2016/02/11 Category : 古代史 唯一の人 突如受信してしまった捏造カップルの話。蘇我の分家の赤兄×宗家の次男で入鹿の弟、敏傍(としかた/物部大臣とも)の話です。 気づけば、いつもその人を目で追っていた。 皆は彼のことを蘇我入鹿の生き写しだという。 確かに彼は入鹿さまの弟だから容姿が似通っていても何ら不思議はない。それに、透き通った大きな目、細い鼻梁、と特徴をひとつひとつ挙げていけば確かに生き写しだ。 だが、初めて会ったときから私にとっては彼がたったひとりの人だった。 誰かに似ているだとか、そのような観点で彼を見たことは一度もない。 男同士で恋だの愛だのといった感情はよく分からないが、私は彼が死ねと言ったら喜んで死ぬくらいには彼……蘇我敏傍(そがのとしかた)が好きだ。 その日、私は端近に立って外を見ていた。急に降り出した雨。ポツポツと落ちてきた大きな雨粒はあっという間に土砂降りの雨になり、一応屋根で覆われている庇をも容赦なく濡らした。 今頃、大極殿では三韓の使者を迎えて儀式が執り行われているはずである。大極殿の前の庭に居並ぶ群臣達はさぞ困っていることだろう。まあ、まだ若年ゆえ殿上を許されていない私には関係のないことだ。「わっ……若様! 赤兄様!!」 男が一人、それはもう凄まじい形相で駆け込んできた。物部朴井鮪(もののべのえのいのしび)。私の腹心の部下である。息を整えるのもそこそこに私の名を呼ぶ。明らかにただごとではない。「どうした。何があった?」「申し上げます! お……大臣が……蘇我大臣がお亡くなりになりました!」「何だと?」 入鹿さまが、亡くなった? 狼狽している彼の口からようよう聞き出した事の次第はこうだ。 白昼堂々、それもあろうことか大極殿で大臣蘇我入鹿が暗殺された。 手を下したのは現女帝の一の皇子、葛城皇子と他数名。その「数名」には我が兄、蘇我倉山田石川麻呂も含まれているという。 私が事態を理解するのと、ずぶ濡れの兄が我が邸に飛び込んでくるのはほぼ同時だった。「聞いたか赤兄! 俺はやったぞ!」 部屋へ入るなり、兄はそう言って両手で私の肩を掴んで揺さぶった。「あの蘇我入鹿が死んだ! 葛城皇子さまの新しい時代の幕開けだ!」 子供のようにはしゃぐ兄。私はその手を肩から払いのけた。「葛城皇子は兄上の娘婿。成る程それは喜ばしいことだ」 私がそう言うと兄はむっとした顔をした。「そういうことではない。俺は真実国を憂いてだな……」 もっともらしい顔で言い募る兄の言葉を、私は片手を上げて遮った。「そういうのは結構です。それより。 ……蘇我本宗家は今後どうなります。物部大臣は……」 物部大臣こと蘇我敏傍。暗殺された入鹿さまの弟である彼はどうなる。 確か彼は今日大極殿へは行っていないはずだ。ならば、まだ生きていると思ってもいいのか?「……そうだ。大臣が死んでもまだ蝦夷と敏傍がおる。 おそらく戦になるはずだ。おまえも準備しておけ」 そう言い残して兄は去っていった。 土砂降りだった雨はいつの間にか上がっていた。「一体これからこの家は、いえこの国はどうなってしまうのでしょうか」 不安で仕方ない、というふうに声を震わせて鮪が言う。「さあな。私にも分からん」 そうとしか答えようがなかった。 大臣蘇我入鹿さまは間違いなく我らが祖父蘇我馬子に並ぶ政治の天才だ。いや、天才『だった』。 内政から外交に至るまでこの国のすべてを取り仕切っていた彼を失って今後我が国は果たして国として機能するのか。 入鹿さまを殺した葛城皇子や我が兄石川麻呂、それから中臣鎌足とやらいう神職の倅に国の舵を取るだけの才覚はあるのだろうか。 いや、違うな。 実のところ、私は国の未来になどさして興味はない。 それより、私はこれからどうすればいい。 兄に言われるままに武装して蘇我本宗家と……敏傍さまと刀を交えることになるのだろうか。 鮪が不安そうに私を見上げる。そんな彼に、私は言った。「頼みがある。甘樫丘の様子を見て来てくれないか」「え……」「危険の及ばぬ範囲までで構わない。 何、明らかに向こうが勝ちそうな雰囲気だったらそのまま逃げてしまえばいい」 私が軽口を叩くと、彼も少し肩の力が抜けたようである。絶対逃げたりしませんから、と念を押してから、彼は出かけていった。* 甘樫丘、つまり蝦夷さま並びに敏傍さまの動向は彼の報告を待つまでもなく、すぐに知れた。 甘樫丘が、完成したばかりの真新しい邸が、燃えている。 日が暮れつつある中、眩いその炎と煙は我が家からもはっきりと見えた。 何かを考える前に、私の身体は飛び出していた。 燃える丘を目指して一心不乱に馬を走らせる。 丘へ近づくにつれ、人が増えてきた。邸から逃げてきた使用人共、そして、今から邸を取り囲みに行く葛城皇子配下の兵士達。目指す方向が正反対の双方が混じり合い混乱をきたす中、私は強引に馬に乗ったまま押し通った。「赤兄!?」「若!?」 たまたま落ち合ったらしい兄と鮪が、普段着のままで駆けつけてきた私を驚いた表情で振り返る。 だが、今は彼らに構っている暇はない。一刻の猶予もないのだ。半ば転げ落ちるようにして馬から降りる。 一番上に着ていた袍を一旦脱ぐと、それを頭から被り、私は燃え盛る邸の中へ飛び込んだ。 後ろから異口同音に何をしているだとか戻れだとか叫ぶ声が聞こえるが、聞き入れるわけにはいかない。「敏傍さま! どこですか敏傍さま!!」 煙を吸い込むのも構わず私は声を張り上げて彼の名を連呼した。どこだ。どこにいる。間に合え……! 炎に巻かれて倒れてくる柱を避けながら、敏傍さまの姿を探す。 彼は寝室にいた。良かった。まだ生きていた。「赤兄……、おまえ、どうして……」 自らの首筋に刃を当てたまま、信じられないといった声音で敏傍さまが呟く。「あなたを助けに来ました」 私は彼の手首を握った。するりと刀子が彼の手から落ちる。「俺はもう『本家の若様』じゃない。助ける義理なんかないはずだ。 何より、兄貴を殺した連中の中におまえの兄だっていただろ」 まもなく炎に囲まれて逃げ場が無くなるというのに、敏傍さまは動こうとしない。煙のせいで段々息が苦しくなる。「いいから早く」 私は握った手首を力一杯引っ張って彼を無理矢理立たせた。「ここを逃げ果せたところで、これからのこの国の一体どこに俺の居場所があるっていうんだよ!」 咳き込みながら、敏傍さまが叫ぶ。「私の側にいればいい! 一生守ってやる!」 同じく咳き込みながら、敬語も忘れて私も叫び返した。 蘇我敏傍のいないこの世など意味がない。今ここでこの手を離すくらいなら、炎に焼かれて一緒に死んでやる。 この感情に付ける名前は知らない。ただ、何よりも彼が大事だった。「赤兄、おまえって」 私に手を引かれて走りながら敏傍さまが言う。「何です」「趣味悪いよな。っていうか馬鹿だよな。 俺と兄貴を比べて俺のほうがいいなんて言う馬鹿、おまえくらいだぞ」「馬鹿で結構」 彼の言う通り、私は馬鹿なのかもしれない。今まさに死と隣り合わせのこの状況なのに、他愛もない話が楽しい。助けに来たにもかかわらず、今ここで永遠に時を止めたいとすら思った。 邸が焼き落ちる寸前に私達は何とか外に出ることができた。 私の姿に気づくやいなや、兄が駆け寄ってくる。鮪も一緒だ。「赤兄! 何で火事場に飛び込むような真似を」 心配したんだぞ、と続くはずの兄の言葉が途切れた。兄の目はまっすぐに私の隣に立つ敏傍さまに向いている。兄の顔が見る見る青ざめる。「い……入鹿さま……どうして……。いや違う。入鹿さまじゃない。物部大臣さま……」 兄の目から彼を庇うように、私は一歩前に出た。「兄上、お願いがございます」「何だ……」「彼を、敏傍さまを殺すというのなら、その前に私を殺してください。彼が死ぬところなど見たくはありませんので」 何も言葉を発せずにいる兄に慇懃に頭を下げ、私は踵を返した。敏傍さまの肩を抱いて歩を進める。「鮪、帰るぞ」 おそらく兄の隣で兄と似たような表情で固まっているであろう部下を促し、敏傍さまを連れて私はその場を後にした。 宝女帝の治世四年目、乙巳年の水無月十二日。今日は権勢を誇った蘇我本宗家があっけなくこの地上から消えた日。そしてこの日、私は幼い頃から焦がれ続けたたったひとりの人を手に入れた。 [2回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword