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水月庵

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偶像に祈りを

718年。病に倒れた不比等を見舞う舎人親王の話。

「こんな顔もするんだな」
 俺の視線の先で、男が規則正しい寝息を立てている。俺は随分と白いものが多くなった彼の髪をさらりと撫でた。
 既に老境に差し掛かった男。しかし、彼のこんなに無邪気な顔などついぞ見たことがなかったので、不覚にも可愛いと思ってしまった。
「申し訳ありません。親王殿下のお出ましだというのに」
 眠っている男の妻、三千代どのがすまなさそうに俺に言う。
「かまわん。偉大なる右大臣藤原不比等どのの寝顔の鑑賞会というのも悪くない」
 冗談めかしてそう言うと、三千代どのも口許を袖で隠してくすくす笑った。
「殿下ったら。お人の悪いこと」
「何を今更」
「ま、そうでないと二十年も三十年もこの人と一緒に仕事などできませんわよねぇ」
 笑いながら三千代殿が言う。大した言いようである。
 にしても、そうか。もうそんなに経つのか。






 不比等どのが目を覚ましたのは、間が良いのか悪いのか、三千代どのが席を外して間もなくの頃だった。
「舎人様……殿下」
 寝台脇の椅子に腰掛ける俺の姿を見て、条件反射のように俺の名を呼び、これまた瞬時にそれを敬称へと言い換え、彼が身を起こしかける。俺はそれをやんわりと押しとどめた。
「無理するな。俺相手に気なんか遣わなくていい」
「しかし」
「いいから。それより今日は、出仕できずに退屈しているであろう右大臣どのに物語でも読んでやろうかと思ってな」
 そう言って含み笑いをすると、俺の意図を察したらしい不比等どのも似たような表情になる。
「重病で枕も上がらぬ老人に仕事をさせるおつもりですね。とんだ上司だ」
「気づかれたか」
 軽口を叩きながら、俺は供の者に持たせてあった木簡を受け取り、それを丸く纏めてある紐を解いた。
 木と木がぶつかり合って軽やかな音を立てる。
 そのようなことは私が、と言って腰を浮かせかける従者を制し、俺は昨日やっと形になったばかりの物語を読み上げ始めた。
 神功皇后紀。
 美しく勇敢な女性が臨月の腹を抱えて外つ国と戦う話だ。
 彼女の紀の前後はとっくに完成しているというのに、海の向こうが絡んでくると話の整合性が取りづらいということもあり、彼女の話だけは後回しになってしまっていたのだ。この話をどう収めるか、幾度も彼と語り合ったことを思い出す。

 何が面白いのか、俺のことを穴があく程じっと見つめてくる彼の視線に若干の照れくささとくすぐったさを感じつつ、俺は物語を読み終えた。

「素晴らしい」
 よくぞここまでまとめあげた、と、感嘆の息とともに不比等どのは言ってくれた。
 俺が歴史書の編纂に携わるようになってから既に二十年余りが経った。最初は刑部様やこの人の背中を追いかけるだけで精一杯だった。追い続けて、やっと対等に話せるようになった時の何ともいえない幸福感は今も鮮明に覚えている。
 あともう少し。
 もう少しで、俺が人生を捧げた歴史書が完成する。

 飽きもせず俺を見ている男と視線を通わせる。
「いつまで見ている。いくら俺でもそろそろ照れるぞ」
「これは失礼を。あなたに見蕩れておりました」
 冗談を言っているふうでもなく、普通の口調でそう言われて、俺はこらえきれず笑ってしまった。
「馬鹿言え。俺ももう四十二だぞ」
 若い頃は程々には容姿に自信もあったが、もう初老といわれる年齢に差し掛かり、それなりに老けた。
 だが、十代の俺より今の俺のほうがずっと魅力的だと不比等どのは笑うのだ。
 馬鹿かと思ったが、それで喜んでしまうあたり俺も人のことは言えない。

「ときに殿下」
「何だ?」
「かねてより松尾の山に建てさせていらした御寺がついに完成したそうで。お祝いを申し上げます」
「ああ。歴史書の無事完成を祈って建てさせた寺だ。
 今年は俺が厄年だから、ちょうど厄払いにもなるな。
 それと……」
 言いかけて、俺は唐突に口をつぐんだ。怪訝そうな顔で不比等どのが俺を見上げる。
 一番叶ってほしい願いは口に出してはいけない。幼い頃、話半分に聞いていた迷信が頭をよぎったのだ。
 ごめん何でもないと、俺は曖昧に笑って彼の視線から逃げた。

 俺が日毎夜毎におまえの延命を仏に祈り、そのせいで千手観音が現れる霊夢を見て寺まで建てたなんて知ったらおまえ、どうする?
 喜ぶか? 悲しむか?
 在りもしないものに縋ってくだらない夢まで見るなど、自分でも馬鹿みたいだと思う。
 だが俺はどうしても、歴史書の完成をおまえと一緒に見たいんだ。
 文武百官が居並ぶ中、歴史書の完成を俺が主上に奏上するその晴れの席におまえがいないなんて有り得ない。
 なあそうだろう?

 不比等どのには早くに死に別れた最愛の妻がいたらしい。
 そして彼女の他にももうひとり。不比等どのには永久に忘れ得ぬ人がいる。
 それが誰かは知らない。知ろうとしたこともない。それでいいと思っている。
 だが俺は今、ずっとその二人に伏して頼んでいる。
 あと少しだけでいい。彼を連れて行くのを待ってくれないかと。
 あの歴史書が完成するまでは、彼は俺のものだから。

 内心の女々しい感傷を振り払うように、俺は不比等どのに言った。
「早く治せよ。おまえがいないと、そのしわ寄せが全て俺と新田部に来る。おかげで今日もこれから宮中へ戻らないといけない」

 用事を済ませた三千代どのが戻ってきた。彼女に簡単な挨拶をしてから、俺は不比等どのが抜けたせいで一向に回らない仕事を片付けるべく、宮中へ戻った。

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