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水月庵

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およし再び。3

慶喜は眉をしかめた。
 頭皮にわずかな痛みを感じるとともに、プツリと髪が一本抜けた。
「も、申し訳もござりませぬ……!」
 櫛に絡まるその黒髪を見るや、髪を梳かしていた女中がサッと青ざめてその場に平伏した。
 もつれた髪を強引に梳かそうとしたため、髪が抜けてしまったのだ。
 今宵はただでさえご機嫌斜めだというのに。
 慶喜がチラリとその女中を一瞥すると、彼女はますます縮こまってしまった。
 些細なことではあるが、何せ髪は女の命。
 上様のご寵愛を一身に受ける側室の勘気をこうむってしまっては、と若い女中は気が気でない。






 慶喜は息を吐いた。
 かねてよりの不機嫌に任せて彼女に当たり散らしそうになってしまう気持ちを深呼吸で抑え、できるだけ優しい声音で言う。
「いや、気にするな。だがお芳、髪はいつも通りおまえがやってくれ」
 脇に控えるお芳にそう言うと、はいはいとおざなりな返事とともに彼女は慶喜の後ろに移動し、櫛を構えた。
 慶喜の髪を梳かしながら、相変わらず恐縮している女中にお芳が言う。
「本当に気にしなくていいわよ。この人、家臣に顔を踏まれても怒らないほどの人だから」
「え!?」
 それは一体どういう状況なのかと目を白黒させる女中をよそに、慶喜とお芳は懐かしいなぁなどと笑いあっている。

「まだおまえに出会う前の話だろう。話したことあったっけ」
「ご家中の方に聞きました。だからおまえも自然体で大丈夫だと、そう言われましてね」
 言いながら、長い黒髪を丁寧に梳いてゆく。
「今日は適当でいいぞ。どうせあとは寝るだけだし」
 少し拗ねるようなそぶりを見せた主にお芳は苦笑した。
「将軍家の奥向きはいろいろとしきたりが面倒臭いですね」
「というよりうちが適当すぎたんだ」
 大奥にはとかくしきたりが多い。
 歴代将軍の忌日などは精進日とされ、潔斎のために将軍の奥泊りは禁じられている。
 ここは確かに大奥ではないが、だからといって先祖に礼を尽くさずとも良いという道理はない。
 そのため、今宵の慶喜は独り寝を強いられており、どこかご機嫌斜めというわけだ。

「ま、せっかくですから今日はお早めにゆっくりとお眠りなさいませ」
 寝支度を整えた慶喜を寝所に連れて行きながら、お芳が笑う。
 褥の上に身を横たえた慶喜の髪を、寝ている間に変な癖がつかぬよう整えてから、その身体に搔巻をかける。
「明かりは消しますか? つけておきますか?」
 問いかけるお芳の手を慶喜が握る。
 見れば、何とも心細そうな目で彼いや彼女がこちらを見ていた。
「相変わらずの寂しん坊ですね」
 殿様と妾という関係のときから薄々思っていたことではあるが、この一橋慶喜、いや今は徳川慶姫か──は無類の寂しがりである。
 人肌の温もりを感じなければ眠ることができない。

「子守唄でも歌ってあげましょうか」
 茶化すようにそう言うと、慶喜はお芳の手を離してぷいとそっぽを向いてしまった。
「馬鹿にするな。俺だって独り寝くらいできる」
「はいはい偉うございますね」
 搔巻にくるまった慶喜の背をぽんぽんと撫でた。
「次の間に控えておりますので何かあったらお呼び下さいね」
「よく言うよ。一回寝たら何があっても起きないくせに」
「あらよくご存知で」
「当たり前だろう」
 他愛もない会話を交わし、お芳は寝所を後にした。

 お芳が去った室内で、慶喜は燭台の揺らめく焔を寝転んだままぼうっと見ていた。
 眠気が訪れない。
 程よく温められた布団は確かに心地良いが、やはり何かが足りなかった。
 せっかくお芳が整えてくれた髪が乱れるのも構わずもぞもぞと何度も寝返りを打つも、逆に目は冴えてくるばかりだ。
 これはもう、恥を捨ててお芳を呼び戻して子守唄を歌ってもらうべきか。
 などと埒もないことを考えていると、不意に焔が大きく揺らいだ。
 ぴったりと閉じていたはずの障子がわずかに開き、そこから風が吹き込んだのだ。
 慶喜は飛び起き、枕元の小刀を掴んだ。
 障子の向こうには確かに人影が見える。
 明らかに女中の影ではない。
「……誰だ」
 低い声で問い質した。

「そう怖い声を出すなよ、豚一」
 聞き馴染みのある声と腹立たしくも懐かしいあだ名にふっと肩の力が抜ける。
「おまえか」
 安心しきった足取りで大股に障子に近づき、ガラリと開けるとそこには思った通り、見慣れた顔があった。
「久しぶりだな」
 縁側に腰掛けていた彼は慶喜の姿を見るとその白皙に笑みを浮かべた。
 松平容保。慶喜をこのようにした張本人のうちの一人だ。
「身のこなしががさつだと言われないか?『お方様』」
 揶揄するようにそう言われ、慶喜はハッと自分の姿を見下ろした。
 先程大股で歩いたせいでさばけてしまった夜着の裾を慌てて直し、露わになった足を隠す。
「まあ入れよ」
 促すが、容保はその場から動こうとしない。
 首をかしげる慶喜に、呆れたように容保は言った。
「馬鹿。上様の女の寝床に入れるわけないだろう」
「……ここも部屋の中も別に大差ないと思うがな。というかよく入れたな、ここまで」
「女中に頼めば簡単に入れたぞ」
 そう言われ、慶喜は脱力した。
 確かに、これほどの色男に懇願されれば男に免疫のない若い女中ならば、いや若くなくても、逆らうことなどできまい。
 再教育が必要だなと慶喜はため息をついた。

 容保が自分が腰掛けている場所の隣を叩く。
「座れ」
 言われるままにそこに腰を下ろした。
 夜着一枚のその身体に、容保が自分の羽織を脱いで着せかけてやる。
「優しいじゃん」
 容保が自分に優しいなど、明日は槍でも降るのではないだろうか。
 信じられない面持ちで慶喜は隣に座る容保を見た。
「お世継ぎを宿しているかもしれない大事な身体だからな」
 涼しい顔で容保は言った。
「まあ今のところ、お世継ぎはまだ……」
 慶喜は自分の腹に手を当てた。つい最近、月の障りが終わったばかりだ。最初自分の身体から怪我もしていないのに血が出てくる様を目の当たりにしたときはひっくり返るかと思ったが、数回経験した今ではもはや少し煩わしいなと思う程度だ。
「そうか。まあまだ数ヶ月だし、子は授かりものだしな……」
 このような話題はやはり男にとっては居心地の悪いものらしく、容保の口調はどうにも歯切れが悪い。

「ところで」
 気まずい空気をごまかすように、慶喜は話題を変えた。
「横浜の件はどうなった」
 いわゆる横浜鎖港問題である。
「人目を忍んで会いに来た男にする話がそれか」
 何とも色気のない話を切り出した美女を流し目で一瞥し、容保は言った。
「別に、俺とおまえはそんな仲じゃないだろう……」
 言いながらも、改めて考えてみるとこれはなかなかにすごい状況だと思い至る。何となく、先程肩に掛けてもらった羽織を胸元でかき合わせた。
「で、横浜は」
 一瞬変な雰囲気になりかけたのを慌てて軌道修正する。

「今更鎖港は難しいだろうと朝廷を説得する方向で決まりかけたんだがな、上様から待ったがかかった。
 ことが何であれ、ご叡慮に逆らうのは得策ではないだろうと」
「ほう、上様が。それは驚いた」
 大して驚いた風でもなくそう言った慶喜を容保がじろりと睨む。
「さてはおまえの差し金だな」
「ばれたか」
 慶喜がペロリと舌を出す。
 縁側に腰掛けて手を身体の横につき、下に降ろした足をぶらぶらと遊ばせながら、容保の抗議の視線などどこ吹く風で慶喜は続けた。
「だってそうだろう。面と向かってご叡慮に逆らうなど、尊皇派の公卿共にわざわざ餌をまくようなものだ。
 それに、開港を言い出したのはどうせ島津だろう?
 たかが外様の、しかも藩主ですらない久光ごときに幕府の舵を取らせてたまるか。三百年続いた幕府の屋台骨が揺らぐぞ。
 むろん鎖港など絵空事だということは俺にもよく分かっている。ゆくゆくは帝を説得して港を開き、国際社会とやらに漕ぎ出すべきだ。
 だがそれは今じゃない。これから先も葵の天下を望むならな」

「豚一」
 慶喜の持論を大人しく最後まで聞いてから、容保は静かな口調で口に馴染んだあだ名を呼んだ。
「何だよ」
 身体の横についた慶喜の手に、容保の手がぶつかる。引っ込めようかとも思ったが、それも何だか妙に意識しているようで決まりが悪いな、と慶喜はそのまま触れさせておいた。
 おそらく容保も同じようなことを考えているのだろう。手は微妙に触れ合ったままだ。
 そのままの体勢で容保は話し始めた。
「豚一、あのな。此度の件をおまえの差し金かと思ったのは俺だけじゃない。
 ある程度幕閣の思うままにさせておられた上様が突然はっきりとものを仰るようになった影には例の側室がいるのではないかと……有り体に言えば、上様は女狐に操られているのではないかと、幕閣は皆口には出さないが薄々そう思っている」
「豚から狐に昇格か。……いや、昇格なのか?」
 呑気に首をかしげている慶喜に容保の鋭い声が飛ぶ。
「ふざけてる場合か」
「別にふざけてるわけじゃない。操っていると言われれば、まあ違うとも言い切れないしな」
 それに、と慶喜は笑った。
 紅をささずともほんのりと赤い口許を綻ばせて、昔から見慣れている気に食わぬ男とそっくりな顔をした女が微笑む。

「それこそ、願ったり叶ったりだ」
 どういうことだ、と要領を得ぬ容保の顔を見つめつつ、慶喜は続けた。
「それはつまり、悪評はすべて俺がこうむるということだろう。この先上様が何をして、この国に何が起きても上様の御名に傷がつくことはない。
 栄誉はすべて上様に。そして悪評はすべて二条城の女狐に。
 これで何事もすべて上手くいく」

「おまえはそれでいいのか」
 思わず慶喜の手を握った。
「良くはないけど……。でも男時代から俺ってそういう立ち位置だっただろう?」
 柄にもなく慶喜に向かって心配げな視線を投げかけてきた容保に、強いて笑ってみせた。
「お世継ぎを産むことと女の戦いだけでは些かこの俺には荷が軽すぎると思っていたところだ。
 これからも女狐は政治に口を出しまくるからおまえもそのつもりで頼むぞ」
 にやっと笑った慶喜は、どこか楽しげですらあった。

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