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水月庵

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月の夜 3

表向きは平穏な日々を数年過ごした後、時の大王、白香様が崩御された。白香様は、我々の父を殺した幼武大王の息子だ。だが同時に、我々を見いだしてくれた恩人でもあり、何より彼自身、幼武大王に滅ぼされた氏族の娘を母に持つ身である。妻も持たず、子も持たず、粛々とひたすらに政務を執られていた白香様。度々お話しする機会はあったものの、実際彼がどういう人だったのか、その心のうちは最後まで私にはわからなかった。だが、幼武大王のように派手な実績はなくとも彼は立派な大王だった。私は王子として、心からの敬意とともに恩人を見送った。
 白香大王の殯宮で、私は久しぶりに弘計と向き合った。喪に服すため私と同様白一色の衣に身を包んだ弟は、どこか神さびて見えた。






「兄さん、話って?」
 弟が切り出した。
「ああ。殯の最中にこんな話をするのは不敬かもしれないが、その、次代の大王のことだ」
 私の言葉に、弟は目を丸くした。
「そんなの決まってる。次代は日嗣王子(ひつぎのみこ)である兄さんだろ」
 そう。私はただ兄であるというだけで、日嗣王子の位に納まっている。けれど、それは本当に正しいことだろうか。私はこれまで悩んできた胸の内を弟に打ち明けた。
「だが、命を賭して身分を明かしたのは弘計、おまえだろう。言うなれば私は、そのおまけで王族に返り咲いたに過ぎない」
「それで?」
 やや高慢とも取れる態度で、弟は先を促した。
「だから私は、おまえこそ大王の位を継ぐべきだと思う」
「だけど長幼の序は重んじられるべきだ。兄を差し置いて弟が大王になるなんて馬鹿げてる」
 弟の言うことは尤もである。それでも、私は食い下がった。
「それを押しても、大王にはおまえがなるべきだ」
 たった一人の愛しい弟、弘計。私はどうしても、彼が至尊の冠を戴く姿が見たかった。弟はしばらく、無言のままじっと私を見ていた。答えを聞くのが、何故か怖い。
 やがて、弟は私の言葉を鼻で笑った。声が次第に大きくなる。弟は額に手を当てて笑い続けた。静粛に死者を悼むべき殯宮に響く場違いな笑い声を、私は身じろぎもせず聞いていた。気がふれたように笑う喪服の青年。ああ、あのときの彼だ、と思った。何も持たぬ無力な少年の身でありながら、忍海部を、播磨国司を圧倒したあの少年の、毒々しいまでの艶が今度は私を支配する。覚えず、身体が震えた。それは畏怖によるものなのか、それとも……。その先は考えたくなかった。
「兄さん」
 笑い声から一転、弟は静かな声で私を呼んだ。殯宮に静寂が戻る。腐臭を隠すために焚かれた香が息苦しい。
 弟は言った。
「あのとき、見てただろ」
「あのとき……?」
 何のことだと、とぼけようとした。だが、弟はそれを許さなかった。
「あの満月の夜、あいつに抱かれる俺を見てただろ?」
「それは……」
「とぼけたって無駄だ。大好きな兄さんの気配を、俺が間違えるはずがない。
 ……なあ兄さん」
 弟は姿勢を崩して、私ににじり寄った。そして、耳元に囁く。
「あの男だけだと、思うか?」
 耳から入り込んで直接脳を揺さぶるような甘い声に、そしてその言葉の禍々しさに、肌が粟立つ。
「兄さんを鞭打った使用人頭や、何かと俺達を目の敵にして辛く当たってきた忍海部の妻。皆、俺がちょっと甘い顔をしてやれば、手のひらを返して優しくなった。
 俺がいないと夜も日も明けないんだと。
 ああ、中には自分だけは特別だなんて思ってる奴もいたっけ。
 男も女も、人間なんて浅はかだよな」
「やめろ!」
 汚らわしいことを言うな、と、私はたまらず弟を突き飛ばした。
「汚らわしい……?」
 突き飛ばされて床に手をつきながら、弟は唸るように低い声で言った。私は自分の失言に気づいたが、もう遅かった。弘計は体勢を立て直し、私の胸ぐらを掴む。
「ああそうだ俺は汚れてる! 腐りきったあいつらの薄汚い欲でな!
 兄さんだって王族なら知ってるだろ。大王は生ける神だ。
 わかるだろう?
 そんなものに今更俺がなれるわけがないことくらい。
 俺はもう神にはなれない! 汚れきったこの身体にもう神は宿らない……」
 私が知っている限り、弟はいつも笑っていた。それが私に向けられる無邪気な笑みであれ、己を慰み者にした人間への冷笑であれ。だが今弟は、声を荒げながら、私を揺さぶりながら、泣いていた。
「でもそれでも良かったんだ。俺は薄汚い男娼でいい。それでも、兄さんを守りたかった」
 胸ぐらを掴む手は力を失い、そのまま弟は私の肩に顔を埋めた。微かな嗚咽が聞こえる。随分久しぶりに思える、その愛しいぬくもり。私は弘計の背中に腕を回した。安心したように、彼の身体から力が抜ける。
 弘計よ、不甲斐ない兄ですまない。逃避行の夜に誓ったのに、私は結局おまえを守ってやることはできなかったんだな。おまえはずっと私を守ってくれたのに。
 このまま彼の言う通り、私が大王になればそれが一番いいのだろう。けれどそれは実際のところ不可能に近い。臣下共の中には、未だ私達の出自に疑念を持つものもいる。口惜しいことだが、私には彼らをねじ伏せられるだけの能力がない。それができるのは……有無を言わさぬ力で文武百官を従えることができるのは、そう、この弘計王しかいないのだ。

 白香大王の喪が明けても、弘計の心は決まらず、大王の位は空白のままとなった。その間は飯豊様が女の身でありながら称制という形で政務を執った。そしてその彼女も亡くなり、いよいよその喪が明けるという段になって、ようやく弘計は首を縦に振った。
 即位式の日、美々しく着飾った弘計の下へ、一人の臣が進み出る。
「日嗣王子である億計王様はその聖徳を以てあなた様に王位を譲りました。陛下、これは天命であります」
 臣下は事前に決められた通り、弘計の前に額付いて言葉を述べる。
「どうかその御心を受け入れ、大業を受け継がれませ。
 この国の主となり、祖先の遺志を継ぎ、上へは天の心に奉じ、下へは民草を慈しまれますよう」
 この大役に些か緊張気味の臣下に、弘計は眩い金冠を揺らして笑った。そして、一言。
「では、そのように」
 今この瞬間に、弘計は生ける神となった。
 居並ぶ百官が一斉に新大王にひれ伏す。
「して、皆の者」
 玉座に座り、百官を見下ろしながら、弘計大王が言う。
「大王として、朕は先ず后を立てたいと思う」
 百官がざわめいた。弘計には未だ妻はいない。后には王族の姫がなるのが習わしであるが、先代の大王には子がなく、先々代の大王の娘である春日はすでに私の妻である。弘計が望むならば春日を差し出すこともやぶさかではないが、彼はそんなことはするまい。では一体誰を。皆が静まるのを待ってから、弘計は一人の名を告げた。
「難波小野王、これへ」
 その名を聞いた後の騒ぎといったら、それはもう先程の比ではなかった。何をとち狂ったことを。百官は皆そう叫びたかったに違いない。何より、指名された本人が驚愕の表情を浮かべて自分の顔を指差している。
「畏れながら大王、難波小野王様は男子にございます」
 先程口上を述べた臣下が、震える声で進言する。言わずもがなである。正装に身を包んだ臣下が決まりきったことを真面目腐った顔で述べる姿は実に滑稽。まるで喜劇だ。
「荒唐無稽なことを言っているのはわかっている。だが」
 弘計は一旦言葉を切り、下座へ目をやった。その視線の先にいるのは小野王ただ一人。弟は、とても優しい目をしていた。愛しい者を見つめるとき、彼はこんな顔をするのか。知らず、胸が痛んだ。
「我々兄弟が御位を譲り合って皆に苦労をかけたことは周知のことであろう。
 早く決心をと思いながらも朕は、いや俺はどうしても自分に大王の資格があるとは思えなかった。
 汚れに塗れて生きてきた俺を、天が嘉するはずがないと」
 大王としての気取った物言いを捨てて、弘計は静かに語る。
「だが小野は言ってくれた。そんなに難しく考えることはない、もし天が俺を許さなければ、そのときは一緒に……と」
 大王でもなく、神でもなく、私の弟でもなく。そこにいたのは、愛しい人に切々と愛を語る一人の男だった。
「小野、おまえは言ったな。俺を支えると。だったら、どうか俺の一番近いところにいてくれ」
 小野王の顔が紅に染まる。頷きかけて、けれども彼は結局首を横に振った。
「あなたを愛しています。だからこそ、天の理には背けない」
 どうか后にはあなたに相応しい姫をと苦渋の表情で言い募る小野王に、弘計はあっさりと言った。
「なら、大王の地位など捨てる」
 顔色を失くす百官などどこ吹く風で、弘計は笑う。
「大王でも王子でもないただの男の恋人になら、なってくれるだろ?」
 弘計の言葉に一瞬虚をつかれたように固まったものの、小野王は、それならもちろん、と頷いた。
 色めき出す百官に、私は脱力しながら言った。小野王の立后を認めようではないかと。
「日嗣王子まで何を仰せられます!」
 そうは言っても、仕方がないではないか。他でもない大王が彼を望んだのだ。弘計が即位を受け入れたのは、私の千の言葉ではなく、彼の一言があったからなのだから。この場で最も滑稽なのは私だ。愛しい弟が流転の果てに選んだのはこの、特に教養があるとも思えぬ酒乱の男だった。命に代えても守ると誓った弟を、私は苦しめることしか出来なかったのに、この男はたった一言で弘計を救い、至高の地位へ導いた。
 結局、百官も折れた。
「新しき后に叩頭せよ!」
 小野王を隣に立たせ、意気揚々と弘計は言った。

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