳兄妹である。それにしても、と語調を改めてアイリは言う。「……どうしよう?」その言葉を聞いて、テオもため息をつく。「ホント、どうしましょう?」アイリはヒッタイト帝国の第一皇女である。彼女はこの度、故国と肩を並べる大国、エジプトのジェセルカラー王に嫁ぐことになった。両国の同盟のためだ。だが。「もし俺がエジプトになんか行けば、同盟どころか戦争になっちまう」アイリは眉をしかめた。そして、俯く。その拍子に、アイリの柔らかい茶色の髪が頬にかかる。その髪の艶やかさといい、肌のすべらかさといい。また、長い睫毛に縁取られた瞳は世にも珍しい紫色だ。そして、すっと通った細い鼻梁の下には薄く形の良い唇がある。アイリは故国ヒッタイトでも帝国一と謳われた美貌の皇女だ。ただ、その美貌の皇女は……実は皇女ではないのだ。「だってさ」アイリは言う。その声は、かすれているし女にしては低いのだが、しかしギリギリ女で通るだろう。だが。アイリはけろっと言った。「俺、男だし」 そう、ヒッタイト随一の美貌の姫君は、実は男。しかしアイリの実母も、そしてテオの母でありアイリの乳母でもあったシアラが亡くなった今となっては、その秘密を知る者は本人とテオのみなのだ。「しっかし俺ももう二十歳だし、もう婚期は逸したと思ってたんだけどなー」「私も、もうセーフだと思ってましたわ。 ……ところで、実際問題どうするんです?」「……トンズラするに決まってんだろ」アイリは、ぼそっと言った。確かに、エジプトに輿入れするはずの皇女が行方をくらましたとなれば国際問題だろう。だが、それは何とか盗賊に襲われたとか言って誤摩化せる気がしなくもない。しかし、嫁いできた美貌の皇女が実は男でした☆なんて展開になれば、一体どうごまかせばいいというのだ。俺だったら、とアイリは考える。もし自分のところに嫁いできた異国の姫君が男だったら。絶対、その故国を滅ぼす。誰が何といおうが、跡形もなく滅ぼす。--それは、向こうも同じだと思うのだ。だから、今のアイリには逃げることしか名案が思いつかなかった。それにしても、と思う。亡き母も随分と厄介なことをしてくれたものだ。確かに、母の懸念は当たった。父、皇帝は母が亡くなってから3年程が経ったころ、新たに皇妃を迎えた。その新しい皇妃の名を、シェンナという。シェンナは、確かに容姿は父の言う通り母に生き写しのたおやかなものだったが、中身はまるで違った。程なくして、シェンナは皇子を出産した。もしアイリが皇子として育っていたなら、何が何でも我が子を帝位につけたいであろうシェンナに暗殺されていたかもしれない。皇女として育っていたからこそ、アイリは無事生きていられたのだ。だが、まさかエジプトに輿入れさせられることになるとは…。想定外だ。アイリは、エジプトへと向かう大層ご立派な花嫁行列を眺めて、ため息をひとつついた。*そのときだった。アイリが行列の前方の異変に気付いたのは。「皇女!」兵士の一人が輿の中のアイリに呼びかける。「一体、何があった」アイリは兵士に問うた。「と……盗賊でございます! 一刻も早く退治します故、どうぞ皇女は輿の中にお留まりを」「盗賊だと?!」アイリは思わず叫んだ。盗賊……。いや、確かにいるとは聞いていたが。まさか皇女の一行を狙うとは。……いや、目も眩むような財宝に、弱そうな兵士。自分が盗賊でも狙うだろう。アイリは輿の中でため息をついた。それにしても。どうして、この行列に従軍する兵士はこんなに弱いんだ?仮にも、皇女の花嫁行列だ。この行列には国の威信がかかっているというのに、父皇帝も何を考えているのやら。もう少し強い兵士を付けてくれたって罰は当たらないと思うが。アイリがそんなことを考えている間にも、前方の喧噪は徐々にこちらへ近付いてきている。護衛の兵士が弱いのか、それとも盗賊が強いのか、護衛の兵士は次々と倒されているようだ。盗賊たちは、今やアイリの眼前に迫っている。「キャアッ!」アイリのすぐ側で、女の悲鳴が聞こえた。……まさか。「テオ?!」すぐ側で聞こえた女の悲鳴に、アイリは輿から出た。案の定、襲われているのはテオだった。アイリは、テオに襲いかかった盗賊その1の胸に、容赦なく短剣を刺した。どうも、皇女が突然転がり出てきたことに束の間呆気にとられていたらしい。盗賊その1は胴部ががら空きだった。頽れる盗賊その1の手から長剣を奪うと、アイリは振り向きざまに盗賊その2を袈裟懸けに斬り、返す刀で盗賊その3をも斬り捨てた。「大丈夫か、テオ」アイリはテオに駆け寄った。「アイリさま……」テオはアイリに笑いかけた。幸いにも、傷つけられたのは腕だけで、それもそこまで深い傷でもなさそうだ。「相変わらずの腕前ですわね」テオは言った。テオの腕の傷の手当をしながら、アイリはその言葉に照れくさそうに笑う。「ま、必要に迫られてたからな」そう、アイリは剣の名手である。幼い時から、もちろん人目をしのんで、だがアイリは剣の練習をしていた。結果、アイリはヒッタイト随一の武人からも剣の名手だと褒められるまでになった。皇女として育てられたにも拘わらず、今までアイリは幾度となく継母であるシェンナ皇妃に命を狙われてきた。生き延びるためには、強くなることが不可欠だったのだ。アイリは忌々しげに舌打ちした。一体、何人いるんだ盗賊……。さっき斬り捨てたもので全部かと思いきや。……まだいる。「テオ、隠れてろ!」どこに、と自分で突っ込みたくなったが、とりあえずそう言う。そして、先程盗賊から奪った長剣を握り直す。盗賊は下卑た、若干バカにしたような顔で向かってくる。か弱い皇女の、せめてもの抵抗だとでも思っているのか。アイリはにやりと笑って盗賊に斬り込んだ。案の定、隙だらけだ。ヒッタイトの武人の御墨付きを舐めんなよとでも言いたげに、アイリは順調に盗賊を倒してゆく。……が。これ、ホントにただの盗賊か?アイリは思う。まず、数が多すぎる。それから、何だか統制がとれすぎているのだ。これじゃ、盗賊というよりむしろ……。いや、考えないでおこう。アイリは目の前の敵に向き直った。「くっ……!」アイリの手から、長剣がはじき落とされる。その衝撃で、思わずアイリはもう片方の手を地につけた。いくら何でも、これだけの人数をひとりで相手にするなど無理だ。持久戦に持ち込まれると、どう考えても華奢なアイリは不利になる。だいぶ息が上がってきている。それに、足にまとわりつく長いドレスが鬱陶しい。アイリは、もう一度剣を手に取ろうとしたが、長剣は盗賊達によってアイリの手の届かないところへ押しやられていた。……どうしよう?……素手で殴る?アイリがしょうもないことを考えている間にも、盗賊は近付いてくる。アイリの恐怖心を煽るためか、やたらにゆっくりと。万事休す。確かに、このままエジプトに行く気はさらさらなかったが、盗賊に攫われるのはもっと嫌だ。アイリは、その紫色の瞳で盗賊を睨みつけた。目で人が殺せたらな……。アイリはまた変なことを考えた。下卑た笑みを浮かべた盗賊の手は、アイリのすぐ手前まで迫っていた。と、そのとき。突然、アイリの前に立ちはだかっていた盗賊がバタリと倒れた。その背には、矢が刺さっている。あれ、もしかして目で人を殺せた?もちろん、そんなわけはない。アイリが盗賊達の背後……自分の遥か前方に目をやると、エジプト人と思しき男が二人、立っていた。まだ少年といったほうがいいくらいの若い男と、それよりかは若干年上に見える男の二人組だ。若いほうの男が、弓を構えている。どうも矢を放ったのはこちらの男らしい。男は次々に矢を放つ。面白いほどばたばたと盗賊がやられていった。飛び道具だったらアイリに当たるかもしれないというのに。男は的確に矢を放つ。よほどの名手だ。盗賊が一掃されたところで、二人が駆け寄ってきた。二人とも、エジプト人らしく健康的な蜂蜜色の肌をしている。若いほうの男は、垂れ目のくせに随分と整った顔の美形だ。身長も、もう一人の男には負けるがそこそこ高い。そして、もう一人の男は、長身なことといい、適度についた筋肉といい。これぞ、正統派!とでも言うような男前。きっと、この場にテオがいたらきゃーきゃー言っていたに違いない。ま、俺は男には興味ないけどな。美姫の姿のアイリは、心の中でそう呟いた。「大丈夫ですか」若いほうの男がアイリに手を差し伸べる。こんな格好をしているから当たり前なのだが、お姫様扱いだ。別にひとりで立てたけれど、アイリは大人しくその手に掴まった。「ありがとうございます」アイリは素直に礼を言った。「あなたがたは?」たぶん、国境を守る兵士だろうと思いながらもアイリは尋ねた。「俺は、ジェセルカラー」若いほうの男はそう名乗った。……ジェセルカラー?アイリは一瞬呆気にとられた。その名前、何度も聞いたことがある。そう、その名は、アイリの故郷、ヒッタイト帝国と肩を並べる大国、エジプト王国の王の名。つまり、アイリの未来の夫の名だ。これが、ジェセルカラー王?この、垂れ目少年が?ぷっ…、とアイリは笑った。そんなわけはない。王がこんな国境にいるなど有り得ない。「エジプトでは、王を騙っても処刑されないのか?」からかうようにアイリは言った。「皇女、ホンモノですよこいつは。 自分の未来の妃を早く見たいって、わざわざここまで来たんですよ」笑いながら、正統派男前が言う。あ、そうそう、と正統派男前は続けた。「俺、キアンっていいます。 にしても、皇女は随分とお強くていらっしゃる」一度、お手合わせ願いたいな、とキアンは言った。にしても、とキアンは今度は隣のジェセルカラーに言う。「おまえ、強すぎ。 俺一応将軍なのに全然出番なかったじゃねぇかよ」ジェセルカラーは、ははっと笑った。「そりゃ、悪かったな」アイリは、自称王と将軍である二人組を見た。腕の、肘より高いところにつけている腕輪。それから、豪華な襟飾り。確かに、辺境の兵士などといった出で立ちではない。それに。アイリはほぼ確信していた。この垂れ目少年は、間違いなく王だ。この少年には、確かに王だと思わせる雰囲気がある。……もう、トンズラできない。どうすんの?!どうすんの俺?!アイリは、盗賊に襲われた時よりもさらに真っ青になった。……これが、善政を敷き、後世には王の中の王と謳われたジェセルカラー王と、その妃である異国の皇女、アイリ王妃の出会いである。第一章-Fin.- [1回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword