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水月庵

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箱根旅情

箱根で参勤中の高松と彦根が出会っちゃう話。
彦根藩はたぶん美濃路経由の東海道ルートで来たから箱根にいるの…そういうことでお願いします…



「兄上様」
 高松藩家老、大久保主計(おおくぼかずえ)は寝そべる主君の隣に腰を下ろし、彼の肩を揺さぶった。
「ここ、露天風呂があるんですよ」
「露天風呂か……」
 彼の主君且つ異母兄である高松藩主、松平右京大夫頼重(まつだいらうきょうのだいぶよりしげ)は今すぐにでも眠ってしまいそうな声で主計の言葉を反芻する。
「いかがです?たまには二人で湯に浸かるというのは」
 肩を揺さぶりながら甘えた声で主計は誘った。

 今、二人は箱根湯本の宿場町にある本陣に滞在している。領国である四国高松から将軍のおわす江戸へと参勤する途上である。
 日ノ本の大名が領国と江戸を行き来することを定めたこの参勤交代という制度は費用の工面や道中の段取りなど何かと大変なことも多いが、主計はこの制度が嫌いではない。むしろ気に入っているくらいだ。
 何せ高松から江戸への十日余りの旅の間だけは、頼重の隣には自分しかいない。
 頼重の妻達も、そして江戸にいる頼重への愛を拗らせたかの副将軍もこの旅の途上にはいない。頼重を独り占めできる絶好の機会だ。

「わかった。行くから……四半刻経ったら起こして」
 そう言って頼重は目を閉じた。
「仕方ないですね」
 程なくして寝息を立て始めた想い人の髪をふわりと撫でる。構ってもらえないのは寂しいが、端正な寝顔をこうして独り占めできるというのも悪くない。






 しばし時が流れた。
 高松の城や江戸の屋敷とは違い、ここは本当に静かだ。
 新緑のそよぐ音が耳に心地良い。
 日が少し傾いてきた。
「兄上様、そろそろ」
 主計は頼重の肩に手を伸ばした。

 そのときだった。
「何や騒がしいな」
 外がにわかにざわついてきたのを感じ取り、主計が起こすよりも早く頼重が目を開けた。
 即座に身を起こし、外して手元に置いてあった太刀を手に取るその流れるような所作は、戦を知らぬとはいえさすがに武士だ。
「外を見て参ります」
 主計は言った。
「俺も行く」
「なりません。御身にもしものことがあっては」
 主計はそう言って頼重を押しとどめようとしたが、彼はその不安顔を笑い飛ばした。
「おまえ、武芸はからきしやろ?
 『もしもの事態』には俺がおったほうがええで」
 太刀を片手に、白い歯を見せていたずらっぽく笑った頼重に対して主計は曇り顏だ。
「殿様に守られる家臣がどこにおりますか……」
 俯いて小さな声で呟いた。

 宿の表に出た二人の目に入ってきたのは、橘の紋のあしらわれた旗だった。
 頼重にとっては見慣れた家紋である。
 その橘の紋を掲げた侍達と、応対に出た松平家の侍達とでちょっとした騒動になっている。
 といっても、特に言い争っている風ではない。
「掃部頭どの」
 誰にともなく、頼重が呟く。
「はて、事前の段取りでは井伊掃部頭様御一行は昨日ここ箱根をお発ちになっているはずですが。
 この度は川の増水など旅程に遅れが生じる要因もこれといってありませんし……」
 主計も首を傾げている。

「や! これは」
 先方が頼重と主計に気づいたようである。
 二人の身なりから上の立場の人間であることを察したのか、井伊の家臣団がやにわに威儀を正して平伏する。
「高松松平家家老、大久保公忠にございます。そちらは……」
「井伊家家老、木俣守明にござる」
 井伊家臣団の筆頭にいた五十絡みの男が慇懃に頭を下げた。
「本来であれば当家は昨日のうちに箱根を越えておるはずだったのでござるが、その……藩主急病にて行程に遅れが生じ……」
 つらつらとことの経緯を述べていた井伊家の家老はそこで顔を上げた。その顔には愛想笑いのような笑みが張り付いている。
「いや、しかしよもや徳川御連枝様がご宿泊される本陣を使わせていただくことなどできませぬゆえ、我々は先を急ぎまする」
「え!?」
 これには主計も素っ頓狂な声を上げた。頼重も隣で眉をしかめている。
「しかし、もう日も暮れますし、それに藩主様はご病気なのでしょう!?」
「ご心配には及びませぬ。病とは申せ大したことでは。それに、遅参などということになっては」
「仰ることもわかりますが……」
 守明の言葉に難色を示す主計の横で頼重が動いた。スタスタと歩き出し、守明の横をすり抜け、人ごみをかき分けて井伊家当主の乗っているであろう駕籠に近づく。
 集まっている井伊家臣団も、軽い様子で表に姿を見せたこの男が高松藩主松平右京大夫頼重その人だとは夢にも思っていない。
 何をなさる、と制止する声も聞かず、頼重は一言、御免、と言って駕籠の引き戸に手をかけた。

「掃部頭どの」
 駕籠の中の人物に呼びかける。
 彼はぐったりとした様子で壁に凭れかかっていた。
 井伊掃部頭直澄(いいかもんのかみなおすみ)。
 譜代筆頭たる井伊家の当主にして、彦根三十五万石の主である。
 高松松平家と井伊家は両家とも、江戸城へ上る際には将軍の居所に程近い溜間と呼ばれる部屋を控室とする家格であり、江戸へ参勤している間は頻繁に登城して溜間に詰め、ともに幕政を担う間柄だ。
 同じく溜間詰である会津の保科正之と並んで、御三家などを除けば並み居る大名家の中で最も格式の高い家柄といえる。
 その譜代筆頭大名が今、頼重の目の前で赤い顔をして息も絶え絶えに苦しんでいる。
 頼重は彼の形良く秀でた額に手をやった。
 驚くほど熱い。
 直澄が熱に潤んだ目で頼重を見上げる。
「右京、どの?」
 か細い声で頼重を通称で呼ぶ直澄の瞳に微笑みかけ、少しでもその身体の熱を吸い取ってやろうとするかのように、頼重は額に置いた手を彼の頬へ滑らせた。もう片方の手も反対側の頬に添える。
「つらかったやろ。もう大丈夫やからな」
 直澄は小さく頷いた。

 直澄がよろよろと駕籠を降りる。
「主計」
 直澄の身体を支えながら、頼重は家老に呼びかけた。
 頼重を追うように近くまで移動してきていた主計はすべて承知している、というように頷く。
「井伊様のお布団はとりあえず殿と同じ部屋でよろしゅうございますね」
「ああ」
「すぐに宿の者へ申し伝えます。
 ……つきましては、木俣様」
 主計はまだ呆気にとられている様子の井伊家の家老を振り返った。
「我が殿がこう申しておりますので、少々手狭にはなりますがどうぞ井伊家の皆様もこちらへ滞在なさってくださいませ」
 そう言って頭を下げる主計に、守明が呆然と呟く。
「我が殿……。では、その御方が……」
「はい。高松松平家当主にして、御三家が一つ水戸徳川家当主の実兄、松平右京大夫にございます。
 普通このような身分ともなれば軽々しく人前には出ぬものゆえ驚かれたかとは思いますが、何ぶん我が殿はこの通り身の軽い御方でして」
 呆れ半分、誇らしさ半分といった具合に主計は笑った。



 彦根藩三代藩主井伊直澄は、二代藩主井伊直孝の末子として生まれた。
 本来ならば歴史の表舞台に現れることはなく、壮麗なる彦根城の片隅で静かに朽ちていくはずの男であった。
 その日も、直澄は自室で静かに書を読んでいた。
 半ば書に埋まった薄暗い部屋。それが、直澄の世界のすべてだった。
 政に携わることもなく、生涯妻を娶ることもなく、自分はただここで、来る日も来る日も書を読み続け、死んでゆく。
 それが自分の運命なのだと達観してさえいた。
 この部屋を人が訪うことは滅多にない。身の回りの世話をする者と、あともう一人の例外を除いては。
 少し休息をと、直澄が読書の手を止めたときだった。

 何者かが荒っぽい足音とともにやって来て襖を無遠慮に開け放った。
 闖入者の姿を見た直澄が怯えに顔を歪ませる。
「兄上?こたびは一体、どのような御用向きで……」
 入ってきた偉丈夫は残忍ともとれる笑みを浮かべ、さも楽しそうに直澄を壁際へと追い詰めた。
「俺が来るのは不服か」
「そのようなことは」
 直澄の背が壁に当たる。
「そう怯えずとも良いではないか」
 兄は壁に手を付き、自分の身体と壁の間に直澄を閉じ込めた。

 井伊直滋。直澄の長兄にして、井伊家の世子である。
 才気煥発で剛毅なその気性を江戸の大御所や将軍から愛され、譜代筆頭大名の跡継ぎとして得意の絶頂にいるこの男が、直澄は苦手だった。というよりも、怖くて仕方がなかった。

 肩を掴まれ、床に押し倒される。
「やめてください……っ」
 覆いかぶさってくる身体から逃れようともがくが、肩を押さえつけ、もう一方の手で強引に着物の袷をこじ開けようとするその手は直澄の非力ではびくともしない。
 首筋にかかる息の生々しさに、胸を這う武骨な指の感触に涙が溢れる。
 いつになったら自分は解放されるのだろう。あと何度この蹂躙を耐えなければならないのだろう。

「おまえはほんにかわゆいのう」
 直澄の白い肌を貪りながらやに下がった声で兄直滋が言う。
「そうすれば俺が喜ぶと知っていて抵抗する振りをしておるのだろう?本当は俺のものを咥え込みたくて仕方がないくせに」
 直滋は自分の膝を弟の両脚の間に差し入れ、無理やりその脚を開かせた。
「ち……っ違うっ……本当に……っ」
 誰か……、と、助けを求めるように直澄の手が畳の上を這った。
 この城で俺に逆らっておまえを助ける奴などどこにいる、と兄が嘲笑う。

 その手に、何かが触れた。
 ひんやりとして気持ちがいい。
 それは最初は躊躇いがちに、しかし徐々に力強く、直澄を過去から現在へと引き戻した。

 直澄は重い瞼を上げた。頭がふわふわする。普段は気にも留めないような自分の息遣いや体内を巡る血の音が骨に反響して、目は覚めているはずなのにまだ非現実にいるような感覚だ。
「右京どの……」
 目の前の男を呼ぶと、彼は安心したように破顔した。繋いだままの指に少し力が入る。
「良かった。魘されてたから心配で」
 頼重は仰臥する直澄の隣に座って直澄を見下ろしている。どうやらずっと傍にいてくれたらしい。
 いつも威儀を正した裃姿しか見たことがなかったので今日のような寛いだ羽織姿はなんだか新鮮だな、などととりとめのないことを直澄はぼんやりした頭で思った。

 するりと手が離れた。
「あ……」
 離れた手を追うように直澄の手が宙をさまよう。無意識のうちにしたその行動に気づき、元々熱のせいで赤い顔を羞恥でさらに赤くする直澄を優しい目で見下ろしつつ、頼重は直澄の額にその手を当てた。
「もうひと眠りしたほうがええ」
「でも……」
 眠るとまた昔の夢を見るかもしれない。
「大丈夫。ずっと側におるから」
 安心し、と微笑んでやると、直澄も控えめに笑みを返してゆっくり目を閉じた。

「失礼いたします」
 直澄が再び眠りに落ち、今度は安らかな寝息を立て始めたのを見守っていると、聞き慣れた声とともに襖を開けて主計が入ってきた。
 部屋に入ると一旦その場に膝をついて後ろを振り返り襖を丁寧に閉める。
 そして部屋の中の頼重に向き直ると袴の裾を直しつつ正座して、三つ指をついて頭を下げた。
「彦根の皆様の部屋の手配などすべて済みましてございます」
「おおきに」

「井伊様に粥でも、と思ったのですが良くおやすみのようですね」
「ああ。ちょうど今、寝入らはったとこや」
 答えながら、少しずれていた直澄の布団を掛け直してやる。
「……ところで兄上様」
 少しむっとした顔をしながら、主計が咳払いした。
「我々は予定通り明朝出立でよろしいですか?」
 主計が拗ねているのを知ってか知らずか、頼重はどないしよかなぁ、などと呑気に首を傾げる。
「さっきまではそのつもりやってんけど」
 そう言って頼重が布団の上に置いた自分の手を見やった。
 見れば、布団から出た直澄の手がその手をきゅっと握っている。
「旅路で倒れて心細いようで」
「……参勤に遅参するとそれなりに重い罰が下ると思いますけど」
 主計は主君をじとりと睨めつけた。
「腹切らされるのは嫌やなぁ」
 頼重は相変わらず呑気に笑っている。
 やってられない、とでもいうように主計はため息をついた。

 ちょうどそのとき、身の回りの雑用をこなす小者が冷水の入った桶と布を持って部屋に入ってきた。
 それを受け取り、布を冷水に浸す。
 冷水で冷やした布を固く絞り、直澄の額に乗せてやりながら、頼重は小者に紙と筆を、と命じた。
「御文ですか?」
 小首を傾げ、主計が尋ねる。
「うん。遅参の取りなしをお願いしとこう思てな」
「どちら様に?」
 答えはわかりきっているような気もするが、一応聞いておく。

「決まってるやろ。天下の副将軍様にや」
 案の定の答えに、主計は大仰に肩をすくめてため息をついた。
「あーあ、かわいそう。副将軍様泣いちゃいますよ。大好きな兄上が他の方といちゃつくために遅参することの取りなしをしなきゃいけないなんて。
 あの方のことは嫌いですけどさすがに同情します」
「看病してるのに『いちゃつく』はないやろ」
 頼重は苦笑した。
「看病なんて高松藩主でなければできないわけでも何でもありませんけどね。
 ま、いいですよ。文を届けるなら早いほうがいいでしょう。足の速そうな奴に声をかけてきます」
 もしまだ熱が上がるようでしたら医者を呼びますので言ってくださいね、と言い置いて、主計は去っていった。
 静かに閉じられた向こうから主計の、誰か足が速くて天下の副将軍の勘気をこうむる覚悟のある奴はいるか、という揶揄たっぷりの声が微かに聞こえてくる。
 少し気まずげに笑ってから、頼重は直澄を見守る作業に戻った。



 次の日の夕刻。
 直澄の熱はようやく微熱程度にまで下がり、簡単な食事ならば口にできるまで回復した。
 頼重が匙にとって口元まで運んでくれる粥をゆっくりと嚥下する。
「良かった。全部食べれたな」
 空の器を見て頼重が笑う。
「子供ではないのですから」
 心底嬉しそうに微笑まれ、直澄もまたくすぐったそうに笑った。
「右京どの、本当に良くしていただいて、何とお礼を言っていいか」
「病人をほっとかれへんのは当たり前やん」
「いえ。こたびのことだけではなく、いつも……。
 拙者は長いこと部屋住みの身分で、まさか我が身が家督を継ぐことなどあるはずもないと思っておりましたゆえ、お城での勤めでわからぬことも多くございました。
 その度に右京どのにはお助けいただき、どれほどありがたいと思っていたことか」
 同じ溜間詰めの誼とはいえ、どうしてそこまで良くしてくれるのか、と直澄は問うた。その顔が赤いのはきっともう熱のせいではない。

「面と向かって聞かれると何や恥ずかしいな」
「も、申し訳もござりませぬ、困らせる気はないのです」
 赤い顔のまましゅんと俯いた直澄の、伏せた目を彩る男にしては長い睫毛を見ながら、頼重は言葉を選んだ。
「最初は、因縁のようなものを感じてな」
「因縁?」
 ぱっと直澄の睫毛が上がった。硝子玉のような双眸に頼重の姿が映る。
「うん。掃部頭どのは長男やないけど家督を継いだやろ?
 で、俺は長男やけど家督を継がへんかった。あぁ誤解せんとってな、別に僻んでるわけやないねん。ただ、そんな俺らが故あって江戸城の同じ部屋に詰めてるなんて何か面白いな、と」
 直澄は真剣な表情で頼重の話に耳を傾けている。じっと見つめられると妙に照れくさくて、頼重は何となく自分の髪に手をやった。そして、話を続ける。

「ま、でもそれは最初のうちの話で。それからもずっと構いたくなったのは」
「何故、なのでございますか」
「何でやろなぁ。ひょっとして、掃部頭どののことを好きになったからかなぁ。どう思う?」

 もともと赤くなっていた顔がさらに赤くなった。
 これぞ井伊の赤備え、などとくだらないことを考えてしまった頼重をよそに、直澄が時折言葉を詰まらせながら言う。
「ど、どう思うと問われましても……。右京どののお気持ちについて拙者があれこれ申すなど、そんなこと。ただ」
「ただ?」
「ただ、もしそうであれば、その、拙者も同じ気持ちです」
 真っ赤な顔で、消え入りそうな声で、しかしまっすぐに頼重を見つめて直澄は言った。が、すぐに目を伏せてしまう。
 何ということを言ってしまったのだろう。
 まだ熱っぽさの残る気だるい身体を襲ったのは後悔だった。
 自分は到底、この人に愛を伝えられるような綺麗な身体ではないのに。
 自分のことを好きだと言ってくれる頼重は、家督を継いでからの自分しか知らない。この身体がかつて実の兄の慰みものだったともし知ってしまったらきっと、この人は幻滅して自分から離れていってしまうに違いないのに。

「……つまらぬことを申しました。どうぞ今の言葉は」
忘れてくださいませ、と言った直澄の顔を頼重の両手が包む。そしてその顔をそっと上げさせた。
「忘れられるわけないやん。そんな嬉しいこと言われて」
 本当に嬉しそうに、はじめて恋人ができた少年のような顔で笑う頼重を見つめ、直澄の目から涙が落ちる。
「でも拙者は、あなたに愛していただけるような綺麗な身体では」
 そう言って離れようとする直澄を、頼重は抱きしめた。さらりとした絹と、その奥のまもなく不惑を迎える男のものとは思えない張りのある身体の感触がじんわりと伝わってくる。
「俺もまあいろいろあったよ、この年になるまでには。
 しょうがないやん、俺らは、ぬくぬくとお家を継げる他の大名とは違う」
 あやすように、細い背中に回した手をぽんぽんと動かす。
「昔のことを掃部頭どのが話してくれるんやったら、……話したほうが楽になれるんならいくらでも聞くし、聞きたいんやったら俺のことも話す。
 そやけど、今更何を聞いても俺は絶対、掃部頭どののことを好きなままやと思うんや」
 頼重は一旦身体を離した。指が直澄の顎にかかる。

「なりませぬ、病をうつしてしまいます」
 身を引こうとする直澄に、頼重はこともなげに笑った。
「ええよ。そろそろ病にも飽きた頃やろ。もらったるわ」
 頼重が目を閉じた。直澄も目を閉じる。
 外から射し込む夕陽が形作る二人の長い影が重なる。
 ほんの一瞬だけの、触れるだけの浅い口づけ。
 子供の遊びのようなそれが、こんなに心を満たすことを、直澄ははじめて知った。



「では」
 翌朝。高松藩一行の出立の朝である。
 本陣の前まで見送りに出た直澄の前で、頼重は馬に跨った。
 ここからはしばらく険しい山道になるため、駕籠ではなく馬で峠を越えるらしい。
 馬上から手を伸ばし、直澄の額に触れる。
「熱はすっかり下がったな」
「はい、おかげさまで。こちらも明日には出立いたします。
 またすぐに、江戸でお目にかかります」
 直澄はにこりと柔らかく笑った。

 それから直澄は頼重の脇に控える主計に目をやった。
「ご家老、こたびは急にご迷惑をかけたにもかかわらず万事お取り計らいいただき、礼を申し上げる」
 そう言って頭を下げようとする直澄を、主計は慌てて押しとどめた。
「掃部頭さま! どうぞ頭をお上げください、そんな……譜代筆頭様に頭を下げていただくなんて畏れ多い!
 それに、うちの殿のわがままに振り回されるのはいつものことでして、こたびのこれはまだかわいいほうですから。ね、殿」
 主計が馬上の頼重を見上げる。頼重は気まずげに目を泳がせた。
「江戸に着いたら何を買っていただきましょうかねぇ、殿?」
「……ええからもう、早よ行こうや……」
 何とも情けない殿のその合図で、高松藩一行は箱根を後にした。
 その行列が見えなくなるまで、直澄は本陣の前に立ち彼らを見送った。

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