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水月庵

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朝と珈琲

慶喜は微睡みから目を覚ました。
昨夜の行為のせいで違和感の残る下腹部を庇いながらゆっくりと身を起こす。

「おい起きろ、栄一」
隣で眠る男の肩に手を伸ばした。が、何とは無しにその手を寸前で止める。
安心しきったようにすやすやと眠る年下の男。ややふっくらとした丸顔に垂れ目がちの目。無邪気な寝顔はどこかあどけなくさえあった。
肩を揺さぶろうと伸ばした手は当初の目的よりもやや上を舞い、男のふさふさとした短髪の上を触れるか触れぬかのさり気なさで通り過ぎた。
あれはもう何年前になるだろう。彼は慶喜の命で遣欧使節として欧州へと旅立った。その折に彼は髷を落としたのだが、その姿を写真に撮って細君に送った結果散々な言われようでしたよ、と情けない顔で言っていたことをふと思い出した。






慶喜が見下ろす中、栄一がゆっくりと目を開ける。
「ケイキ様」
甘い響きを伴わせつつ、寝ぼけ眼で彼はかつての主君を愛称で呼んだ。
「お目覚めならば起こしてくだされば良かったのに」
「あともう少しして起きないようなら、そうしようと思っていた」
秋口の朝である。
外はまだ暗く、部屋はひんやりと冷たい。
昨夜の余韻の残る暖かい褥から離れがたいというように栄一はしばらく掛布団にくるまっていたが、ややあって身を起こした。
二人して、乱れた寝間着を整える。
慶喜は枕辺の呼び鈴を手にとって女中を呼んだ。

すぐに密やかな足音とともに若い女中がやって来た。
寝室の入り口と褥の間に置かれた衝立の端から白く細い手が一瞬覗き、盆が一つ差し入れられる。その上には熱い珈琲の入ったカップが二つ。白い湯気とともに珈琲の芳香がふわりと広がる。
それだけを置くと、女中は心得た様子で部屋を後にした。

盆を自分たちの方へ引き寄せ、褥の中で温かい珈琲を啜る。そうしている間に、寝ぼけ眼だった栄一もすっかり目が覚めたようだった。
「そろそろ行くか?」
まだ中身が半分ほど残った器を盆に戻し、慶喜は立ち上がった。それを引き止めようと腰の辺りに伸ばされた栄一の手には気づかぬふりをして、衣桁に掛けてあった栄一の服を手に取り、彼に手渡す。
渋々ながらも、栄一はもそもそと身支度を始めた。
それを見守りつつ、慶喜も自分の羽織を寝間着の上から肩に引っ掛けた。

「それでは」
連れ立って玄関までやって来たところで、栄一は名残惜しげに慶喜を振り返った。
その肩に外套を掛けてやる。彼が自然な動きで外套に袖を通したところで、今度は帽子を渡した。
これまた自然な動きで帽子が栄一の手に渡る。
別れ際のこの一連の儀式に栄一が勿体無い、だとかケイキ様のお手を煩わすわけには、だとか恐縮しなくなったのはいつからだったろう。
慶喜はぼんやりと思った。

「ケイキ様」
一歩を踏み出しかけ、しかし栄一は再び慶喜のほうを振り返った。
「何だ?」
「何か、御不自由はございませんか。もし何かございましたら何なりとお申し付けください」
これも、別れ際の儀式の一環だ。
この邸を立ち去るとき栄一は決まってそう尋ねる。
慶喜は笑って首を横に振った。
「大丈夫だ。間に合っている」
大抵の場合、慶喜はそう答えるのだが、ほんの時たま首肯することがある。
慶喜が上様と呼ばれる身の上であったのは昔の話。
今は単なる世捨て人だ。
新しい世で実業家として名を馳せる栄一の財力に頼らねばならぬこともままあった。
慶喜が何かを「おねだり」すると栄一はそれはそれは嬉しそうに何でも用立ててくれるのだが、その度に慶喜は複雑な気分になる。
かつては天下に号令する征夷大将軍であったこの身が、だ。
今ではまるで、若き実業家が数多たくわえた妾のうちの一人、この邸は妾宅ではないか。

湧き上がってきた憂鬱を押し殺し、慶喜は朝靄の中に去ってゆく栄一を玄関先で見送った。
栄一は今日も商法会所で頭取として夜遅くまで忙しく働くのだろう。
さて、自分はこの長い一日を今日は何をして過ごそうか。
日課である弓の稽古を少し多めにしてみようか、それともカメラを持って遠出でもしてみようか。
栄一は昨晩、一昨晩、そしてその前と三日続けてこの邸へ来た。ということは、おそらく今日は本宅に帰るか、他の妾の家に行くのであろう。
そう思うと、さらに一日が長く感じた。

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