2017/05/26 Category : 幕末明治 およし御寮人騒動 気怠げな様子で身を起こし、慶喜は枕辺の煙管を手に取った。火をつけ、煙を吸い込む。しばしその味と香りを楽しんだ後、これまた気怠げに吸い口を唇から離した。僅かに開いた薄い唇から紫煙がくゆる。燭台の灯りのもとを所在無げにたゆたい、その煙は幾ばくもなく消えていった。二口目を吸おうと動かしたその手を、後ろから伸びた男の手が遮った。慶喜を追うように自らも身を起こした男は後ろから慶喜の身体を抱いた。男は慶喜の手ごと煙管を自分の口元に手繰り寄せ、そのまま煙管を咥えると先程の慶喜と同じように紫煙を吐いた。「そなたは誰に対してもこうなのか」男が言う。二人とも素肌に襦袢を引っ掛けただけの姿である。「こう、とは?」「ことが終わったらすぐに煙草を吹かす。素っ気ない男だ。女人に対してもそうなのか?それとも」甘えるように慶喜の肩に顎を乗せ、男は言う。「終わった後まで私にベタベタされるのは上様とて本意ではないかと思いまして」慶喜は苦笑した。 こちらを向け、と年若の主君に促され、慶喜は先程までの交合の相手に向き直った。衣擦れの音とともに、情事の余韻の残る身を寄せ合う。「帰らなくては」そうは言うものの、慶喜はその腕に身を委ねたまま、積極的に逃げようとはしなかった。そればかりか、手を伸ばして彼の乱れた髪を柔らかく撫でつけさえする。余程近づかねば相手の顔さえおぼつかぬ宵闇の中、慶喜は日に日に大人になっていく彼の顔をじっと見上げた。「昼のそなたと今のそなたはまるで別人じゃ」苦笑まじりに男が言う。慶喜とこの男ーー征夷大将軍徳川家茂は世間では専ら不仲ということで通っている。なるほど確かに清廉な家茂と策士の慶喜ではソリが合わぬことは明らかであるし、以前より何かと因縁の深い二人である。「表では我々は不仲な方が良いのです。私は嫌われ者ですから。皆に慕われる上様と仲が良いなどと思われては更にいじめられるでしょう?私はまだ死にたくありません」「すぐそういうことを言う……」「ま、それは冗談にしてもこのまま不仲でいた方がやりやすいというのは本心ですよ。そう思わせておけば、この先私が何をしようと上様の御名に傷はつきませんからね。それに……」慶喜は家茂の胸に寄りかかった。「それに?」その身体を受け止めながら、家茂が問う。慶喜は小さく首を横に振った。「いいえ、何でも」どうせ、この胸の中の住人は彼の正室ただ一人。そう悋気を漏らしたところで、それを交わす術などこの少年は持ってはいるまい。「上様。お願いがございます」「何じゃ?」柔らかく問いかけてくる声に促され、慶喜は言った。「今日はこのままここで眠っても?」いつもは無理難題ばかりを吹っ掛けてくる後見職の、ささやかすぎる願いに家茂は笑い声を上げ、彼を抱いたまま身を倒した。*その次の晩である。どういうわけか、慶喜は京都守護職松平容保と二人で酒を酌み交わしていた。慶喜はこの男とも不仲であるゆえこのような機会はほとんどなかった。というより、一橋慶喜という男はこの世の大多数の人間と不仲である。「豚一」盃を一息に空け、容保が慶喜に呼びかける。豚一とは慶喜につけられた不名誉なあだ名のうちの一つであるが、仮にも天下の将軍後見職に面と向かってそのあだ名を使うのはこの男くらいのものだ。「なんだ?」それに普通に対応してしまうくらい慣れてしまった自分が歯がゆい。「昼間、少し上様とお話しする機会があったのだがな」「何かあったか?」「ああ。……その」容保が言い淀む。一体どうした、とその続きを急かすと、容保は周囲に人の気配がないことを確認したのち、心持ち声を低めて告げた。「どうやらこのところお側に仕える女人がいらっしゃるらしい」端的に言うと、ここ京の都で将軍は愛人をこさえたらしいと容保は言っているのである。江戸に残された姫宮が健気に夫君の帰りを待っているのに、である。「……いやいや」なんとも言えぬ笑みを浮かべて慶喜は首を横に振った。「ないな。それは絶対に、ない」「なぜ豚一がそう言い切れる」「それは……」理由は単純だ。家茂は毎晩のように慶喜と床を共にしており、他に女を作る時間などあるはずがない。が、そんなことをこの男に言えるはずがない。「……考えてもみろよ。上様は清廉なお人柄で、尚且つ御正室の宮様をこよなく愛しておいでだ。その上様がまさかそんな……」そう言って慶喜は盃をあおった。彼の言葉に容保はため息をつく。「女に汚い貴様からそんな純粋な言葉を聞けるとはな」「悪かったな。でもそれはない。本当にない」ごまかすように、慶喜は徳利を持ち上げ中身を自分と容保の盃に注いだ。「まあ確かに上様のご気性でそのようなことをなさるとは信じ難いという気持ちもわかるがな。だが上様とて若い男だ。姫宮を愛しておられるのは本当でも、離れて暮らしている以上そういうこともあろう」「いやありえない」自信たっぷりに慶喜は断言した。「しかし上様ご自身がそうおっしゃったのだぞ」容保はなおも反駁する。「どうしてその話になったのか仔細は忘れたが、俺は確かに日々のご無聊を慰めてくれる女人の話を聞いた。上様より幾分年上らしいが、色白で涼やかな目元の」家茂より年上で、色白で、涼しげな目元。「……」慶喜は押し黙った。「非常に聡明な方らしくてな、それゆえ周囲から疎まれることもあるが本当は情の細やかな御方なのだと。名は、およし、とおっしゃるそうだが」慶喜はまだ中身の入った盃を取り落とした。甲高い音を立てて盃が床に転がり、透明な液体が溢れる。「何だって?『およし』?」「ああ。その女人の名を尋ねたところ上様は小さな声で『よし……、』とおっしゃりその後ハッとしたように口を噤まれた。……おい、床は無事か?ちゃんと拭いておけよ。畳に染み込む前に」「わかってる」一つ年上とはいえ立場的には目下であるはずの容保に命じられ、慶喜は素直にその辺の布巾で床を拭き始めた。傲岸不遜との呼び声の高い男だが、幼少期に実家である水戸で『自分のことは自分でするように』と厳しく躾けられたため、こういうところは意外と素直だ。それに、床を拭けば自然と顔を下に向けることになる。自然な動きで容保から顔を背けることができるのは今の慶喜にとっては非常に好都合だった。自分は今、いったいどんな顔をしているだろうか。とにかく、顔の筋肉に力が入りすぎて面白い顔になっていることは確実だ。本当にどんな顔をしたらいいのかわからない。「……で、おまえはおそらく上様が『これはわしとそなただけの秘密だぞ』とでも言ってお話しになったであろう内緒話を俺に漏らしてどういうつもりだ。何をする気だ」感情の波が少し引いた頃、慶喜は言った。が、どうにも声が震えてしまう。容保は一体何を考えているのだろう。もしや彼は『およし』の正体に感づいて揺さぶりをかけているのではあるまいか?容保は扇子を手元で閉じたり開いたりと弄びながら言葉を探しているようだ。「まあその…なんだ…」歯切れの悪い容保に焦れて慶喜は顔を上げた。「早く言えよ。何か意図があって俺にこの話を振ってるんだろう?」足を崩し、寛いだ体勢で容保を見返す。「当たり前だ。何が悲しくておまえと単なる艷話で盛り上がらねばならん」全くだ。「……その御方を、ご側室としてお迎えしてはいかがかと」ややあって、容保がぼそりと言った。思いきり寛いだ、偉そうな体勢のまま慶喜は固まった。盃を取り落とすことすら忘れている。「……豚一?」怪訝そうな顔つきで名前(名前ではない)を呼ばれ、慶喜はやっと我に返った。「何を言い出すかと思えば本当に……本当にいきなり何を言い出すんだおまえは」何とか平静を取り戻そうと酒を一気に呷る。顔が熱い。絶対にこれは酒のせいではない。勢いよく飲んだ酒が気管に入って盛大に噎せた。「おまえ本当に自分が何言ってるかわかってるのか?」噎せながらまさに息も絶え絶えといった風情で言い募る慶喜に容保が困惑と不審の入り混じった視線を向ける。「俺は何もおかしなことは言っていないと思うが?歴代の将軍は皆数多の側室を持っておられ、その側室方の腹からお世継ぎが生まれている。むしろ今の上様に姫宮様以外にどなたもおられぬほうが異常だとは思わんか」「思わんか、と言われても……」動揺しきりの慶喜に構うことなく、容保は心持ち身を乗り出してたたみかけた。「政略結婚であったにもかかわらず上様と姫宮様はお心を通わせておられる。それはいい。だが今お二人が京と江戸で離れてお暮らしである以上、お世継ぎのことを考えてもやはり上様にはご側室をお持ちいただくのが上策だと思うのだ。上様がお気に召した女人がこの京にいるのならば尚更。というわけで、およしの方様を上様のご側室として二条城にお迎えする件について一応貴様にも話を通しておこうと思ってな」「およしの方」ぽかんとした顔で容保の口から出た人物名を反芻する。誰だよそれ。「……だが、上様と姫宮様のご婚姻が朝廷と幕府の架け橋となっている以上下手なことは……」とりあえずそれっぽいことを言っておこうと、慶喜は言葉を絞り出した。が、どうやら容保には逆効果だったらしい。「豚一。貴様、上様に御子が生まれて何か困ることでもあるのか」まだしつこく将軍の座を狙っているのか、と眉を顰める容保に、慌てて首を横に振った。「違う!それだけは断じて……。……でもな、側室の件はだめだ……、だいたい、そんな話をされても上様だってお困りだろう」「どういうことだ」「だってそうだろう。ちょっとした浮気、慰みのつもりだったのに側室だ何だと話を大きくされたら」慶喜の言葉に、容保は大仰にため息をついた。「上様を貴様の如きけだものと一緒にするな」「けだもの」余りにも余りな暴言である。会津中将こと松平容保といえばその涼しげな顔立ちと折り目正しい立ち居振る舞いで宮中の女官たちの乙女心を惹きつけてやまない存在だともっぱらの噂だが、あいにく慶喜は『折り目正しい立ち居振る舞いの会津中将様』になどついぞお目にかかったことがない。とはいえ、今宵の毒舌は格別である。平素はさすがにここまではひどくない。見れば膳の上には空の徳利が四つほど転がっている。そして、今容保の手にある徳利の中身もどうやら彼が手酌で自分の盃に注いだ分でなくなったようだ。「上様は戸惑っておられるのだ」顔には出ないが相当酔っているらしい容保が語り出した。「戸惑って?」「そうだ。自分の御心が二人の女人に分かれてしまったことに。俺はそう感じた」「つまり上様はその……およしの方?だっけ?にも少しは心を寄せていると。そんなことあるわけないだろう」「おまえはおよしの方様を知らぬからそう言うのだ。むろん俺も上様の想い人にお目にかかったことはないが」いやいるから今目の前に。目を見開いてよく見てみろ。「あ……会ったこともない女に対して随分と熱心だな。さてはおまえ……」「馬鹿なことを申すな!」容保が膳を叩いて声を荒げた。ガシャンと食器が甲高い音を立てる。「およしの方様は上様の想い人だぞ!いくらご聡明でお美しく、ま……まあご年齢も上様とよりも俺とのほうが近いとはいえ……まさか上様のご寵愛を受けるお方に横恋慕などするわけがないだろう!俺を貴様のようなゴミ屑と一緒にするな!」慶喜は頬の内側を噛んで必死に耐えた。『聡明で美しいゴミ屑』とは恐れ入る。などと考えていると、笑いの波がどうにもひかず、それを噛み殺すために顔に力が入る。そうすると、今度はそうやって必死に笑いを堪えている自分の姿が何とも言えず可笑しく思えてくる。悪循環だ。そんな慶喜の気持ちなど知らぬ気に、容保が咳払いをする。「人が真面目に話しているというのに何だその歌舞伎の見栄のなりそこないみたいな顔は」「おまえが変なこと言うから……」「変なことを言っているのも変な顔をしているのも貴様だ」「わかった。わかったから一旦落ち着こう。お互いに」慶喜はお互いの盃に酒を注いだ。「とにかく」酒で喉を潤してから、慶喜は切り出した。「どこの馬の骨とも知れぬ女を城に上げるわけにはいかない。この話は終わり……」「どこの馬の骨とも知れぬなどということはない」この話は終わりだ、と言い切ろうとした慶喜にかぶせるように容保が言う。話を終わらせることを許してくれない。「確かに姫宮様には劣るかもしれんが、およしの方様だって母君から宮家の血をひいておられる。そして父方も名のある武家だと聞いているぞ」なるほど確かに『およしの方』の母親は有栖川宮家の姫君で、父親は徳川御三家がひとつ水戸藩の藩主だった男だ。「だから……そいつの何がおまえをそこまで駆り立てるんだ……」慶喜は頭を抱えた。「逆に貴様は何をそんなに嫌がる」「嫌だよ……」「やはり将軍の座を狙っているのだろう」「そんなわけあるか。そもそも俺は自分の意思で将軍の座を狙ったことなど一度もない」言いながら、ずるずると体勢を崩し慶喜は脇息に突っ伏した。「おい寝るな豚一」容保が慶喜のほうへ回り込み、肩を揺する。その手を緩慢に払いのけながら、慶喜は言った。「嫌だ寝る。……今から寝言を言うから、話半分にぼんやりと聞いてくれ」顔を伏せたまま、慶喜が話し始める。「あくまでおまえが『およしの方』を側室にと言うなら、俺はその女を消す」「何だと!!」気色ばむ容保を、片手を上げて制止する。「真面目に取り合うな。寝言だ。とりあえず聞け」慶喜は続けた。「仮におまえの言う通りにしたところで、誰が幸せになる。健気に夫を待つ気持ちを踏みにじられた姫宮か?心を真っ二つに引き裂かれた上様か?それとも、永遠に二番目でいることを強いられる『およしの方』か」「それは……」「口を挟むなと言ってるだろう。寝言に応えたら寿命を縮めるぞ。……その女、上様よりも年上だと言ったな。だったら、じきに上様と床を共にすることはできなくなる」大奥の女は三十歳で『お役御免』となるしきたりだ。「それなのに中途半端にまつりあげて、都合の良い夢だけ見させるつもりか。確かに京では上様を独り占めすることもできるだろうな。こんなに想ってくださるならいつか自分が一番になれるのではないか?そんな期待だけ抱かせて。上様が一番に想うのは姫宮様で、それが揺らぐことがないことなど分かりきっているのに。そんな地獄の苦しみを味わうくらいなら……いっそ……」「よしのぶ」久方ぶりに、容保が慶喜を本名で呼んだ。その名を改めて口にしてみて、容保がはっと息を呑む。喋りすぎた、と慶喜は身体を固くした。脇息に突っ伏したままの体勢で固まる慶喜を見下ろしつつ、容保はゆっくりと息を吐いた。そして、言う。「豚一、まさか貴様……」慶喜は身を固くしたまま動かない。「豚のくせに人の心がわかるのか」感心したぞ、と言わんばかりに吐き出されたその言葉に慶喜は脱力した。「俺は人だ……」そう言って慶喜は目を閉じた。「豚一」ややあって、すっかり静かになった慶喜に声をかけるが返事はない。耳をすませば、小さな寝息が聞こえた。「仕方のない奴だ」容保は慶喜の頭を持ち上げて脇息を退かせ、畳の上に慶喜の身体を横たえさせた。そして、その身体の上に自分の羽織を脱いで被せてやる。いつもであれば、この男が変な体勢で寝て筋を痛めようが風邪をひこうが放っておくのだが。酔っているせいで暑いのか、慶喜が無意識のうちに羽織を払いのけようとする。「こら」その手を掴み、羽織の下に押し込む。慶喜は右手を下にして横向きになり、羽織を抱え込むようにして丸くなった。もう多少のことでは起きそうにない。ほんのり朱のさしたその白い顔を見下ろし、容保は言った。「おつらいお立場ですな、『およし様』」その言葉を聞いているのかいないのか、『およしの方』は身じろぎもせず目を閉じていた。 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