2017/10/09 Category : 幕末明治 木乃伊になった木乃伊取り 家茂死後の容保と慶喜。ややおどろおどろしいので少しだけ注意。 大坂城は未曾有の混乱に包まれていた。ここ半月の間、ずっとである。 さる慶応二年七月二十日、将軍家茂が継嗣無きままこの城で没した。数え二十一歳の若さであった。 その死は秘されてはいるがもはや公然の秘密。一刻も早く新たなる主を、と城中は浮き足立っていた。 無論、この状況で幕府を背負って立つことのできる人間などたった一人に限られる。 会津中将こと松平容保は控えの間で、その『たった一人』からの返答を待っていた。 時折、苛立ったように扇子で床をコツコツと叩く。「失礼いたします」 一人の少年が控えの間に入り、容保の前に平伏した。 「して豚一、いや一橋中納言は何と」 型通りの言上を遮り、核心を求める。「『何事も上様の仰せのままに』とのことにございます」 使いの少年がおそるおそる告げたその言葉に、彼は嘆息した。 何を馬鹿なことを。死人に伺いなど立てられようはずもないではないか。「話にならん。やはり俺が直接話す。一橋はどこだ。奴の詰所か、それとも本願寺に戻ったか」 言うか早いか容保は立ち上がり、案内をせよと少年を促した。「それが、その……」 少年が言葉を濁す。「どうせ俺には会いたくないなどとごねているのだろう。あいつはいつもそうだ。会いたくないのは同感だがな」「そういうわけではないのですが……」 平伏したまま、少年は困ったように息を漏らした。 が、容保の気迫に押されたのか、しばらくして何かを決意したように顔を上げ、案内いたします、と告げた。 少年に付いて城の廊下を歩む。 贅を凝らして施された襖絵も今は目に入らない。 とにかく今は一刻も早く一橋中納言こと一橋慶喜と会談して次期将軍を決める、より正確に言えば、慶喜が征夷大将軍となることを他ならぬ彼に承諾してもらわなければならない。 時折少年を急かしながら先を急ぐ容保は、あるところではたと立ち止まった。「中将様?」 少年が振り返る。「待て。本当に……、本当にこの先に豚一がいるのか」 容保は生唾を呑み込んだ。「はい」 言葉少なに少年は答える。「たわけたことを……」 この廊下は本丸御殿の最奥、将軍の寝所へと続いている。そこは半月前に亡くなった将軍の遺骸を安置している場所。 容保は自分がじっとりと汗をかいていることに気づいた。 そう、この暑さだ。魂を失った抜け殻がどうなっているかなど、想像したくもない。「一橋様はずっと、上様に付き添うておられます」 容保の動揺を知ってか知らずか、少年が事務的に告げる。「馬鹿な」 この先に進むのを本能が拒む。 あれだけ慕い、忠義を尽くして仕えてきた上様だ。 それでも、この先にあるモノ、柩の中の様態を想像すれば恐ろしさとおぞましさに足がすくむ。 それがまともな人間の発想であろう。「引き返されますか」 少年が問うた。 これも役目と割り切っているのか、それとも彼ももはやこの先にある狂気に呑まれているのか。 感情の見えぬ声と表情で問う少年すら、どこか薄気味悪く感じた。「いや……行く。もう場所はわかるゆえ、退がってよい」 少年を置いて、容保は先を目指した。 襖を開けた瞬間、強烈な香の匂いと、それでも尚隠しきれぬ腐臭が鼻をついた。*「先触れもなしにこんなところまで来るとは偉くなったものだな」 奥に置かれた桶型の柩に寄りかかるようにして、彼は座っていた。 その口から放たれた皮肉に容保は思わず拍子抜けした。 普通だ。いつもの鬱陶しい豚一だ。 身なりもきちんと整えているらしく、いつも登城するときのように裃を着て髷を結い、髭も剃っている。 少し痩せたな、というだけが常と違うところだった。 なんだよ、と容保は呟いた。 それでもさすがに部屋の奥にまで入ってゆく勇気はなく、できるだけ襖の近く、柩から遠い場所に蹲踞する。「俺はてっきりおまえが狂ったのかと。 にしてもよくやるな」 将軍の忠臣気取りの演出にしてもやりすぎだ、と容保は吐き捨てた。これはただのタチの悪い演出だ。そう思い込みたかった。「とにかくここを出よう。話がしたい」 そう促すが、慶喜は柩の側を動こうとしない。「上様の跡継ぎの話ならば」 白く細長い指が柩の側面を愛おしげに這う。「上様の御前で話すのがいいだろう」「……わかった」 胸からせり上がってくるものを堪え、容保は頷いた。 滅多なことではここに人は近づかない。 別に今更聞かれて困るも何もあったものではないが、それでも人目を避けるべきだという慶喜の配慮だ。それだけだ、と自分に言い聞かせる。「といっても」 慶喜が容保に向き直る。「俺からは特に話すことなどない。跡継ぎは亀之助様。それが上様の御遺言なればそれに従うまで」 確かに、亡き将軍家茂は江戸を発つとき、自分にもしものことがあれば跡継ぎには亀之助をと言い置いていたらしい。 だが家茂はそのとき二十歳。病でもなかった。そして、長州征伐のための出陣とはいえ将軍自らが戦場に身を置くわけではない。こんなに早く『もしものこと』が起ころうなど、周囲の誰も、当人である家茂ですら思っていなかったに違いない。「亀之助様はまだ四歳だ。平時ならばいざ知らず、この火急の時に幼君など」 容保は言った。「だがな、上様がそう仰せなのだ」 慶喜は言う。まるでつい先程上様が柩から顔を出して慶喜に告げたのだと言わんばかりの調子で。 冷えた汗が背中を伝う。首の辺りがドクドクとうるさい。「慶喜」 名を呼ぶ。「そこから離れろ、慶喜。こちらへ来い」 呼びかけるも、慶喜は鬱陶しそうに眉をひそめるだけだ。「声が遠いならおまえが来い。なんで俺が動かねばならん」「そういうことを言っているわけではない!」 思わず叫んだ容保に慶喜は目を丸くした。が、すぐに彼が言わんとしていることを悟ったようだ。「大丈夫だ。俺は狂ってなどいない」「狂っていると自分から告げる狂人などいるものか」 容保の言葉に、尤もだと慶喜が笑う。「だが本当に、俺は狂ってるわけじゃないんだ。亀之助様を次期将軍に推すと決めたのは上様と相談した上でのこと。……ああそんな顔をするな、上様の存命中の話だ。昨日の話とかじゃあない」 嘘だ。容保は心の中で呟いた。腐乱死体の入った箱に寄りかかりながら平然と喋る人間のどこがまともなのか。 彼の思考を読んだように慶喜は言った。「まあ、この中の上様をちっとも恐ろしいなんて思えなくて、離れがたいと思ってしまうのが狂っているということなら、狂っているのかもしれないが」「頼む」 暑さのせいだろうか、それともおぞましさのせいだろうか。拭っても拭ってもきりのない気持ちの悪い汗に水気を奪われてカラカラになった喉を必死に震わせ、容保は懇願していた。 慶喜のことは嫌いだ。だが、急速に歪み崩れていくこの時代で戦う術を持つ者を他に知らない。 今、彼を連れて行かれるわけにはいかないのだ。「その柩から離れろ。こちらへ戻ってこい。頼む」 さあそこを離れて生者の世界へ、と容保が言うほどに、慶喜は頑なになった。「そっちに何があるっていうんだ」 やがて、慶喜はぽつりと言った。「何って」 おまえこそ何を言っているのだ、と容保は呆れてしまった。「何もクソもあるか。こちらへ戻って来ればおまえは将軍様だ」 言葉を尽くしても、相変わらず慶喜は腑抜けのような顔をしている。 鼻はすっかり麻痺してしまってもはや香の匂いも腐臭もわからない。 現実感のない、黄泉比良坂のようなこの空間で、慶喜の血色の薄い白い顔はなまじ整っているだけに一層不気味だった。「なぁ」 慶喜が言う。 何だ、と張りのない声で容保は返した。「やっぱり、狂ってるのは俺じゃなくておまえらのほうなんじゃないか」 そう言った後、上様はどう思われます、とでも言うように柩に視線を向けた慶喜に、容保は思わず拳を握った。 怒りは一瞬だけ恐怖を和らげてくれた。 もうこれは一発殴ったほうが話が早いのではないか。 握った拳にさらに力を込める。 そんな容保の心の動きを知ってか知らずか慶喜は続けて言った。「おまえ、まさか忘れたのか? 俺は水戸の公子だぞ」「そんな、こと」 容保は言葉を詰まらせた。 その脳裏によぎるのは、いつの頃からかまことしやかに囁かれるようになったひとつの風説だった。 曰く、水戸家から将軍を出してはならない。もしそのようなことをすれば、幕府が滅びる。 馬鹿げた話だとは思う。水戸家とて尾紀と並んで御三家のひとつであるのだし、何よりも水戸家の当主はかの有名な義公をはじめ代々江戸にあって影に日に将軍家を支えてきた『天下の副将軍』ではないか。 だが、何故か容保はその話を笑い飛ばすことができない。「水戸の公子である俺を将軍にしたいなんて、よほど幕府を滅ぼしたいと見える。狂ってる」 慶喜はくすくすと笑った。「そんな根拠のない俗説に踊らされるとは、愚かな」「根拠ならあるぞ」 容保の言に被せるように慶喜が言う。「は?」「義公だ」 慶喜はしたり顔で告げた。「水戸はずっと義公の呪いに縛られている」「……それこそ、馬鹿げた話だ。水戸の義公といえば今日まで語り継がれる名君中の名君……」「それはどうかな」 慶喜の声はあくまで冷え冷えとしている。 この真夏の密室で容保は寒気を覚えた。「義公は確かに卓越した手腕を持ち、文化にも精通していて藩の礎を築かれた立派なお方ではあったと思うが、その実あの人は徳川幕府のことなどこれっぽっちも好きじゃなかったんじゃないか、と俺は思っている。 あの人の胸の中にあったのは終生、兄である高松の英公への狂愛と京の朝廷への思慕。 だから朝廷に成り代わって幕府が世を治めることに彼は納得していなかったし、兄を四国に追いやって水戸の当主に収まった自分自身のことも嫌悪していた。 その妄執に引き摺られるように、義公以来水戸は英公の血を引く子を当主に望み、その子の妻には皇家や公家の姫を望んできた……その成れの果てが、俺だ。 だから俺に宗家の家督は継げない。 そのことは上様にも話して、やはり跡継ぎは亀之助様でと二人で決めた。 ……そうと決まれば、いい加減上様を江戸へ帰して差し上げねばな。 おまえと話してやっと踏ん切りがついた。礼を言う」 慶喜はようやく柩から離れた。そして立ち上がり、ことの差配をするために部屋を出ようとした慶喜を、容保は今度は引き止めた。「待て」 蹲踞の姿勢のまま、今まさに部屋を出て行かんとする慶喜の袴の裾を掴む。 慶喜が怪訝な顔で容保を見下ろした。「何だよせっかくやる気になったのに」「そもそも俺は、おまえに将軍宣下を受けよと言うためにここに来たのだ。この危急のときに幼主を戴くなど承服しかねる」「あのな、おまえちゃんと俺の話聞いてたか? 俺が将軍になるわけには」 呆れたようにそう言う慶喜の言葉を遮り、容保は立ち上がった。慶喜の両肩を掴む。慶喜は叱られるのを待つ子供のようなふてくされた表情で容保から目を逸らした。「『水戸の血』というなら、俺だって血統の上では水戸の子だ。俺の身体にもおまえと同じものが多少流れている」 それがどうした、と慶喜は怪訝な顔をした。「なぁ一橋よ」 敢えて、容保は慶喜のことを『一橋』と呼んだ。「俺にも水戸の血が流れている。そして会津の血は流れていない。それでも俺は会津だ。 それと同じようにおまえだってもう『一橋』ではないのか」「そんな簡単に……。いくら同じ血が流れていようと、おまえと、義公の遺訓を子守唄に育った俺とでは全然違う」「慶喜」「何だよ」 一層強い力で肩を掴まれ、嫌そうな顔で慶喜は容保を見上げた。「教えろ。東照大権現の再来とまで謳われたおまえを将軍に戴いても尚、幕府が立ち直る見込みは万に一つもないのか」 慶喜の目に逡巡が生まれた。それはある意味、生気ともいえた。 これから世界はどう動き、その波はどのようにこの国を揺らすのか。その中で幕府はどちらへ舵を切る。あらゆる場合への対処、その勝算は如何程か。慶喜は思案を巡らす。 畳み掛けるように容保は言った。「我が会津にも藩祖以来の家訓があってな。曰く、大君の義、一心大切に忠勤に存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、とな。 幕府に尽くせぬような藩主は会津では藩主として認めてもらえないみたいだ。 だから俺にはもうどこにも、他の道などない」「じゃあ俺が将軍になれば」 慶喜は笑った。「容保、おまえは俺のために死ぬのか」 濃密な死の臭いが立ち込めるこの部屋で、死という言葉は羽のように軽くふわりと舞って辺りへ溶けていった。「おまえと一蓮托生になってしまうな。残念ながら」 容保がそう言って笑えば、なるほどそれは実に残念だと慶喜も笑みを深くする。 その瞳が一瞬、冷めた光を放った。 そのとき容保は気づいた。いつの間にか自分もこの部屋の狂気に呑まれていたのだと。家茂「なんか面白そうな話してたから加わりたいけどわし死んでてワロス」 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword