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水月庵

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二人だけの合図

新年を迎えて数日が経った頃。
 元日節会をはじめとする正月の宮中行事も何とか一区切りつき、久しぶりに宮中を退がってゆっくりできるな、と思いながら、俺は伸びをした。
 普段は歴史書の編纂作業その他諸々の行政活動に追われている俺だが、そもそも俺は親王という身の上、しかも一応皇家の重鎮と呼ばれる立場なので、宮中祭祀をおろそかにするわけにもいかず、通常業務が休みとなる正月も結局いつも通りに働くはめになった。
 しかも新年早々射礼(じゃらい)の儀式に引っ張り出されるというおまけつきで、だ。
 確かに弓は嫌いではないし、得意なほうであるとも思う。が、まあ疲れることは疲れる。何もしないでいいに越したことはない。






 とりあえず今日はこれから休みだ。
 誰のところへ行こうか、と妻や恋人の顔を思い浮かべる。
 けれど、結局一番しっくり来たのはあの異母弟の顔だった。
 早速あいつの都合を聞きに行くかと思っていたちょうどそのとき、衛門府のほうから歩いてきたあいつと目が合った。

「舎人様!」
 俺の顔を見るなり、あいつ……新田部親王はぱっと笑顔になって俺の名を呼んだ。
「今帰りですか? 珍しいですね、舎人様が早く帰るなんて」
「一応新年だしな」
「奥様方に新年のご挨拶ですか」
 そう言ってから、しまった、とでも言うように新田部は口を覆った。そして、気まずげに俺から目を逸らす。
「すみません、何か今俺、重い女みたいなこと言いましたね」
 その言葉に、俺はぷっと吹き出した。
「何だその例えは。
 今日はな、これからおまえのところへ行こうと思ってたところだ。
 まあ、おまえが『奥様方に新年のご挨拶』をするんだったら出直すが?」
 新田部はやや大げさに首を横に振った。
「俺も暇だから大丈夫です。今日は家でゆっくりしましょう」



 新田部の邸へ着き、堅苦しい朝服を脱いで用意してくれた普段着に着替えると、忙しかった正月がようやくひと段落したような気がした。
「舎人様、肩もみましょうか」
 そう言って、新田部が俺の背後に回る。
「俺はじじいかよ」
 そう返してやると、新田部が少し困っているのが肩越しに伝わった。
「そういう意味では。ただ、昨日は何本も弓を引いてらしたから、お疲れなんじゃないかと」
「まあな」
 新田部の手が俺の肩に添えられる。そのまま、肩や腕を揉んでくれる。ちょうどいい力加減。やっぱりこいつはよく分かってる。
「それにしても昨日の射礼は驚きました。まさか全部命中させるなんて」
「そうか?」
「舎人さまが弓が得意なのは知ってましたけど、まさかあれほどとは。
 もう本当にね、未来の大将軍の立つ瀬がないですよ」
 俺が歴史書編纂など『文』の部門にいるのとは対照的に、おもに『武』の部門の官職を歴任している新田部は苦笑まじりにそう言った。
 俺もつられて笑ったが、笑い声が収まると、ふと会話が途切れた。

 俺の肩を揉んでいた新田部の手から力が抜ける。そしてあいつはそのまま前のほうに手を滑らせた。後ろから抱きついているような格好だ。
「いえひと様……」
 新田部の声が俺の耳朶をくすぐる。雑談していた時とは全く違う、濡れた声。

 いえひと、とは俺の名である『舎人』の別の読みで、特別に親しい間柄の者にしか許していない呼び方……、まあ要するに俺をそう呼ぶのは新田部だけということである。
 もっと言えば、新田部が俺をイエヒトと呼ぶのは俺達が単なる異母兄弟から『特別に親しい間柄』になるときだけ。つまり、これは新田部から俺への合図だ。

 新田部に向き直り、唇を重ねる。いきなり深くはせずに唇の端の辺りを舌でつついてみたり、彼の下唇を自分の唇で甘噛みしたりと遊んでいたら、焦れたように新田部が舌を出す。
「まだ昼間だぞ」
 一旦顔を離してそう言ってやると、新田部は紅潮した顔に怒ったような拗ねたような表情を浮かべた。
「今日は家でゆっくりしようって言ったじゃないですか……」

 同じ男なのにどうして、こうも可愛いと思ってしまうんだろうな。

 俺は新田部の髪を撫でた。そして再び顔を近づける。
「ゆっくりはさせてやれないかもな」
 そう言ってから、俺は新田部を押し倒して、今度こそ本気の口づけをした。



舎人親王の『イエヒトシンノウ』呼びは彼をお祀りしている某神社が元ネタ。
射礼は本当は1月17日にするそうですが、舎人様が弓に秀でていたというネタを盛り込みたくてこうなりました(ソースは同じく某神社)。
こまけぇことはいいんだよ!

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