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水月庵

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神は嘉するか

また軽率に時代を広げてしまった……

 はじめてあの方とお会いしたのは、藤原雄田麻呂様のところへ帰京の挨拶に伺った折だった。
「清麻呂どの、いろいろとご苦労だったな」
 私に向かい側の席を勧めながら、雄田麻呂様はその秀麗な顔に柔らかな笑みを浮かべた。
「雄田麻呂様こそ。配流中にあなた様からいただいたご厚情にどれほど救われたことか」
 一礼して雄田麻呂様の向かい側に腰を下ろし、私は言った。
 この言葉はもちろん雄田麻呂様に向けたもので、心の底からのもの。
 だが、恩人に感謝を述べるという大事な場面であるにもかかわらず、私の目は恩人ではなくその隣に侍っている男に向いていた。






 そう。まさに妾のごとく『侍っている』のだ。
 まるで皇族が御召しになるような豪奢な装束をしどけなく着崩した彼は、雄田麻呂様が凭れておられるのと同じ脇息に手を置き、身体を心持ち雄田麻呂様のほうへ向けている。
 まあ、珍しいことではない。
 雄田麻呂様にそちらの趣味があったところで、別にそれだけで軽蔑したりはしない。
 見たところ、そういう相手としては些かとうが立っているのではと思ったが、彼はそれを補って余りあるほど美しかった。
 ただ、まだ日も高いうちから、しかも一応客人という立場の私の前でまで傍に置くのはやめていただきたかったかな、と思う。

 彼が私に視線を流す。どこか大陸の匂いを感じさせる切れ長の目に射られて、私は気まずげに視線を落とした。
 そんな我々の様子を知ってか知らずか、雄田麻呂様は大隅国での暮らしはさぞ辛かったろうと気遣わしげな声音で仰る。
「いえ、それがそうでもなかったのですよ。大隅国は気候が温暖で意外と過ごしやすかったのです。
 それに、自分で言うのも何ですが、何といっても私は怪僧から皇統を守った英雄ですからね。皆良くしてくれました。
 ただ……」
 私はそこで言葉を切った。
「ただ?」
 雄田麻呂様が身を乗り出す。
 私は、いかにも辛くて辛くて仕方がなかったのです、というように大げさに肩をすくめた。

「朗らかな声で一日に何度も何度も穢麻呂様と呼ばれる度に死にたくなりました」

 狙った通り、雄田麻呂様は盛大に噴き出してくださった。堪えきれないといったふうに目尻に浮かんだ涙をぬぐっておられる。
 例の美人も面白いと思ってくれたようだ。緩く握った拳を口許にやり、涼しげなつり目を細め、薄い唇を歪めて笑う。
 毒々しいまでの艶を含んだその笑みに私の目はまたしても釘付けになった。

 ややあって、侍女達が酒や肴を乗せた膳を捧げ持って入ってきた。
 私と雄田麻呂様達の間に朱塗りの膳が置かれる。その上には玻璃製の酒器に、これまた玻璃製の杯が二つ。また他の膳には高杯が乗っており、そこには珍味が盛られている。
 それらを並べると、侍女達は素っ気なく去っていった。
 酒と肴が並んだのを確認すると、雄田麻呂様は傍らの美人に目配せした。こくりと頷き、彼が酒器を手に立ち上がる。立つと意外と上背があった。
 彼はそのまま私の隣へやって来て長い裾を器用に捌いて腰を下ろすと、杯を、と私を促した。甘くかすれたその声に操られるように、私は、外からの光を受けて宝玉のごとくきらめく杯に手を伸ばした。
 私の杯へ、彼が静かに酒を注ぐ。
 酒器を傾ける長い指。青い静脈が走る手の甲。しどけなく開いた衿からのぞくくっきりとした鎖骨。程よく鍛えられた胸板。
 上から覗き込むような格好になってしまっている今、さらに奥まで見ようと思えば見えそうだ。
 ただの同性の肌。
 それはわかっているのだが、何せこの肌はおそらく男を知っているそれなのだ。
 彼を凝視している私が滑稽に見えたのだろう。彼はくすくす笑いながら御酒をどうぞと言った。
 私は、断じて男に興味などない。百歩譲って彼に魅入られたのだとしても、この美人は恩人の想い人ではないか。どうすることもできない。
 内心の同様を隠すように、私は注がれた酒を一気に飲み干した。

「それはそうと清麻呂どの」
 雄田麻呂様の声にハッと顔を上げた。見れば、苦虫を噛み潰したような顔で私達を見ておられる。
 いけない、機嫌を損ねてしまわれたのだろうか。いやしかし、そもそも彼に酌をさせたのは雄田麻呂様のほうではないか。
 釈然としないものを抱えつつ、私は謝罪の言葉を探した。
 だが、続く雄田麻呂様の言葉は予想とは違うものだった。
「少しこの方に対して無礼が過ぎるのではないか?」

「……は?」
 恐らく間抜け面を晒しているであろう私の顔を見て、美人がまた笑う。
「あの……あなたは、一体……?」
 誰なのですか、という私の問いに答えたのは雄田麻呂様だった。
「今上帝が第一皇子、山部親王殿下であらせられる。清麻呂どの、叩頭されよ」
 低いがよく通る美声。真面目腐った口調の割に、雄田麻呂様は先程の表情から一変して明らかに笑いをこらえている。
 さては。
「……担ぎましたね? お二人で、私を」

「さて何のことやら」
 彼、否、親王殿下はそう言って、先程までの定位置、即ち雄田麻呂様のもとへ戻っていった。
 膳の上にひとつ残っていた杯を雄田麻呂様が持つ。そこに山部親王が酒を注ぐ。雄田麻呂様がそれを飲み干すと、今度はその杯を親王が持ち、雄田麻呂様が酒を注ぐ。親王が飲む。
 まあ要するに、彼らは私の間抜け面を肴にして酒を回し飲みしているのである。
 気分の良いものではなかったが、私などが雄田麻呂様と親王殿下に物申すことなどできるはずもなく。
 愛想笑いを浮かべて、私はその場に座っていた。

 もう何度目になるか。親王が酒器を持ち上げた。が、すぐに首を傾げる。酒器を軽く振る。
「……酒が切れたな」
 誰にともなく呟くと、親王は空になった酒器を手に軽やかな動きで立ち上がった。
「そのようなことは、私が」
 立ち上がりかける私を、親王はやんわりと肩を押して制した。
「いい。それより、おまえは雄田麻呂とつもる話もあるだろう」
 親王はそう言って私の肩を軽くポンポンと叩くと、薫香を残して部屋を去っていった。

「清麻呂どの」
 空の杯を手持ち無沙汰に弄びつつ、雄田麻呂様が低い声で私の名を呼ぶ。
「いかがなさいました」
 気安く呼ばないでいただきたい。私は怒っているのだ。
「あの方を……山部様をどう思う」
「どう、とは」
 結局素直に相槌を打ってしまった。
 私の内心の葛藤など知らぬ気に雄田麻呂様は話を続ける。
「そなたにかつて道鏡即位を阻むよう託宣を授けた神様とやらはあの方を嘉すると思うか」
 その言葉に、思わず私は姿勢を正した。

 山部親王。私が都にいた頃は単に山部王と呼ばれていたお方。
 臣下としての栄達すら困難な立ち位置で、忘れ去られた皇族として生きていくことしかできなかったはずの方。
 だが。雄田麻呂様は、あの方を帝にするとでも仰るのか。
 確かに、雄田麻呂様の尽力であの方の父君は帝になられ、彼自身は親王の位を得た。
 だが、それでも尚、所詮庶子に過ぎぬ彼は皇位とはほど遠い位置にいると言わざるを得ない。
 そんな彼の登極を望むなど、途方もない夢物語に思えた。

「まあそう固くなるな。酒の席での戯れ言だ。……それより」
 くくっと雄田麻呂様が笑う。
「清麻呂どのはどうやら山部様を相当気に入ったようだ」
「なっ……!」
 明らかに酒のせいではない熱さで顔が赤く染まるのを感じた。
「気に入ったのなら……」
 尚も雄田麻呂様が言う。
「仮にも親王殿下に対して私が気に入るの気に入らぬと、そのようなこと……」

「貸してやろうか」
 しどろもどろの私の言い訳など耳に入らぬとばかりに、意地の悪い笑みを浮かべながら雄田麻呂様は言った。
「何を。何を、仰っているのですか。親王殿下を、そのような、まるで……物のように」
 雄田麻呂様は笑みを深くした。
「そう。あれは俺のものだ。
 だがそなたになら貸してやっても良いと思ってな」
「いくら酒が入っているとはいえ、冗談が過ぎます」
 もう帰りますからね、と言って、私は立ち上がった。
 親王が戻ってくる前に、ここを辞そう。
 この方々の冗談に付き合っていては私までおかしくなりそうだ。
 例の託宣の時にすら感じたことのない胸のざわめきを抑えつつ、私はくるりと踵を返した。

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