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水月庵

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雷雨が永遠なら

ひどい雨は夜になっても続いていた。
 時折空が激しく光り、ややあって全身を揺さぶられるような轟音がズドンと響く。
 普段は四季折々に花が咲き乱れ、まるで桃源郷のような美しさでそこにいる人々を楽しませてくれるここ小石川邸の庭も、今日は折からの豪雨に花は折れ、地面は水浸しで美しい面影はもはや見る影もない。
 また空が光った。
 轟音が邸を揺るがす。

「邸に落ちないといいけど」
 小石川邸の子供部屋では、水戸家の世子である七歳の千代松がそう言って障子を少し開け、部屋の外を心配そうに眺めていた。






「うわぁん怖いよぉ。雷様におへそ盗られちゃうよぉ」
 先程の光と轟音がよほど怖かったのか、千代松の一歳違いの異母弟、児麿が臍のあたりを押さえてわんわん泣き出した。どんぐり眼がたちまちのうちに涙でいっぱいになる。
「雷様はあんたのおへそなんていらないと思うわよ」
 冷めた口調でそう返すのは千代松の同い年の異母妹、小良(さら)姫だ。
 強がっているだけかもしれないが、小良は怯えた様子も見せず、先程まで三人で興じていた双六を淡々と片付けている。

 そうこうしているうちに、またしても空が光る。
 児麿の泣き声が一層大きくなった。
「そんなこわがるなよ。正直、雷様よりおまえのほうがうるさいぞ」
 障子の脇に立ち、外を見ていた千代松が部屋の中を振り返り、うんざりした顔で言う。
「千代松、いじわる言わないの」
 小良が同い年の兄をたしなめる。
「なんなんだよ。おまえだってさっき、いじわる言ってたじゃないか」
「それよりも、そんなお外に近いところにいたらおへそなくなっちゃうわよ」
「ばか言うなよ」
 そう言いながらも、千代松はそそくさと障子の脇から移動する。
「千代松って単純ね」
 ませた口調でそう言い、小良はふふっと笑った。
「なんだと!」
 千代松が気色ばむ。
「なんなの? やるの?」
「兄さま姉さまケンカしないでよぉ」
 放っておけば取っ組み合いの喧嘩でも始めかねない勢いの兄と姉を、相変わらず涙と鼻水で顔がくしゃくしゃの児麿が止める。
 暴れるのは雷様だけでじゅうぶんだ。

「まあ子供部屋は賑やかだこと」
 襖を開けて女人が三人部屋へ入ってきた。
 鮮やかな紅の生地に大ぶりな柄が染め抜かれた小袖を着て先頭を切って入ってきたのが児麿の母であるお勝、そのすぐ後ろに続くのが小良の母の耶々、そして二人の後ろにほぼ隠れてしまっている小柄な女人が千代松の母の久子だ。

「母さま!」
 泣き顔の児麿がたたたっと母親に駆け寄り、その腰に抱きつく。
「まあ児麿、男の子がそのように泣いて」
 児麿と目線を合わせるようにお勝はしゃがみ込み、我が子の髪を撫で付ける。
 咎めるような言葉とは裏腹に、その手つきと口調は驚くほど優しげだ。
「雷が怖いのね。大丈夫よ、今日は母さまと一緒に寝みましょうね」
 その言葉に児麿ははい、と大きく頷いた。
「小良もこちらへいらっしゃい」
 耶々も我が子を手招きする。
「大丈夫よ。あたし雷なんかこわくないもん」
 小良はぷいっとそっぽを向いた。
「強がらないの」
 娘のそういった気性を熟知している母親はにこにこと笑みを浮かべたまま彼女の手を握って引き寄せた。
 最初のほうは小さな足を踏ん張って抵抗していた小良も、母と一緒に寝られるという誘惑には勝てなかったのか最後には母親の腕にすっぽりと収まった。

「じゃあ千代松も」
 久子が呼びかける。
「おれはほんとうに大丈夫です」
 千代松は首を横に振った。
「そう? でも千代松だってまだ小さいのだし」
「おれはもう小さくなどありません!
 それにおれはお世継ぎなのですから雷をこわがって母親にすがったなどと知られれば江戸中の笑いものです!」
「別に江戸中に話が広がったりなんてしないと思うけれど……」
 頑なな我が子に、久子が困ったように首を傾げる。
「ともかく、大丈夫です!」
 ふん、と千代松が小さな胸を反らせた。
「そう。そこまで言うなら仕方がないわね。でも母様寂しいわ。
 お兄ちゃんはもう大きいから母様と一緒には寝てくれないでしょうし……」
 渋々といった体で我が子から離れ、久子が眉をハの字ににする。
「今夜は一緒に寝てくださるようにお屋形様に頼んでみようかしら」
 久子の柔らかな唇からぽろりと飛び出た独り言に、残り二人の女がさっと険しい顔になる。
「と、とにかく! もうお寝みくださいませ母上!」
 弱冠七歳にして気苦労という感覚を覚えた千代松であった。



 とはいえ。
 一人きりの閨で千代松が寝返りを打つ。
 相変わらず雷雨は衰えを知らず、ひっきりなしに部屋を鋭く照らしては咆哮をあげ、雨は激しく屋根を打ち、風に揺らされる木の枝の唸りと影はまるで妖魔のようだ。
 これではとても眠れない。
 千代松は搔巻を頭からひっ被った。
 雷神がはしゃぎ回る度、雷様におへそを盗られちゃうよという児麿の泣き声がまざまざと耳に蘇る。
 あのときは小良もいる手前笑い飛ばしたが。
 千代松はぎゅっと目を瞑り、両手で臍の上を押さえた。

 と、そのとき。
 廊下と部屋を隔てる襖がカタリと音を立てた。
「ひっ!」
 文字通り、千代松は飛び上がった。
 しかしその一瞬後、持ち前の負けん気の強さと旺盛な好奇心が首をもたげ、几帳の影からそろそろと顔を出す。

「そない驚かんでええやん」
 苦笑交じりの、大好きな人の声。
 千代松の全身から力が抜けた。
「あにうえ……」
 枕を抱いて入ってきたのは、千代松の六歳年上の兄、竹丸だった。
 兄に駆け寄ろうと腰を浮かしかけ、しかし千代松はすんでのところで思いとどまった。
「し、心配はご無用です。おれは雷など怖くは……」
 自分はお世継ぎなのだからと母の添い寝を断った手前、兄に縋るのは千代松の矜持が許さなかった。
 しかし、竹丸は弟の気性をなるほどよく心得ている。
 意地を張る千代松をよそにスタスタと彼に近づき、几帳を避けて彼の布団の上にやってくると、弟の枕の横に自分の枕を並べた。

「あの、あにうえ。おれの話聞いてます?」
 慌てて兄の夜着の袖を引く。
「聞いてるよ」
 自分の袖を引く弟の小さな手を握る。
 そして、弟と視線を合わせてにこっと笑った。
「ええか千代。俺が、一人は怖いんや」
 ん? と千代松が首を傾げる。繊細な見た目に反して心臓に毛の生えている兄が?
「なぁ千代。俺と一緒に寝てぇな」
 千代松を腕の中に閉じ込め、甘えるような声音でそう言った兄にどきりと胸が疼く。
「あ、あにうえが怖いのならしかたありませんね」
 仕方ないから一緒に寝てやるなどと嘯きながらも、千代松は心底嬉しそうに兄の胸に頬を擦り付けた。
 相変わらず雷雨は続いている。
 けれど、兄が一緒ならばもう怖くなかった。

 微かに湯上がりの匂いを漂わせる兄にぴったりとくっついて布団に横たわる。
 髪を撫でる兄の手が心地良い。
「あにうえ」
 意味もなく、呼びかけてみる。
「どうした?」
 掠れ気味の声。大人になっていく過程の、その少し聞き慣れない声色にまた胸が高鳴った。
 喋ると少しだけ飛び出た喉仏が上下する様が、雷様の光のせいでくっきりとよく見える。
 兄は大人になり始めている。
 兄も自分も大人になったら、俺たちはどうなるのだろう。
 ぼんやりと千代松は思った。
 それは何やら恐ろしいことのような気がして、彼はより一層しっかりと兄にしがみつく。
「甘えんぼやな」
 からかうような兄の声。
「ちがいます。あにうえが怖くないように守っているのです」
 千代松はまたしても意地を張った。
「ほなそういうことにしとこか」
 竹丸はぽんぽんと弟の頭を撫でた。

 大人になってもずっとこうしていられたら、いや、大人になんて永遠にならなければいいのに。

 寝入り際、千代松は思った。

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