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水月庵

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机上の空論

長屋王の変の話。

 左大臣として栄華の絶頂にいたはずの私は、左道でもって皇太子を呪い殺し国家転覆を図ったなどという馬鹿げた容疑で朝廷の窮問を受けることになった。要するに、私は藤原の者共との権力争いに負けたのである。
 その事実を頭では分かっているのだがどうにも理解が追いつかず、我が邸が兵士に取り囲まれる様をまるで夢の中の出来事のように見ていた。
 だが、窮問使達を率いてあの男が姿を見せた瞬間、それは突如として現実味を帯びて私の胸に迫った。

 一品知太政官事、舎人親王。
 私が侮り、妬み、敬した男。






 彼が優雅な身のこなしで私の前に腰を下ろすと、他の窮問使達もそれに倣った。彼の左隣に座した新田部親王は私の顔を見るなり気まずげに目を逸らした。だが、舎人親王は涼しい顔でじっと私を見ている。なんと面の皮の厚い。侮蔑の目でその端正な顔を睨みつける。それでも彼は表情を変えなかった。
 舎人親王が新田部親王とは反対側の隣に座す男に視線を流した。
「武智麻呂」
 彼がその男ーーこの馬鹿げた筋書きを書いた張本人の名を呼ぶ。その声に促されるように、男は私の『罪状』を滔々と語り出した。曰く、基皇太子を呪い殺した。曰く、左大臣長屋王は帝と皇太子を亡き者とし、己がそれに取って代わろうとしたものである。曰く、その証拠は密告者によって既にこちらの手の内にある。
「何か、申し開きはございますかな」
 加虐者の笑みを浮かべて武智麻呂は言った。
「おまえに言うことなど何もない」
 すげなくそう言ってやれば、武智麻呂は顔を歪めて舌打ちをした。

 意図した通りに窮問が進まず、奴は明らかに苛立っていた。それを宥めるように、舎人親王が口を開いた。
「武智麻呂。少しだけ私と長屋に時間をくれないか」
「それは我々を遠ざけて二人きりで話がしたいということでしょうか」
「そうだ」
 武智麻呂が困惑の表情を浮かべる。
「舎人様、貴方まさか此の期に及んで左大臣を逃がすおつもりではないでしょうな」
 武智麻呂の言葉を、舎人親王は一笑に付した。
「今更私にそんなことができると思うのか? 常識で考えろ」
 それでも尚武智麻呂は渋っていた。が、舎人親王を挟んで奴とは反対側に座していた新田部親王が躊躇いなく席を立つそぶりを見せると、流石に親王二人の意向に逆らうことはまずいと思ったのか、ようやく腰を上げた。

「下手を打ちやがったな」
 窮問使が全員部屋を出て行ったのを確認すると、苦々しい声で彼は言った。皇家の長老としての仮面をかなぐり捨てた素の彼。軽蔑の対象であれ敬愛の対象であれ、いずれにしろ長年慣れ親しんだ『舎人様』がそこにいた。
「そういう貴方は上手くやりましたね。誇りを捨てて藤原の犬に成り下がった気分は如何ですか?」
 私の言葉に、舎人様は唇を歪めて最高だ、と笑った。

「舎人様」
 つまらぬ繰り言を、と自分でも思うが、それでもどうしても彼に問わずにはいられない。
「どうして貴方は藤原氏を選んだのです。皇族の中の皇族であらせられる貴方がどうして」
 それに対する舎人様の答えは実にあっさりしたものだった。
「あいつらは役に立つからだ。この国にとって」
「役に立つ? 皇家を蔑ろにして実権を奪おうとするあの氏族が?」
 嘆かわしい、と吐き捨てるように私は言った。
「私は皇家の代表たらんと身を粉にして働いてきた。その努力を認めていただいて妻として吉備内親王を与えられ、ついには左大臣の位に上った。だが」
 私の繰り言を、舎人様はただ静かに聞いていた。年相応に刻まれた皺に縁取られた切れ長の目からは、彼の感情は何も見えてこなかった。
 私は続けた。
「だが……、私の前にはいつも貴方がいた。
 私が左大臣に上り詰めても貴方はその先で、知太政官事という地位で、あくまで自分は名誉職だと笑いながら涼しい顔で実権を握っていた。
 何故です? 何故私は貴方に勝てない? 貴方が遊興に耽り、女色に溺れている間も私は……!
 親王とはそれ程に重いものなのですか。二世王がどれほど努力しても敵わぬ程に」

 舎人様はふっと笑った。
 どこか寂しげで、自嘲的な笑み。
「親王など、別に偉くもなんともないさ。現に俺は、氷高を妻にしてやることすらできなかった」
 彼の言葉に、私は遠き日を思い返した。
 あれは、まだ私が吉備と結ばれる前の話だ。
 氷高内親王。吉備の姉であり、独身のまま帝位に即いた美貌の女帝。帝位を退いた今は太上天皇と呼ばれるその人と、舎人様はかつて誰の目から見ても明らかなほど互いに想い合っていた。
 いずれは舎人様が氷高様を娶り、彼が帝に、彼女が皇后になるのだと、私はそう思っていた。
 だが、二人はその道を選ばなかった。
 何としても己の血を継いだ皇子を登極させたかった藤原氏との対決を避けたかったからだろう。
 納得がいかぬと、ちょうど今のようにあの日も舎人様に食ってかかったものだ。
 そんなに藤原氏が怖いのか、私は決して貴方のようにはならない、私が貴方なら愛する女を何物からも守ってみせる、と。
 そのときも、舎人様はただ笑うだけだった。

「今からでも良いではありませんか」
 私は言った。
 きっと私は明日まで生きてはいない。
 その事実が私を狂わせている。
「この死地を二人で切り抜けて、太上天皇の元へ参りましょう。
 藤原の息のかかった帝を廃し、彼女に重祚していただく……いや、いっそ貴方が即位すればいい。
 彼女を皇后にして」
 舎人様は笑った。心持ち上を向いて高らかに笑う。
 年を重ねても尚張りと威厳を失わぬ低い声が部屋に響いた。
「随分と面白いことを言う」
 言うまでもないこととは思うが、と前置きをしつつ、舎人様が言った。
「今や殆どの氏族が藤原氏に従い、阿っている。それらの氏族も軒並み去った中で、残るは老いさらばえて今更子孫を残すことも能わぬ帝と皇后、そしてただ一人の臣下。
 誰にも敬されず、誰にも守られず、三人で朽ちていくのか。
 なんとまあ、それは……」
 舎人様が目を細めた。そして、皮肉げに言った。
「涙が出るほど、素敵な話だ」

 目の前の彼から視線を外し、私は彼が語った絵図に想いを馳せた。
 誰一人従う者のおらぬ忘れ去られた宮殿。
 朱の剥げかけた柱を見やりながら、朝服に身を包んだ私は大極殿を目指す。
 大極殿の前庭に出て、高御座に向かって拝礼していると、程なくしてそこに座す帝から声がかかる。
 面を上げよ、という低い声に促されて顔を上げると、黄櫨染の衣を身に纏った老帝が穏やかに微笑んでいる。その傍らには、かつてはその美貌に並ぶ者なしと謳われた、けれども今は年老いた皇后。

 全ては、夢物語だ。

「一品知太政官事、舎人親王殿下」
 静かに呼びかけた。
 何だ、と舎人様も静かに応える。
「初めて位を賜ってからこの二十五年、ずっと貴方を追いかけておりました。
 恐らく私は貴方を尊敬していたのだと思います。
 どうぞこれからも貴方は皇家の長老として……」
 私が言い終える前に、その言葉を遮るようにして舎人様が言った。
「そういうことは二十五年前に言え……」
 その声は震えていた。舎人様が天井を仰いだ。弾力を失った肌に涙が一筋伝い、彼の握った手の甲に落ちる。
「もっと早く言ってくれたら、俺は……」
 舎人様の声が途中で消えた。
 私はその言葉の続きを待った。
 だが、いくら待てども、品良く整えられた口髭の下のその唇が叙情的な言葉を発することはなかった。

 衣擦れの音とともに、親王が立ち上がる。
「そなたの処分については追って沙汰する故、そこでしばし待て」
 感情の見えない声で彼が告げる。
 その言葉に諾と答えながら、恐らくはもうあと一度しか見られぬであろうその顔を私は真っ直ぐに見つめた。

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