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水月庵

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妄想系男子の初夜未遂

「なかなか良いお家じゃない」
 新しい邸を一通り見回った母、五百重娘(いおえのいらつめ)がはしゃいだ声を上げる。
 俺、新田部親王はこの度目出たく加冠の儀を済ませ、大人の仲間入りをした。それに伴って住み慣れた大原の邸を離れ、新しい邸を構えた。
 そして今日、母と弟の麻呂を招いて邸のお披露目会をしているわけである。
 母は少女のようにはしゃぎながら、邸中のあらゆる部屋を開けて回っている。
 麻呂はといえば、高速ハイハイで真新しい邸を這い回り、隙あらば壁に落書きをしようとする。
 勘弁してくれ。
 墨は取れないんだ。

「新田部の成長は嬉しいけど、でもちょっと寂しくなるわね」
 ようやく居間に腰を落ち着けた母が少しだけしんみりとした口調で言う。
「いやいや、あれがいりゃ寂しくないでしょ」
 俺がそう言って顎で麻呂を指し示すと、母はふふっと笑った。






「失礼いたします、親王様。舎人親王殿下より伝言を預かって参りました」
「舎人様から?」
 思わず身体が前のめりになる。
「はい。『今宵加冠の祝いの品を持って参る』とのことでございます」
 今夜、舎人様が、来る。

「あら、舎人様夜になるの? お仕事が忙しいのかしら。
 久しぶりに新田部ちゃん似の美男で目の保養をしたかったのに残念だわ」
 暢気な母の言葉。
 ここでいう『新田部ちゃん』とはもちろん俺のことではない。
 淡海帝が阿部氏の姫君との間にもうけられた皇女であり、舎人様の生母であらせられる新田部皇女さまのことである。
 母の言う通り、舎人様に瓜二つの、というか舎人様が瓜二つの、それはそれは美しい皇女様だ。

 だけど、今の俺にはそれはどっちかというとどうでもいいんだ。
 わざわざ舎人様が夜にこの邸に来るっていうことはつまり。
 その、俺と舎人様はいわゆる恋愛関係にありまして。
 今までは俺が子供だったから何もなかったんだけど。
 俺が大人になって邸を構えたところに夜訪ねてくるってのは、要するに、あれだろ、妻問い……。
 とうとう妻問われるのか俺!
 ついにこの日が来ちゃったのか!
 今夜とうとう俺は書物でしか知らないあんなことやこんなことをされちゃうのか!

 俺は自分が今いる居間を見渡した。
 舎人様が来たらとりあえずここに通せばいいんだよな。
 いきなり寝室……じゃないよな。
 とりあえず居間に通して、舎人様に上座に座ってもらうだろ。
 で、采女に酒と軽食の準備をさせて、それをつまみながら祝いの品へのお礼と、今後ともご指導ご鞭撻の程を、的な挨拶をして。
 それから他愛無い世間話をして。
 どんな話題がいいかな。
 俺が飼ってるカブトムシの幼虫が無事成虫になった話とかでいいかな。

 ……待てよ。
 ここからどうやって色っぽい展開に持っていったらいいんだ?
 俺の持ってる色っぽい本ではいきなり始まってるけどそれでいいのか?

 俺は立ち上がって、意味も無く辺りをうろつき始めた。母が不思議そうな顔で見ている気がするけど、気にしていられない。

 まあいい。色っぽい雰囲気に持っていくのは、悔しいことに経験豊富な舎人様が多分上手くやってくれるだろう。
 で、俺は舎人様にお姫様だっこされて……いや、舎人様は確かに文武両道のすごい人だけど、どっちかというと細身だからさすがに俺を抱き上げるのは無理だな。
 じゃあ何だ、お手て繋いで寝台まで行くのか? 恥ずかしすぎるぞ。心臓が保たない。

 はい。寝台まで来ました。もつれ合うように倒れ込みます。服は各自で脱いだほうがいいのかな。それか脱がせ合ったほうがいいのかな。
 ていうか灯りは? 消すの? 付けたまま?
 男同士とはいえそういう場面だぞ。まじまじ見られるとか恥ずかしくて死ねるんですけど。いやでも舎人様のは……見たい……。あ、やばい。
 
 鼻の下を伝う生暖かい感触にもしかしてと思って手のひらで触ってみると案の定鼻血が出ていた。
 いつの間にか荒ぶるのをやめて静かに俺を見ていたらしい麻呂の純粋な目が痛い。

 何事も無かったかのように鼻血を拭い、俺は再び思考に戻る。
 とにかく寝台で脱ぐところまで漕ぎ着けたらあとはもう俺は初心者らしく身を任せておけばいいかな。
 いやでもあまりにも何もしなかったらつまらんって思われるかな。
 やっぱり、く、口で……とか、したほうが……。
 俺は自分の唇に手をやった。
 む、無理! 無理無理無理!!
 
「じゃあそろそろあたし達は帰るけど……新田部、あんた大丈夫?」
「へっ!?」
 立ったまま母のほうを勢いよく振り返ると、母は怪訝な顔で俺を見上げていた。
「さっきから挙動不審だから。あ、そうだわ」
 何かを思い立ったように、母が自分が連れて来た侍女に目配せする。侍女が母に手渡したのは、何かの小瓶。
「これ、裂傷によく効く塗り薬だからもし良かったら使って」
「えっ!?」
「どっちが上かは知らないけどがんばってね!」
 どういうことだと俺が問う前に、母はじゃあ舎人様によろしくね、とひらひら手を振って、麻呂を抱き上げて去っていった。



 夜更けて、俺の邸へやって来た舎人様は相変わらず美しかった。派手な作りではないけれど隙がなく整った顔立ちに鮮やかな色の袍がよく似合っている。その切れ長の目がいつもより艶っぽく感じるのは多分俺の目が煩悩で曇ってるからだな。
 祝いの品を受け取り、お礼を述べる。緊張のせいで噛みまくったのは言うまでもない。
「どうしたんだ、今日は」
 そう言って苦笑するその低い声にすらビクッと身体が震える。喋る度に動く喉仏と寛げた襟元から覗く鎖骨が目に入って、急に気恥ずかしくなって顔が赤くなったのが自分でも分かった。
「ど、どうもしないですよ」
 明らかにどうかしている声音でそう言った俺の顎に、舎人様の指先がかかる。細いけれど骨張ったその指に押し上げられて顔を上げると、熱を帯びた目が俺をまっすぐ見ていた。
「目を閉じろ」
 来た。
 俺が右往左往するまでもなく、ことは順調に進んでいる。言われるままに目を閉じたが、その瞼がみっともなく震えているのにおそらく舎人様も気づいているだろう。
 唇に柔らかいものが触れた。触れるだけの口づけを、まずは一回。
 二度目の口づけと同時に、舎人様の手が俺の後頭部に回る。
 完全に俺の逃げ場を封じてから仕掛けられたそれは一度目とは比べ物にならない程の大人の味で。
 舌で唇をなぞられて、たまらず少しだけ口を開けると、そこから舌を割り入れられる。口の中を蹂躙されて、舌を絡めとられて、しかも後頭部を押さえた手が微かに左耳を塞いでいるせいでその濡れた音が本当の何倍にもなって頭の中に響く。
「あ……」
 ようやく解放されたとき、たぶん俺はすごく腑抜けた顔をしていたと思う。本当に腑を全部抜かれた気分だ。
 でもこれから先はこんなものじゃ済まないんだろう?
 本当にすべてを奪われる。
 そう思うと急に怖くなった。

「怯えやがって。子供だな」
 舎人様の言葉に弾かれたように顔を上げる。俺が余りにも子供だから怒った……?
 けれど、舎人様はすごく優しい顔で俺を見ていた。いつの間にか、後頭部に回されていた手も髪を撫でる優しい手つきに変わっている。
「おまえ泣いてるぞ」
 そう言って、髪を撫でているのとは反対側の手を俺の頬に添え、指先でいつの間にか出ていたらしい涙を拭ってくれる。
「舎人様……っ」
 俺は彼の名を呼んだ。謝罪の言葉は口にしてはいけない気がした。
「よしよし怖かったな」
 おどけたようにそう言って舎人様は俺を抱きしめた。俺も恐る恐る彼の背に手を回す。細いのにしっかり筋肉の付いた身体。俺より僅かに低い体温。こうしていると本当に幸せなのに。何で俺は意気地がないんだろう。
「新田部」
 あやすような声音で舎人様が俺の名を呼ぶ。
「俺はいくらでも待つから。無理せずゆっくり大人になれ」
 そう言うと、舎人様は俺から身体を離して俺の頭をくしゃりと一撫ですると、おやすみ、と言って部屋を後にした。

 ここで帰してしまえば、いつも舎人様の周りにいる綺麗な女達の誰かが彼の身体を慰めることになるんだろう。
 だけど、悔しいが、この状況で帰らないでと言えるほど俺は子供じゃなかった。

 結局俺はこのまま眠れぬ夜を過ごし、翌朝宮中への初出仕に際していろいろと注意事項などを伝えにきた義父、不比等どのにものすごく心配されるはめになったのだった。

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