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水月庵

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帰国

その日、栄一は初めて静岡の地に降り立った。
主君に帰参の報告をするためだ。
遥か昔、二代将軍徳川秀忠公の生母、西郷の局が住まいしたといわれる古刹、宝台院。
かつて征夷大将軍としてこの国を統べていたその人は今、この寺院に軟禁されている。

「徳川昭武である。上様……いや、兄上に帰国の報告をしに参った」
栄一と共にやって来た徳川昭武が、入口を固める兵士達にそう名乗ると、彼らは意外にも柔らかな態度で中へ入るよう二人を促した。






「あまり粗略な扱いは受けておらぬようで……ひとまず安心した」
昭武がほっと息をつく。
栄一もそれに頷いた。
「何はともあれ、こうして再び兄上にお会いすることができるのじゃ。楽しみだな」
未だ少年の面影を残すその顔に疲労の色を滲ませた青年は、それでも気丈にそう言って微笑んだ。

彼、徳川昭武は去る慶応2年、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席するため、欧州へと旅立った。
栄一もその使節団に会計係として随行したのである。
これを機に徳川幕府が治める日本国は国際社会にその名を知らしめ、雄飛する、はずであった。
しかし時代は思ってもみない方向に動いた。
260年の長きにわたって日本を支配した徳川幕府が倒れたのである。
予定を繰り上げて帰国の途についた昭武と栄一の心にかかるのはただ一つ、将軍徳川慶喜の処遇であった。

寺院の廊下を進み、二人が通されたのは6畳と10畳が二間続きになったこぢんまりとした部屋だった。
手入れの行き届いたこざっぱりとした部屋だが、かつて将軍だった人の住処としてはあまりに質素である。
その部屋で、慶喜は脇息に凭れかかって煙管をふかしていた。
静謐な空間に静かに紫煙が燻る。
少し伸びた髪が頬にかかり、貴公子然としたその美貌を引き立てていた。
「兄上」
昭武が遠慮がちに声をかける。
慶喜は煙管から口を離し、火皿から灰を落とすと、ゆるりとした動きで二人に向き直った。
姿勢を正し、しどけなく肩に掛けたままだった羽織に腕を通す。

「二人とも、よく戻った」
慶喜のその言葉に、昭武と栄一は平伏した。
「ああ、もうそんなことはいい」
慶喜が手を振る。
「顔を上げて、近くへ参れ」
慶喜に促され、おずおずと膝を進めた二人の顔を交互に見比べ、彼は今日初めて破顔した。
「兄上」
昭武の目が潤む。
「お会いしとうございました、兄上」
昭武は泣きながら慶喜に抱きついた。慶喜もそれを満更でもなさそうに受け止める。
「子供かおまえは」
「子供です。パリへ旅立ったときはもっと子供でした。言葉もわからないし異人はみんなやたら大きいし……。私は兄上の名代なのだからと気を張ってはいましたが、それでも……」
最後のほうはろくに言葉になっていなかった。
「しょうがない甘えん坊だな、本当に。まあでも、よくやってくれた。誇りに思うぞ」
弟の背を優しく撫でながら、肩越しに慶喜は栄一を見やった。
涼しげな双眸に見つめられ、栄一が落ち着かなげに居住まいを正す。
その様子を面白そうに眺めながら、慶喜は自分の頭を指差した。
「おまえも髷切ったんだな」
「えっあっ……はい。妻には不評でしたが……」
しどろもどろに返すと、慶喜の笑みが深くなった。
「そうか? 俺はなかなか良いと思うが。男っぷりが上がった」
いたずらっぽい笑みとともにそう言われ、栄一は真っ赤な顔で俯いた。
わかっている。深い意味はない。異人の言葉で言うならばこれはただのリップサービスだ。
わかってはいるが……。

「ところで」
慶喜が咳払いする。昭武は相変わらず兄にくっついて幸せそうな顔をしている。そんな弟をひと撫でしてから、慶喜は言った。
「栄一、おまえこれからどうするんだ? 静岡藩への出仕の話があると風の噂で聞いたが」
「ああ……」
栄一は言葉を濁した。
その反応をどう受け取ったのか、慶喜は重ねて言った。
「おまえは俺の臣下だったからな。俺のいる静岡で過ごせという藩の意思かもしれないが。
……もう、そんなことは気にしなくていいんだぞ」
「えっ?」
弾かれたように栄一が顔を上げた。
慶喜は穏やかな顔をして笑っていた。
「もう俺は将軍ではなく、おまえは幕臣ではない。俺に縛られる必要はないんだ。だから」

慶喜は言った。
「これからは、おまえの道を行きなさい」
静かな声で。

「それは……どういう……」
「言葉の通りだ。俺に義理立てしてここに留まる必要はない。新政府でその実力を活かすもよし、もっと他のことで身を立てるもよし。
その才を、存分に活かしてほしい」

栄一は俯いた。

彼は元々、武蔵国の農民の息子だった。
少年の頃には世を席巻していた攘夷思想にかぶれ、高崎城を焼き討ちする計画を立てたこともあった。
ともすれば過激派攘夷志士となっていたであろう栄一を拾い上げてくれたのが、一橋家の用人だった。
そう、当時は徳川御三卿の一つである一橋家の当主として一橋慶喜と呼ばれていたこの人の側近である。
かくして、栄一と慶喜の縁は始まった。
農民の息子と、徳川家の若殿。
世が世なれば話すことはおろかその顔を拝すことすら叶わなかった貴人は今こうして栄一の近くで笑っている。
幕府が倒れ、慶喜は将軍の位を退き、世捨て人となった。
彼と栄一の君臣の縁は途絶えた。
だがそれでも、栄一には断ち切れぬ思いがあった。

顔を上げ、かつての主君をまっすぐに見つめる。
「静岡藩への出仕の話はお断りしようと思います」
「そうか。それがいい」
一瞬、慶喜の顔がさみしげに曇ったと見えたのは栄一の自惚れだろうか。
「はい。私は新政府の役人にはなりません。
私はこの静岡の地で……貴方の御傍で商いでもしながら暮らしとうございます」
慶喜がわずかに目を見開く。
栄一はその目をまっすぐに見返した。
目は逸らさなかったが、おそらく栄一の頰はまたしても真っ赤に染まっていたであろう。
きっと慶喜には何も伝わってはいないが、これは栄一の一世一代の告白だった。
いつの頃からかは自分でもわからない。
だが、栄一は君臣の情を越えて、一人の男としてこの人を慕っていた。
主君と臣下としての縁はもうない。
だがそれでも、もう一つの思慕の情は永遠に忘れられそうもない。

栄一の言葉に慶喜は勿体無い、と呟いたが、おまえの道を行けと自分で言った手前それ以上は何も言わず、そうか、と頷いた。



日も西に傾き、昭武がそろそろここを辞すと言うので栄一もそれに従って立ち上がった。
廊下を歩む二人の後を、見送りにと慶喜が続く。
「それでは兄上、どうかこれからも御息災で」
「ああ。また甘えたくなったらいつでも来い」
慶喜の軽口に、昭武が決まり悪げに俯く。
「今日は失礼を致しました……」
「とんでもない。嬉しかったぞ。
……あ、そうだ栄一」
昭武に倣って履物を履こうとした栄一を慶喜が呼び止める。
「はい」
「おまえも帰るのか? 何なら泊まっていけ」
「え?」
主君の秀麗な顔をぽかんと見返す。
「何だ、俺の勘違いか? ……ならいい。帰って宿で寝ろ」
「えっ……いえ! か、勘違いなどでは……」
ないと思います、と小さな声で返した。
夢のようだ。
昭武や警護の兵士がいなければ、きっと今ここで彼を抱きしめていた。

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