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水月庵

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雪のよるに

時刻は子の刻を過ぎ、まもなく丑の刻に差し掛かろうかというあたり。
 雪の降る寒い夜。
 門の方から微かに聞こえる話し声に、俺は目を覚ました。何を言っているのかはわからないが、声の主は若い女、恐らく我が邸の采女の声で、何やら困惑しているらしいことはわかった。
 俺は寝台から出て、解いた髪に上着を引っ掛けただけという格好で門を目指した。
 近づくにつれ、声の内容が少しずつ鮮明になってくる。
 采女の口から聞こえた『親王さま』という言葉に、自ずと早足になる。
 こんな時間に俺を訪ねてくる『親王さま』なんて、一人しかいない。






「舎人さま!」
 馬から降り、手綱を持った姿で立つその人に、俺は呼びかけた。彼は殿上するときの服装のままだ。こんな時間まで仕事をしていたのか。
「新田部。こんな薄着で外に出たら風邪引くぞ」
 舎人さまはそう言って、自分とそう変わらない高さにある俺の頬を撫でた。この寒い夜に馬を駆っていた舎人さまの手はびっくりするくらい冷たい。
「ごめん。逆効果だな」
 苦笑して、舎人さまはすぐに手を引っ込めた。
「とにかく、中へ」
 舎人さまを邸の中へと誘う。
 
 部屋に入るなり、舎人さまは佩いていた太刀を外し、冠を取り、深紫の袍の衿を緩めた。そして火鉢を引き寄せて、かじかんだ手を握ったり広げたりしながら温めている。
「酒でも用意させますか」
 舎人さまが無造作に脱ぎ散らかした太刀や冠を片付けながら訊ねると、舎人さまは首を横に振った。
「いや、夜明け前には宮中に戻るから。白湯をくれ」
「夜明け前って……」
 俺は言葉を詰まらせた。

 つい最近、舎人さまに日本紀の編纂の大命が下った。
 太安万侶を中心に既に編纂が進められている古事記が大和言葉で書かれた国内向けの歴史書ならば、この度編纂が始まる日本紀は漢文で綴られた対外向けのもの。
 外つ国に向けて堂々と我が国の格を示す。その要となる歴史書の編纂の指揮を執るのは、確かにとても名誉なことではある。
 けれど、ずっとこんな働き方をしていたらいつか彼が倒れてしまうのではないか。
 俺はそれだけが心配だ。

 ややあって、采女が白湯を持ってきた。舎人さまがそれをありがとうと言って受け取り、ゆっくりと一口飲む。
「生き返る……」
 柔らかい表情で呟く舎人さま。やっぱり、少し痩せてしまった気がする。
「舎人さま、最近ちゃんとご飯食べてますか」
 俺が訊くと、舎人さまはうーん、と首を捻る。
「食べてる、とは思う。
 仕事の合間につまむくらいだけど」
「駄目ですよちゃんと食べないと……」
 まるで過保護な母親のように言い募る俺の言葉を遮るように、舎人さまは、それよりも、と言った。
 俺の隣に座ったかと思うと、ごろんと上体を倒して、胡坐をかいている俺の膝に頭を乗せてくる。
 采女は、心得たと言わんばかりに俺に目配せをして、姿を消した。
 
「新田部」
 二人きりになった室内で、舎人さまが俺の名前を呼ぶ。安心しきったような、とろんとした声音。そんな声で名前を呼ばれたら俺はもうどうしていいかわからなくなる。
「少しだけ、甘えてもいいか」
 舎人さまの声に頷く代わりに、俺は彼の髪を撫でた。
 舎人さまが気持ち良さそうに目を閉じる。
 国の中枢に君臨する高貴な親王殿下の無防備な顔。
 派手さはないが、いつ見てもすっきりと整った端正な顔立ちだ。
 俺も一応舎人さまと父を同じくする兄弟だし、親王ではあるけれど、淡海帝の皇女を母に持つこの人は俺なんかよりよっぽど高貴な血をひいている。
 誰よりも高貴で誰よりも有能なこの人がこんな無防備な姿を見せるのは、俺に対してだけだったらいいのに。

「足疲れてきたら適当に放り出してくれていいからな」
 眠り際の、若干呂律が回っていない口調で舎人さまが言う。程なくして、寝息が聞こえてきた。
 充分な休息をと考えるなら絶対に寝台で寝てもらったほうがいい。
 けれど、折角眠り始めたところを起こすのが忍びなくて……、いや、違うな。
 膝に感じる愛しい重みを手放したくなくて、俺は彼を起こすのをやめた。
「舎人さま、好きです」
 考えるより先にぽろっとこぼれたこの言葉を、舎人さまは聞いていただろうか。

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