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水月庵

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丘に風が吹く






6月12日、乙巳の変によせて。





 息を弾ませながら長い坂道を登る。
「はは、運動不足じゃねえの?」
 馬上のその人はそう言って軽やかに笑った。俺を見下ろすその可愛い顔が今は憎らしい。顔の輪郭を伝って顎に流れる汗を手の甲で拭いながら、俺は彼を睨みつけた。
「あなたはいいですね。涼しい顔で馬に揺られて」
 俺も乗せてくださいよ、と冗談まじりに言えば、彼は意外にも、素直に手を差し伸べてきた。
 その手を取り、彼の後ろに乗り込む。薫香が鼻腔をくすぐった。どうせ唐渡りの高価な香でも使っているのだろう。何せ彼は、権勢並ぶものなき蘇我本宗家の当主、蘇我鞍作入鹿様だ。
 後ろに乗る俺にもたれかかりながら、入鹿様はゆっくりと馬を歩かせていた。






 真新しい彼の邸がある中腹を過ぎ、丘の頂上へと上る。俺達は馬を下りた。
 よく晴れた暑い夏の日。吹き抜けた一陣の涼風が汗にまみれた俺の額を撫でる。
「いつ見てもきれいだな、飛鳥は」
 大和三山、飛鳥寺、そして大王の坐す宮。その全てを見下ろして、入鹿様は満足げに笑った。
 解いた髪を風に弄ばれるままに靡かせ、大きな目を細めて笑う美しき為政者の姿は、どこか神々しいような、人ならぬ者の雰囲気があった。
 いくら努力を重ねたところで所詮この人は超えられぬ。幾度も感じた虚しさがまた胸を苛む。

「入鹿様」
 俺は彼の名を呼んだ。彼が応えて振り返る。
「何だ? 鎌足」
「あなたは何故……山背大兄王を滅ぼしたのです?」
 俺がそう聞くと、彼は表情一つ変えず、ただ一言、愛していたからだ、と言った。
「それは知っています」
 入鹿様がわずかに目を見開いた。
 当たり前だろう。自分の愛する人が誰を愛しているかなんて、気にならないわけがない。
 俺は言った。
「だからこそ、何故だと聞いてるんだ。あなたが手を下さずとも、どのみちあの方は」
 入鹿様は目を伏せた。長く濃い睫毛が琥珀の瞳に影を落とす。
「かの聖徳太子の嫡子という輝かしい身分は、もはやあいつにとって枷でしかなく、自分を利用しようとする豪族共の間であいつは苦しんだ……まあその豪族の中には俺も含まれてるかな。
 ともかく、もはや国を乱す原因でしかなくなったあいつ……山背は別に俺がやらずとも他の誰かが滅ぼしただろう、とまあ、あんたはそう言うんだろ」
 全くもってその通りだ。
 それを敢えて、聖徳太子の一族を滅ぼしたという汚名をわざわざ被るとは、秀才と謳われる蘇我入鹿らしくない愚行と言わざるを得ない。入鹿様が彼を愛していると言うのなら、尚更。
 目を伏せたまま、入鹿様はまた笑った。
「それでも、他の奴にあいつを殺させたくはなかった。古人には泣いて止められたけど、どうしてもそこは譲れなかった」

 俺と入鹿様の間にまた風が吹く。
「鎌足」
 静かに、彼が俺を呼ぶ。木々のさざめきにかき消されそうな声で。
「何です」
 俺も静かに応えた。
「もう山背はいない。
 巨勢徳多とか、色々人材も育ててきたつもりだ。
 それから、あんたが石川麻呂や、あの子……葛城様と誼を結んでることも知ってる」
 その言葉に、せっかく汗が引いてきたところだというのにまた背筋に汗が流れた。冷たい、嫌な汗だ。
「ああそれから」
 からかうような入鹿様の声。
「あんたが俺に勝てないっていつも歯ぎしりしてるのも知ってるぜ」

「鎌足」
 再び俺の名を呼びながら、入鹿様は一歩距離を詰めた。薫香が香り、細い手が俺の頬を包む。
「今こそ俺を超えろ。あの子とならできるだろう?」
 どうかこの逆賊を滅ぼしてくれ。
 俺の目をまっすぐに見て、入鹿様は言った。
 木漏れ日を映してキラキラと輝く宝石の目。
 だが、その目はもう何も見ていない。
 ああ。俺は悟ってしまった。
 彼はもう、生きていないのだ。

 俺の頬に添えられた手に、自分の手を重ねる。入鹿様が訝しげに首を傾げた。二人を繋ぐ彼の腕をなぞるようにして、彼の方へと手を伸ばす。俺の頬から彼の手が滑り落ちた。
 今度は俺が彼を捉えた。顎に手をかけて上を向かせ、腰をかがめてその唇を奪う。
 何も抵抗されないのをいいことに、舌を絡めた。

 俺には、彼の言うことがよくわかる。
 彼の言う通りだ。
 他の奴がこの人を殺すなんて耐えられない。

 ずっと妬みながら愛してきた人の甘い舌を味わいながら、俺は皇子のことを思った。頼り切った目で俺を見るあの人。俺は自分が思っている以上におそらく葛城皇子様を慕っていると思う。俺たちはきっとこれから先の数十年、共に過ごすのだろう。
 だが。
 幸せであるその時の中で、俺はきっと何度もこの日を思い出す。

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