2017/08/20 Category : 幕末明治 夏の骸 「市井の様子を見てみたい」 暑い夏の昼下がり、二条城黒書院でのことである。 室内にいてもじっとりと汗ばむような盆地独特の暑気から少しでも逃れようと、手を団扇のようにパタパタさせていた慶喜は、突然発せられた年下の主君の言葉にぴたりと手を止めた。「……しかし、将軍御自らが町に下りられるとなると準備も大仰になりますし、今はそのようなことに割いている時間も人も金も……」 まもなく長州との戦が始まろうかというときである。 今日は何故だか予定が何もなく、こうして慶喜も、彼の主君である家茂もだらだらと寛いではいるが、だからといって将軍が大仰な物見遊山に興じているような場合では決してない。 慶喜がそう言って反対すれば大抵の場合家茂は素直に意見を取り下げるのだが、今日は違った。「では、大仰でなければ良いのだな」 家茂の言葉に、慶喜は訝しげな表情で上座を見上げた。家茂は完全に悪戯っ子の顔をしていた。 こんな顔もなさるのか。 少し意外な気持ちで彼の顔に見入る。 そんな慶喜をにこにこと見つめ返し、家茂は続けた。「市井の民に見えるように身をやつして、わしとそなたで町へ下りる。まるで物語のようで楽しそうではないか?」「私も行くのですか?」「当たり前であろう。そなたは将軍を一人で放り出すのか。危ないではないか」 年下らしい甘えた表情で言い募る将軍に、慶喜は苦笑した。「私が隣にいるほうが危ないという輩もたくさんいるでしょうに」「拗ねるな」「拗ねてなど」「……仕方ないですね」 ややあって、慶喜が言った。「行ってくれるのか?」 期待の眼差しで家茂が問う。その顔が好奇心旺盛な子供そのものといった風情で、ああこの方は自分よりも九つも下で、まだ二十歳にも満たぬのだと改めて気づかされる。「本当は今日は部屋の中で涼んでいたかったのですが、上様の仰せとなると断るわけにもいきませんね」 渋々といった表情を作りながら慶喜は言った。*「活気があるな」 裏門からこっそり城を出て開口一番、家茂が言った。 涼しげな水浅葱色の小袖を着流して、上に紺色の羽織を着ている。 いつもはきっちりと結い上げている髪も今は後ろで緩く纏めたのみで、さながら商家の若旦那といった出で立ちだ。 その隣を歩く慶喜も紺瑠璃色の小袖を着て空色鼠の羽織を肩に掛け、見事に『少し裕福な商人』に擬態している。「このような時勢ゆえ、民もあまり出歩かぬものかと思っておったが……」 人の多い堀川小路を見渡しながら、家茂は少し意外そうに目を瞠った。「まあ時勢がどうであれ、出歩かねば暮らしも立ち行きませんからね」 苦笑交じりに慶喜が答える。「ああ、それもそうか」「驚かれましたか?上様……あ」 しまった、というように慶喜が口を噤んだ。「ついいつもの癖で呼んでしまいましたが上様、はまずいですね」 何と呼んだものか、と慶喜は思案顔で腕を組んだ。 ややあって、家茂のほうを振り向いて笑いかける。「では参りましょうか、菊千代様」 菊千代とは家茂の幼名である。「知っておったのか」「まあ一応は」「意外だな、そなたはその、あまり人に関心がないのかと」 随分な言われようですね、と慶喜がくすくす笑う。「私のこともどうぞ、お好きに。豚一様でも二心様でも」 自嘲気味に発せられた言葉に家茂が笑う。「一応はその渾名のこと、気にしておるのか」「気にしますよ。豚一はまあ、豚肉は好きですし言い訳はできませんが二心はいただけない」「わしはそなたに二心(ふたごころ)があるなどとは思っておらぬぞ」「本当でしょうか」 などと他愛もないといえば他愛もない会話をしながら堀川小路を南に進む。 途中で老若男女、武士と町人を問わず多くの人とすれ違ったが、商人の格好に身をやつした二人を気にとめるものは誰もいない。 それがどうやら家茂にとっては非常に新鮮であるらしかった。 にしても、暑い。 じりじりと照りつける日差し。その日差しに熱せられた地面が放つ熱。夏の京は風一つ吹かない。 江戸と比べても一等暑いように感じる京の熱気に慶喜が早くもこの外出を後悔し始めた頃、二人は錦小路へやってきた。 京の町を東西に走るこの錦小路の中央部には八百屋や魚屋、果物屋、菓子屋などがひしめき合い、まさに京の台所と呼ぶにふさわしい活気を放っている。「七郎!」 声を張り上げて家茂が連れを呼ぶ。どうやら彼も、慶喜のことを彼の幼名である七郎麿に因んだ名で呼ぶことにしたらしい。 人々の喧騒、そしてリンリンと響く蝉の声で、怒鳴るようにしないと隣にいるお互いの声すら聞こえない。「すごいな、この活気は! そなたと会津中将が言い合うときよりうるさい」 茶化すように家茂が言う。「大きなお世話ですよ。それにそのようなことを仰っては身分がばれてしまう」「どうせ誰にも聞こえぬ」 家茂はどこまでも朗らかだ。彼にとっての非日常を心から楽しんでいる。「何か食べますか」 万が一にもはぐれぬように家茂の着物の裾を握りながら慶喜が問う。「甘いものが食べたい」 にっこり笑って返された言葉があまりにも彼らしくて、慶喜はたまらず笑った。 甘味屋をはじめとして様々な店を冷やかしながら歩いていると、あっという間に一刻ほど経っていた。「もう夕方だな」 西に傾いた赤い太陽を見やりながら家茂が言う。「ご満足いただけました?」 そう問いかけてから、慶喜は先ほど買った冷し胡瓜に噛り付いた。パリッ、と瑞々しい音が鳴る。「そなた胡瓜だけでいいのか?」「ええ。菊千代様が次から次へと団子を頬張る姿だけでお腹いっぱいです」 そのまま、カリカリと食べ進める。その様子を家茂は見るともなしに見ていた。「何です?」 視線に気づき、慶喜が隣を振り返る。「いや。……そそるな、と思って」「串で突きますよ」 半分あたりまで食べ進め、ちょうど尖った串の先が出てきた冷し胡瓜で威嚇する。「冗談だ」 家茂は笑ってそう言い、慶喜から冷し胡瓜を取り上げた。そして、そのままその続きを齧る。「あっ」「天下の将軍後見職が胡瓜一本でそんな顔をするな」 そう言いながらも、慶喜があまりにも悲しそうな顔をするので家茂は一口だけ齧ったそれを返してやった。 戻ってきた冷し胡瓜を嬉々として平らげる。 そして食べ終わると残った串を袖の中に放り込み、手の甲で口元を拭った。 黄金色に染められた雲が流れてゆく。 家茂と慶喜の間を、姉弟と思しき子供達が駆け抜けた。子供らしく肩上げを施してある着物と、走るたびぴょこぴょこと跳ねる兵児帯が可愛らしい。 どうやらこの幼い姉弟は、両親に連れられて商店街の東端にあるお社へお参りにきたらしい。もしかしたらこの通りにある店の子かもしれない。 きちんと神様に手を合わせなさいと母親が注意するが子供達は聞きやしない。 灼熱の地面に顔が近い分、大人よりも暑いだろうに子供は元気だ。 慶喜が目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。「ああ、夏の夕暮れの匂いですね」 昼の日差しに熱せられた地面と空気が緩やかに冷えて、湿気を含んだ気怠い匂いを放つ。昼間の疲れ、充足感、そしてほんの少しの死の匂い。 慶喜の下駄の脚が、地面に転がった蝉の死骸を踏んだ。乾いた音を立ててそれはほろほろと崩れていった。「夏は好きか?」 家茂が問う。慶喜は首を横に振った。「とにかく暑いし、それに……この匂いを嗅ぐと逝った人のことを思い出します」 社殿の前で柏手を打つ子供達に目をやる。「私の娘も、生きていればあのくらいでしょうか」「娘御がいたのか?」「ええ。といっても、四日しか生きられなかったんですけど。 ああそれに家慶様が亡くなったのも夏でした。 夏になれば大切な人が死んでしまう」 だから夏は嫌いです、と慶喜は笑った。 ざり、と土を踏みしめ、家茂は慶喜へ一歩近づいた。体の横に下ろされた手を握る。 驚いたように慶喜が家茂を振り返った。「家慶様は……、先々代の上様は随分とそなたを愛しておられたらしいな」「そうですね。私を跡継ぎにと望んでくださるほどにね」 繋いだ手に視線を落とす。振り払う気にはなれなかった。「そなたも愛していたのか」 家茂の問いに、慶喜は困ったように視線を彷徨わせた。「家慶様は父より年上でしたし、あのときはとにかく家慶様に気に入られるようにせよと父に言い含められていたので、気に入っていただくのに必死で……。 ただやはり、今にして思えば、お慕いしていたのだろうと思います」 遠い目で慶喜は語った。 その言葉に、家茂の手に力が入る。「上……菊千代様?」 慶喜は怪訝な顔で家茂を見た。「そなたにそんな顔をしてもらえるのならば」 家茂が言う。「え?」 慶喜が問い返した。向かい合う顔の高さは、ほぼ同じくらい。「そなたにそんな顔をさせられるのならば、わしも夏に死にたい」 虚をつかれたように慶喜は一瞬黙り込んだ。が、すぐにその言葉を笑い飛ばす。「何を馬鹿なことを。私のほうが先に死にますよ。いくつ違うと思ってるんです」「……そうか。そうだな」 冗談だ、忘れてくれ、とどこか取り繕うように家茂は笑った。「さ、帰りますか」 ややあって、わざと明るい調子でそう言い、慶喜は家茂の手を引いた。 家茂はどこか浮かない顔だ。もうすぐ、一日限りの冒険が終わってしまう。「……それとも、花街をご案内いたしましょうか?島原は少し遠いですがこの近くの先斗町もなかなか」「いや。別に女が欲しいわけでは」 皆まで言わせず、家茂は慶喜の申し出を断った。「ふうん」 慶喜が気のない吐息を漏らす。 どちらからともなく歩き出し、二条へ向けて寺町通を北に進む。「まあ、欲しい体は隣におるしな」 歩きながらさらりと自然体で告げられたその言葉に、そうですねと生返事をしかけて、慶喜ははっとそれを呑み込み年下の主の横顔を覗き込んだ。相変わらず鼻筋のすっと通った綺麗な横顔だ。 赤い顔をしているような気もするが、夕日のせいかもしれない。「い……いつの間にそのように悪い上様になったんです」「そなたの教育の賜物であろう?」 涼しい顔でそう返されれば、負けを認めざるをえない。「城には戻るが、今日はずっと一緒にいてくれ」 答える代わりに慶喜は繋いだ手を離した。「嫌なのか」 少し傷ついた顔をする家茂にニヤリと笑う。「今は人目がありますから。城に戻れば、繋ぐのは手どころじゃないんでしょう?」 そう言ってやれば、家茂は忽ち顔を赤くして黙り込む。 今度は明らかに夕日のせいではない。 いつもの調子が戻ってきたと一安心すると同時に、これは非常に良くない傾向だ、と慶喜は心の中で呟いた。 これではまるで、本気でこの人を。 慶喜の心など知らぬ気に、京の街は夜に染まり、明かりが灯る。 [3回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword