2015/09/23 Category : ナイルの雫 ナイルの雫 第2章−1 「ぎょぉえぇええぇぇ??!!」キアンは叫んだ。目は真ん丸、口は今や顔の総面積の半分以上を占めるほどに大きく開かれている。せっかくの男前が台無しだ。「ちょっ……ジェセル! マジで?」ひとしきり叫んだあと、キアンは馴れ馴れしくも王を通称で呼んだ。その無礼な行為を、当のジェセルカラー……ジェセルも気にしている様子はない。二人は幼馴染みで、ジェセルにとってキアンは兄のような存在なのである。「キアン! 声が大きい」ジェセルは慌ててキアンの口を塞いだ。無論、手で。「で……でかくもなるだろうが! マジで、あの別嬪な皇女は……?」キアンの言葉に、ジェセルは渋い顔で頷いた。「はっ……はは……あははははは」キアンは力なく笑った。「オ……オリエント一の美女が、男……」言葉が出てこない。もう、笑うしかない。そんな言葉は、まさしくこのような時に使うのだろう。ジェセルより、いくつか年上に見える、ヒッタイトの皇女。その美貌はオリエント一と謳われていた。が、大抵そんな噂は当てにならない。ジェセルもキアンも、正直そこまで期待していなかった。けれども、あの皇女は。噂に違わず、いや、噂以上だった。キアンも、幼馴染みの婚約者でなければ自分が欲しいくらいだと思ったほどだ。 固まっているキアンから目を逸らし、ジェセルは深いため息をついた。すごく言いにくいんだが、と、皇女は本当に言いにくそうにいった。実は自分は皇女ではない、と。身代わりか、とジェセルは思った。まさかその言葉が、皇女ではなく皇子ですという意味だなんて一体誰が思うだろう。ジェセルはまた溜め息をついた。身代わりでもいいと、思ったのにな。完全に、自分はあの美しさに魅せられていたのに……。「で?」一人、しみじみと傷心状態に陥っていたジェセルの耳に、キアンの声が割り込んでくる。いつの間にかフリーズ状態から立ち直っていたらしい。ジェセルは無言でキアンのほうに顔を向けた。その顔を見て、キアンはいきなりゲラゲラ笑い出した。「な……何だよ。不敬罪で牢にぶち込むぞ?」不敬極まりない幼馴染みに、ジェセルは言った。「だ……だってさ」ひでぇ顔、とキアンはまた笑った。……一体こいつの忠誠心と表情筋はどうなってるんだ、とジェセルは思った。いくら幼馴染みとはいえ、王さまに向かってひでぇ顔、はないだろう。それに、黙っていれば超のつく男前のくせに、表情が豊かすぎるせいでその美貌は少なくとも2割は崩れている。「……ひどい顔にもなるだろ」ジェセルは呟いた。さよなら、俺の初恋。……ジェセルカラー、17歳、男。職業はファラオ。そんな俺の初恋は、あまりにも苦すぎた。しかも、ものの数十分で終わるなんて。ジェセルは、また一人黄昏れていた。もとからの垂れ目は、今は一層垂れている。「で、皇女はどうした?」キアンが聞いてくる。「どうした……って?」「おまえ、ヒッタイトにおちょくられたんだぞ。 ……殺したのか?」殺す、か。キアンにしては至極真っ当なことを。だが、ジェセルは首を横に振った。「何で」キアンは腑に落ちない、という顔をしている。だから、表情筋豊かすぎだって。心の中でため息をついてから、だってさ、とジェセルは口を開いた。「だって、それで皇女を殺して戦争を仕掛けたらヒッタイトの思う壺だろ? 我が軍は、ついさっきミタンニ戦から帰ってきたばっかりだ。 疲労している我が軍の兵で、ヒッタイトに戦をふっかけるのは余りにも不利」それは将軍であるおまえが一番よく分かってるだろ?、とジェセルは言った。それに、とジェセルは続ける。「跡継ぎなら心配いらない。 テーベに戻ったら、異母妹のネフェルトを第2王妃に立てることになってる」げ、とキアンは言った。「おまえ、妹を孕ませる気かよ……」その言葉に、ジェセルは露骨に嫌な顔をした。「なっ……人を変態みたいに言うな! だいたい、王族間じゃ、近親婚は普通だ。 おまえも知ってるだろ?」そう、エジプトでは、庶民の間の近親婚は禁じられている。が、王族の血を薄めないために行われる王族間の近親婚はむしろ奨励されているのだ。ジェセルとネフェルトは異母兄妹だが、同母兄妹、果ては親子間の婚姻も王族の間では許される。現に、ジェセルの両親は同母兄妹だ。キアンも、一応今の説明で納得してくれたらしい。ふぅん、と頷いている。だが。ジェセルはキアンに気づかれないよう、こっそりため息をついた。何だか、さっき自分が言った言葉が言い訳めいて聞こえる。きちんと筋は通っているはずなのに。本当に、自分はそのためにアイリの命を助けたのだろうか……?「脇が甘い!」キィン、という、剣と剣がぶつかり合う音とともに、アイリの鋭い声が響く。今日のアイリは女装をしておらず、丈の短い服に、動きやすいブーツ、という、ヒッタイトの武官の格好をしている。長い髪も、後ろでひとつに束ねている。ジェセルの手から、剣が弾き落とされた。「痛……」ジェセルが思わず呻く。手を押さえてうずくまるジェセルのところに、剣を手にしたアイリが近寄ってきた。そして、剣を持っていないほうの手でジェセルの腕を掴んで立たせてやる。「おまえ、弓は天才級だけど剣はいまいちなんだな」「そ……そんなこと自分が一番よく分かってる!」ジェセルは真っ赤になって言い返す。「弟みてぇ」その様子を少し離れたところで見ていたキアンが、ぼそっと呟く。まったくよぉ、とキアンは続ける。「新婚早々剣の稽古って……。物騒なご夫妻だよなぁ。 ……って、それはどうでもよくて。 もうすぐテーベだから、正装頼むぞお二人さん」そう、アイリとジェセルが初めてであったときから既に数日が経過している。もうエジプト王国の都、テーベは目と鼻の先だ。つんつん、と何者かがジェセルの頬をつついた。だがそれでもジェセルは軽く身じろぎしただけで目を開けようとしなかったので、つっつきが、鋭い蹴りに変わった。「ぐへっ!!」びっくりして飛び起きようとしたジェセルは、勢い余ってベッドから転がり落ちてしまった。「はよ、ジェセル」涙目になって呻くジェセルの頭上に、かすれた、少し甘い感じの声が降ってくる。痛む後頭部をさすりながらのろのろと顔を上げると、視線が紫色の瞳とぶつかった。今となってはすっかり見慣れた、婚約者(でも男)の瞳だ。そう、ここはエジプト王国の都、テーベ。アイリとジェセルたちが到着してから、すでに一週間が過ぎようとしている。「おまえ、早く支度しろよ。 いつまでも後頭部さすってちゃ起こした意味がねぇだろ」……じゃあもうちょっと優しく起こせよ。そう言おうとしたが、やめた。いや、やめたと言うより、硬直してしまったのだ。何せ、ふと外を見れば、太陽がすっかり昇ってしまっていたのだから。「何でもっと早く起こしてくれなかったんだよ!」後頭部の痛みも忘れてジェセルが言うと、アイリも負けじと怒鳴り返す。「起こしたさ、何回も!」「……毎朝、ご苦労様です」アイリがジェセルの部屋から出てくると、ちょうど出入り口のところに三十歳を少し過ぎたくらいの男が立っていた。エジプトの宰相、セヌウだ。全体から何となく優しげな雰囲気が出ている。何でも、王宮の女官たちの人気投票では、常にお兄さんにしたい人No.1なのだそうだ。「……いや。 にしても、何であの王はあんなに朝が弱いんだ?」アイリの言葉に、セヌウは苦笑した。「王妃さまがいらしてからは、女官たちも朝の仕事が一つ減ったと喜んでおります」アイリは笑った。「私はまだ王妃じゃない」「それもそうですな。 しかし今日はいよいよ神殿にて婚儀を挙げられる」セヌウの言葉に、アイリはジェセルの部屋の出入り口を見やった。中からは、ジェセルがおそらく女官に向けて言っているのであろう声が聞こえてくる。もっと早くしてくれ!だの、これじゃない、あれだ!だの。ひとしきりその声、いや雄叫びを聞いたあと、セヌウに向かってため息のようにアイリは言った。「ま、王が時間に間に合えば、だな」アイリは自室へ戻って、テオに手伝ってもらって身支度を調えた。亜麻布で仕立てられた、裾が脛まである白いチュニックを着る。そして、上からもう一枚白くてひだのある亜麻布を重ねる。エジプトの衣装は薄いので正直不安だったが、テオがなるべく分厚くて露出の少ない服を選んでくれたおかげで、どうやら大丈夫そうだ。着付けがそこまで済んでから、テオはエジプトの女官たちを呼んだ。健康的な蜂蜜色の肌をした女官たちが入ってくる。「今後、王妃さまの身の回りのお世話をさせてもらうことになりましたの。 よろしくお願いいたします」5、6人いる女官を代表して、一人の女官がそう言った。彼女の名前はメイというらしい。「ああ、よろし……」アイリは、よろしくな、としたのだが、途中で固まってしまった。そして、メイから目を逸らす。「あ……あのぅ、私、何かいけないことでも……」途端にメイがおろおろし出す。「いや、そうじゃないけど、その……」いつものアイリらしくもなく、口ごもる。本当に、今日ほど文化の違いというものを見せつけられた日はない。エジプト人の衣装は薄いというのは知っていたが。……エジプト人よ、せめて胸だけは隠しておいてくれ!!「大丈夫よ」メイの魅惑的な胸から目を逸らすため、首が不自然な角度になったまま固まっているアイリをちらっと見てから、テオはメイに微笑みかけた。「少し、その格好はアイリさまには刺激的すぎただけだから」テオはにこやかにそう言う。……何か俺、変態みたいじゃん。そう思ったが、テオは嘘は言っていない。「え、でも、エジプトではこれは普通で……」躊躇いがちにメイが言う。へぇー普通なんだ。てことは、ジェセルはこんな女の子たちに囲まれて育ったんだ。あいつも意外とむっつりさんだな。……いや、いいけどさ、別に。「あの、お支度のお手伝いを、させていただきますね」相変わらず首を不自然な角度にしたままのアイリに、メイが遠慮がちに声をかけた。「あ……ああ。頼む」落ち着け俺。アイリは、深呼吸してメイに向き直った。メイを筆頭に、6人の女官たちはてきぱきとアイリを着飾らせてゆく。そして、あっという間にアイリの身支度は終わった。姿見を見せてもらうと、そこにはどこからどう見ても完璧な王妃の姿が映っている。幅広の豪華な襟飾り。そして、長い髪は纏め上げられ、エジプト風な鬘の中に収まっている。そしてその更に上には、貴人の証である鷲の頭飾り。エジプト特有の濃いアイシャドウは、アイリの紫色の瞳をより神秘的なものにしている。「お……王妃さま! とっっってもお綺麗ですわっ!」もう感激!といった感じでメイが言った、いや、叫んだ。「ど…どうも……」女装を褒められてもな…、と些か複雑な気持ちでアイリは言葉を返した。神殿の控え室のようなところで待つこと十数分。ジェセルがやって来た。上下エジプトを統べる王であることを示すセケムティ冠をつけたジェセルは、まだ二十歳にも満たぬひよっ子のくせに、すでに大国の王にふさわしい貫禄のようなものを漂わせていた。が。「何とか間に合って良かったな」アイリはそっけなくそう言った。もし、自分が正真正銘の女だったら素直に「見違えましたわ」なんて言えたのだろうけれど。自分より三つも年下の子供が大国の王にふさわしい貫禄だなんて。……俺にも、男のプライドってもんがあるんだからさ。アイリは、すべてを、いつもよりも丁寧にアイシャドウをひいているおかげで、ジェセルの垂れ目が少し引き締まって見えるせいにした。「あ」ジェセルが短くそう言った。そして、焦ったような様子でアイリに近付いてくる。「な、何だよ」さっきまでの貫禄はどこへやら。今のジェセルは、捨てられた…とまではいかなくても、例えるならば、飼い主にエサ抜きを宣告された犬のような狼狽えた感じだ。アイリに近寄ってきたジェセルは、いきなりアイリの肩をがしっと掴んだ。「髪! ……剃っちゃったのか?!」……いきなり狼狽えるから、どんな非常事態かと思えば。アイリは思わず笑ってしまった。「剃ってねーよ、馬鹿。 ていうかおまえ、髪フェチ?」「……いや、そうじゃないけど。 ただ、長かったのにもったいないなって思って」その他、ジェセルは言い訳がましくいろいろと言ったが、アイリの笑いは止まらなかった。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword