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水月庵

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清澄

「……見せもんじゃねえぞ」
 浅い眠りから覚め、俺の姿を認めるなり父はそう言った。
「これは異なことを」
 心外である。
 確かに俺にはほんの少しだけ、生き物の苦しむ様や変わり果ててゆく様を見ると嬉しくなってしまう傾向があるが、対象が実の父親とあっては話は違う。
 父親の苦しみを喜びとするほど終わっちゃいない。






「でも、悪態を吐く元気があるのならば安心だ」
 寝台の脇に置かれた椅子に腰掛け、俺がそう言うと、父は唇の端を少しつり上げた。その拍子に、頬に出来た膿疱が弾けて膿がしたたる。
 しかし父はもう慣れてしまったのか、それとももはや痛みすら感じられないのか、それには知らぬ顔だ。
 失礼いたします、と声をかけ、他の膿疱を潰さないよう細心の注意を払いながら、湿らせた柔らかい布でそっと膿を拭う。
「山背は」
 言葉少なに父は俺に問うた。
 屋敷中に響く坊主達の読経の声に、ともすればかき消されてしまうようなか細い声。
「ご退出いただきました。随分と泣かれましたが」
 わたくしは舎人様の妻です! どうか、どうかお側に……!
 そう言ってはらはらと涙をこぼした若い女の姿を思い起こした。
「そうか。あれは泣いたか」
 そう言う父は少し嬉しそうだ。
 還暦を迎えた爺さんだというのに若い女にそこまで惚れ抜かれ、おまけに子まで産んでもらったのだからまったくもって羨ましい。

「船」
 父が俺の名を呼んだ。
「はい」
 父の手を握る。その手も既に醜い膿疱に蝕まれていた。
「大炊を……大炊と山背を……」
 ひゅうひゅうと風の抜けるような音を立てながら、苦しい息の下で父は必死に言葉を紡ぐ。
「大炊と山背を守ってやってくれ」
 俺の手を握り返しながら父は幼い末っ子と若い妻を気にかける父。
 その姿には流石の俺も目の奥が熱くなった。

 お約束いたします。
 そう言おうと思って俺が口を開きかけたとき。
 せっかく出来上がった空気を打ち壊すかのように父は出し抜けに笑った。
「やっぱり老いぼれてから子供なんて作るもんじゃないな。まさかこの俺がしょぼくれたジジイみたいなことを言うなんて」
 こんなときでも、やはり父は父だった。
 誰よりも高貴な血筋に生まれ、風雅を愛し、楽しいことが大好きで、豪快で、権力争いなどくだらないと扱き下ろし。
 老いて尚、いやより一層、刻まれる皺やシミさえも魅力に変えて輝いていた。
 その美貌も、全身を豌豆瘡に冒されてもはや見る影もない。
 だがそれでも、やはりいい男だなと思った。

 今日の父はよく喋る。
 ここ数日は呼吸すら苦しそうだったというのに。
 回復の兆しだと、能天気にそう思うことができたらどんなに良いか。
 やがて父は目を閉じた。
 眠ったのか、それとも気を失ったのか。
 病魔退散のための読経の声が一層激しさを増した気がした。
 鼻をつく薬湯の匂いと読経の声。時折上がる、喘ぐような呼吸音。
 もはや我らにできることは何もない。
 まんじりともせず、俺は死にかけの老人を見守っていた。

 やがて、痩せ細った父の手がすっと空をかいた。
 俺は動かなかった。
 何となく分かっていたからだ。
 そして俺はそのとき、確かに見たのだ。

 何もない空間に向かって差し出された父の手を、何処からともなく現れた小麦色の手が包み込んだ。
 剣だこが目立つ武人の手。
 豊かな栗色の髪を後頭部でまとめ、武官の正装に身を包んだ青年が父の手をとって笑っていた。
「遅いですよ、舎人様。ひと月半も俺を放っておくなんて」
 精悍な体つきに似合わずなかなか可愛い顔をした青年の口から発せられた声は、俺が聞き覚えのあるそれよりも幾分若々しく愛嬌がある。
「悪かった。でも俺もおまえに会いたかったんだぞ」
 応える父の声も、若い頃のものだ。
 青年に引っ張られるように父は寝台から身を起こした。ように見えた。

 ふわりと起き上がった父の身体はもう、豌豆瘡に冒された病身ではなかった。
 深紫の袍からのぞく手は膿疱どころかシミひとつ無く、瑞々しく輝いて。絹糸のような黒髪をさらりと風に揺らし、濃い睫毛に縁取られた切れ長の目を細めて父は、舎人親王は笑った。
「会いたかった。会いたかったぞ、新田部」
 そう言ってしっかりと青年を抱きとめた父の胸の中ではもう俺も、そしてあんなに気にかけていた当麻山背姫も大炊も、すっかり小さな存在になってしまっているのだろう。

 本当に、最期の最期まで自由な人だ。

 ずっと見ているのも何だか悪い気がして、俺は病室を後にした。
 舎人様は、父上は、と必死な顔で追いすがってくる山背姫や弟達に一言、旅に出られた、とだけ伝え、扉を開け放して庭に出る。
 眩しい陽の光が目に刺さった。

 雲ひとつない、透明な冬の晴天。
 部屋内に立ち込める常闇の雰囲気が嘘のようだ。
 ああ良かった、本当に良かったと俺は息をついた。
 あの人の旅立ちには、このような冬晴れこそ相応しい。

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