2018/04/08 Category : 幕末明治 一瞬の永遠 幕末の備中松山藩の2人に突如はまったので書きました。藩主勝静ちゃんとその師で腹心の山田安五郎(方谷)先生の話。 秋の空はどこまでも高い。 霧深き備中松山も、今日ばかりは抜けるような晴天だった。まるで、藩のこれからを寿ぐように。 河原にはその天を貫くばかりに紙の束がうず高く積まれていた。 その周囲を大勢の領民がぐるりと取り囲み、前代未聞の見世物の始まりを固唾を飲んで今か今かと待っている。 川面には大きな船が浮かべられ、そこには藩主板倉勝静が乗っていた。 赤い毛氈の上に置かれた椅子に腰掛け、日除けの傘の下でじっと目を閉じている。 紙の束を積み終えた家臣は、船上の藩主の傍に控える壮年の男に大振りな動作で合図をした。 準備が終わったことを知るや、壮年の男は藩主に問うた。「殿、よろしゅうございますか」 勝静が静かに目を開く。 スッと男に視線を流し、微笑んだ。「どうぞ。合図は先生が」 促され、男は紙の束と民草の方へと向き直った。 手を挙げる。「火を放て」 低い声が河原に響いた。 晴天の空を炎が焦がす。煙の雲ができた。 紙はよく燃えた。 上がる火柱に領民が手を叩いて喝采を叫ぶ。 燃えているのはこの藩の藩札だ。 急場凌ぎに乱発され、何の信用もなく、紙屑同然であり『貧乏板倉』の象徴であった忌まわしい藩札。 三年の時をかけ、その全てが今日この近似河原に集められ、領民達の眼前で音を立てて焼け落ちてゆく。「復興の狼煙だ!」 誰かが叫んだ。 その声につられるように皆が口々に叫び、河原は沸いた。 譜代の家柄でありながら貧しく、藩札の準備金に手をつけ、さらに十万両もの借金をこさえてそれでもなお窮乏から脱することができなかった備中松山。 だがそれも、今日で終わるのだ。 惨めだった備中松山藩は今日の大炎に焼き尽くされ、焼け跡から未来が始まる。「復興の狼煙だ」 民草の叫びを藩主が呟いた。 傍らに立つ男を見上げる。「はい。貴方様の国はここから生まれ変わります」 熱を帯びた藩主の目を、男は同じ熱量で見つめ返した。「すべて先生のおかげだ。山田安五郎がいたから、俺はここまで来られた」 藩主勝静は椅子から立ち上がり、男ーー山田安五郎の手を取った。 全ての藩札を焼き尽くすにはほぼ一日かかった。 だが日が暮れ、その炎が消えてもなお心に灯った熱は収まりそうもない。 勝静は安五郎の手を握る手に力を込めた。しっとりとした熱が柔らかな皮膚を通して安五郎へ伝わる。 思えば、こうして触れ合ったのはこれがはじめてのことであった。* 時は十年ほど遡る。 その日、安五郎は当時の藩主板倉勝職に呼ばれ、御殿を訪れていた。天空の城をいただく臥牛山の麓にあるこの御殿は藩主の日常の居所であり、松山藩の政庁が置かれている場所である。「お召しにより参上仕りました。して、私にご用件とは」 恭しく平伏しつつも、安五郎は藩主に顔が見えぬのを良いことに遠慮会釈なく顔を顰めた。 白粉の匂いが鬱陶しい。 酒と女に溺れ、暗君の名を恣にしている藩主勝職は今日も今日とて日も高いうちから赤ら顔で何人もの女を侍らせていた。 右手には杯を持ち、左手では隣に侍らせた女の胸元をまさぐっている。 安五郎にとって、二歳年上のこの藩主は大恩人ではある。 農民の倅に過ぎなかった安五郎の才覚を見込んで俸禄を与え、藩校で学ぶ道を開いてくれたのが誰あろうこの勝職であった。 そのときはなんと器が大きく先見の明のある殿様だろうと思ったが、今思えばそれはただの夢まぼろしであった。「ん? 何だ? 今おまえ、仏頂面をしているな? 藩主のお召しなのだからもっと嬉しそうな顔をせぬか」 頭上に勝職の声が降る。藩主からは平伏する安五郎の顔など見えぬはずである。勝職はバカ殿のくせに妙に洞察力に優れたところがある。仮にも藩主に向かって何も言えたものではないが、勝職のそういうところも、安五郎は嫌だった。「もしや羨ましいのか。ならば近う寄れ。可愛がってやろう」 馬鹿か。馬鹿なのか。知ってはいたが、バカ殿だ。 安五郎は顔を上げた。「そのようなお戯れを仰るためだけにお召しになったのであれば、一刻も早く藩校へ戻りたいのですが」 軽蔑の色を隠そうともせずに言ってのけた安五郎を、勝職はまあ待てと引き留める。「用ならある。おまえに重要な仕事を任せたいのだ」「はぁ」 主君に疑いの眼を向ける。 その視線をさらりと受け流し、勝職は酒をあおった。空になった杯にしなをつくった女がすかさず酌をする。「おまえに王子様の教育係を任せたい」 なみなみと注がれた酒を揺らしながら、勝職は言った。「王子様、とは」「かの松平定信公を祖父に、八代将軍徳川吉宗公を高祖父に持つ正真正銘の王子様よ。 俺はこの通り、後継ぎをもうけるため昼夜を問わず励んできたがどうも男児は上手く育たんでな。 ま、諦めも肝要ということで、男児をつくることはすっぱり諦めて姫に婿をとってやることにしたのよ」「それがその『王子様』というわけでございますか」「そうだ。よろしく頼むぞ。いっぱしの藩主に育て上げてほしい。立派に俺の尻拭いができる藩主にな」 そう言って、勝職はアハハと高らかに笑った。その拍子に杯から酒がこぼれ、彼の袴に点々と染みができる。それを拭おうと身を乗り出した女の腰を抱いて、相変わらず彼は上機嫌だ。 承りました、と答え、安五郎は藩主の居室を後にした。長居したい場所ではなかった。 その一月後、花婿の行列が備中松山に到着した。 重臣達に混じり、安五郎もその花婿を出迎える列の中にいた。 御殿の門前で駕籠が止まる。 さて『王子様』とやらは一体どんな顔をしているのやら。何せこちらは駕籠かきにすら敬遠される『貧乏板倉』、そして彼の舅となる板倉勝職は非の打ち所のないバカ殿である。とんでもない貧乏くじに、さぞかし忸怩たる思いでおられることであろう。 伴の者の手を借り、彼が駕籠の中から姿を現した。 今日のために誂えたのであろう、板倉家の家紋である九曜巴が染め抜かれた真新しい羽織を身につけている。 予想に反して、若君の表情からは不満の色など少しも窺えなかった。上手く隠しているだけかもしれないが。 これが貴種というものか、と無礼にあたらない程度にそのご尊顔を盗み見る。 思えば不思議な巡り合わせだな、と柄にもなく感傷じみたことを思った。片や備中の農民、片や将軍家に連なる血筋の貴公子である。本来ならば絶対に相見えることなどない二人が何の因果か──いや、言うまでもなくバカ殿の仕業であるが、こうして同じ場所に立っている。 視線に気づいたのか、若君が安五郎のほうに顔を向けた。形の良いつり眉の下の、少し重たげにも見える垂れ目がちの目に安五郎の姿が写った。 その瞳を見た瞬間、正確にはその瞳に自分の姿が写っているのを自覚した瞬間、安五郎は心臓を掴まれるような感覚を覚えた。 たった一瞬視線を交わしただけだ。 しかし、この一瞬を自分は生涯忘れ得まいとすら思った。 それは、学問の師にも、そして今の主君である勝職にもついぞ感じたことのない感情だった。 これが、山田安五郎と、後に板倉勝静と名を変える松平寧八郎との最初の出会いであった。* 安五郎と勝静は二人きりで山道を歩いていた。 手に持った提灯のかすかな明かりを頼りに臥牛山を登りきると、夜の闇に溶け込むようにして大手門が佇んでいる。 門をくぐり、さらに歩を進めると二層二階の天守が姿を現した。屋根の上には月が輝いている。 天に向かってそびえるこの山城は備中松山藩と当地を治める板倉家の権威の象徴である。 しかしながら、藩主は普段は麓の御殿で生活しており、政もそこで行われているため、警護の者を除いては誰もいないこの城はひっそりと静まり返っている。 山の上ということも相まって、何やら違う世界に迷い込んでしまったような心地すらした。 天守の入口に着くと、勝静は提灯と小脇に抱えていた小さな甕を安五郎に預けて閂に手をかけた。ゴトリと重い音を立てて閂が外れ、扉が開く。 中に入り、提灯で足もとを照らしながら急な階段を上がると、板張りの大広間に出た。 藩主が自らの居城の天守に登っているだけなのだが、何せ殆ど人けのない城である。こっそり忍び込んで悪いことでもしている気分だ。 藩主の訪れのない城とはいえ、日々の管理は欠かしていないと見えて掃除の行き届いた床は足に心地よい。 大広間を少し進んで左手の、一段高くなった場所に小部屋が設えられている。 二人はそこへ入り、無造作に置かれていた行灯に提灯の火を移した。「さすがに山の上は冷えますね」 安五郎が言う。「だと思って、わざわざ持って来たんだ。飲めば暖まる」 いたずらっぽい視線で勝静は先ほど安五郎に預けた甕に視線を流した。「ああ、中身は酒でしたか」 勝静が頷き、甕の封を解くと酒精の香りがふわりと立ち上った。「少し行儀は悪いが」 言いながら、勝静は甕に直に口をつけて酒を一口飲んだ。「盛大なものは後で御殿でやるとして、まずは二人で祝杯だ」 甕を安五郎に渡す。安五郎も藩主に倣って、甕から直接酒を飲んだ。 華美な酒器もなく、給仕をするきらびやかな女中もいない。そして何の装飾もない武骨な天守の中での二人きりの宴である。 だが。「これほど美味い酒は今夜が初めてです」 安五郎が言うと、俺もだ、と勝静も笑った。「飲んでも、やはりちょっと寒いな」 勝静はそう言って安五郎に凭れ掛かった。その身体を、まるでそうするのが当たり前であるかのように受け止める。「先生」 勝静が言う。世子時代に安五郎から学問を教わった勝静は、藩主となった今でも彼を先生と呼んでいた。「どうされました」「知ってるか? この部屋は装束の間といって、追い詰められて籠城した城主が最期に装束を整えて自害するための部屋だそうだ」「なぜ今そのような、不吉なことを仰います」 主君を抱く腕に力が入る。 二人三脚で進めてきた改革がようやく実を結ぼうかという、最も幸福な時間のはずなのに。 勝静は笑って首を横に振った。「別に深い意味はない」 ただ、勝静の思いは安五郎にも何となくわかった。 軌道に乗り始めた藩政改革を明日からも精力的に推し進めていきたい気持ちに偽りはない。昨年奏者番に任ぜられた勝静には幕政参画への意欲もあろう。 だがその一方で、このままもう山を下りたくないのだ。煩わしいことなど何もないこの優しいまどろみの中で永遠に時を止めたい。 朝になれば雲が海となりこの城と下界を隔てることだろう。 そうなればここはもはや二人だけの国だ。 無論、ただの感傷にすぎぬということはわかっている。わかっているからこそ、取り留めもない妄想にこうも惹かれるのだ。「先生」 安五郎の腕の中で身じろぎをしながら呼びかける勝静の声が甘みを帯びる。 安五郎の手が主君の頰に触れた。 初めて会ったときのように、少し眠そうな彼の目には安五郎の姿が写っていた。「失礼仕ります」 相手は親子ほども歳の離れた主君。それも、将軍家の血を引く正真正銘の貴公子だ。それに、まもなく五十路に手が届こうかという歳になってまだこのような感情が自分の中にあったとは。 これがもし他人のことであったならば、年齢と立場を考えろと冷笑したかもしれない。 そう思いつつも、まるでその瞳に吸い寄せられるように安五郎は主君に顔を寄せた。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword