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水月庵

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拗らせ副将軍と大和撫子

徳川光国は苦虫を噛み潰したような顔で大廊下間(おおろうかのま)に座していた。
 ここから遠く離れた溜間(たまりのま)の方角を時折見やってはますます眉間の皺を濃くする。
「どうした、腹でも痛いのか?」
 傍らに座る尾張藩主光義(みつよし)がからかい半分に問う。
「腹じゃない。別に痛くもない。ただ胸糞が悪い」
 溜間の方角を睨みつけたままそう言った光国に、ははぁと光義はしたり顔で笑った。






「副将軍様にあらせられましては、井伊どのに庇われたのがよほど悔しかったと見える」
 光義の言葉に、光国はチッと舌打ちし、忌々しげに畳を引っ掻いた。
 い草がはらりと散る。
「よりにもよってなんであいつなんだ。なんでこの俺があいつに庇われなきゃならん。
 あいつめあれで俺に恩を売ったつもりか?」
 ガリガリと畳を引っ掻きながら光国は言い募った。
「いいから畳を引っ掻くのをやめろ。おまえは猫か」
 光国の手を軽く押さえてたしなめる。
 見ようによっては猫のように見えなくもない切れ長の目を血走らせ、光国は光義を睨んだ。
「なんで俺を睨むかなこの猛獣は」



 あれは、つい先日のこと。
 光国は将軍徳川家綱の茶席に招かれた。
 亭主が家綱、正客が光国、そして彦根藩主である井伊直澄が陪席した席でのこと。
 若き将軍が少したどたどしい手付きで茶を点てる様を見つつ、光国はふと視線を横に流した。
 井伊直澄も将軍の手付きをやや心配そうに見守っている。
 仄かに桃色みを帯びた白い肌に、ふさふさと長く豊かな睫毛。その睫毛の下にある瞳はまるで硝子玉のようだ。
 しっかりと着物を着込んでいてさえ細く頼りなげに見える肩といい、お行儀良く膝に置かれたお人形のような手といい。
 大和撫子のような、というか守ってあげたくなるような、というか、ともかくそういった類の言葉がしっくりくる佇まいだ。
 悔しいが。

 光国の視線に気づいたのか、直澄がこちらを向いた。
 睨めつけるような光国の眼光に、少し困ったように笑う。そして、小さく会釈を返してきた。
 その表情もまた、花もほころぶようなというか何というか。
 何だか面白くなくて、大人気ないとは思いつつも光国はぷいっと顔を背けた。
 面白くない。
 何やらいきなり出奔したらしい井伊家の本来の世子に代わりこの男が急遽井伊の家督を継いで江戸城に現れて以来、大名達は皆して彼をやれ可憐だの花のようだのと持て囃すが、譜代筆頭たる者がただの可憐な花であるわけがないではないか。絶対腹に一物あるに決まっているし、そもそもそこまで持て囃されるほどの顔面だとは光国は思わない。
 大体、年齢だって光国より三つも上だ。三十も半ばを過ぎた男が花のようとは笑わせる。
 というより何より、光国が最も気に入らないのは、直澄が光国の最愛の兄である高松藩主、松平頼重と妙に仲が良いことだ。
 そもそも、井伊家と高松松平家は共に溜間詰の家格である。登城の際は同じ控室にいることもあり、何かと接点が多い。
 面倒見の良い兄のことだ。新参者のこの男に何くれとなく世話を焼いているうちに誑かされてしまったのだろう。
 まったく、忌々しい。

「水戸様」
 他ならぬ井伊直澄に横から遠慮がちに声をかけられ、光国ははっと我に返った。
 そうだ。今は茶会の最中だった。
 さて上様のお点前はいかほどのものか。
 光国は視線を茶碗に移した。

「……は?」
 思わず声が漏れた。
 目の前に置かれた茶碗と将軍を交互に見る。
 何だこれは。
 相手が将軍でなければ怒鳴って茶碗をひっくり返しているところだ。
「その……わしは不器用でな」
 将軍は副将軍から気まずげに目を逸らした。
 そうでしょうとも。器用な人がこのようなことをするものか。
 光国の前にある茶碗には緑色の液体がなみなみと注がれていた。
 何をどうしたらそうなるんだ。
 光国は我が目を疑った。
 このような席で供される茶は本来、茶碗に三分目程度しか入っていないものである。
それがどうだ、今目の前にある薄茶のようなものは茶碗の縁のほぼぎりぎりまで入っているではないか。
 これでは飲み干すことはおろか、溢さずに持ち上げることすら至難の技だ。事実、畳の上には緑色が散っている。

 光国は戸惑った。
 無理だ。絶対にこれは飲み干せない。仮にこれが千利休が点てた最上級の茶であってもこの量は無理だ。況や素人の点てた茶をや、である。
 しかし、この茶を点てたのは将軍だ。飲み干せなければ、自分が将軍の点てた茶を残す無礼者の烙印を押されるのみならず、将軍に恥をかかせてしまう。
 将軍に無礼をはたらき不興を買ったとあれば最悪、改易もあり得る。完全に貰い事故だが。
 やるしかないのか。
 引きつった笑顔で光国は茶碗に手を伸ばした。いや、伸ばそうとした。

 光国が覚悟を決めて茶碗に手を伸ばそうとしたとき、それをやんわりと止めるように動いたのは直澄だった。
「水戸様が茶を召し上がる前に、不躾ながらこの井伊直澄、お願いがございます」
 将軍のほうへ身体を向け、畳に手をついて直澄が言う。
「何じゃ、申してみよ」
 依然、わけのわからない緊張感は続く。
 直澄は一体何を言うつもりなのか。
 茶碗に伸ばした手を膝に戻しながら、光国は訝しげに直澄を流し見た。
「はい。この場では正客である水戸様にしかいただけぬものとわかってはいるのですが、こうして拝見しておりますと拙者もぜひ味わってみたいと思いまして……。
 一口でも結構です。上様がおん自らお点てになった茶を、拙者にも賜れないでしょうか」
 あくまで控えめに、わがままを言っているのは自分だという態度を崩さずに。井伊直澄はそう言った。

 おまえが神か。

 この一瞬ばかりは光国も手放しでそう思った。まさに救世主だ。
 彼がわがままを言ったという体にすれば光国もこのなみなみと注がれた緑色の液体を全て飲み干さずともよくなるし、将軍の不手際も有耶無耶にできる。
 将軍の顔を覗き見ると、彼もぱあっと表情を明るませていた。
「そ、そうか直澄よ。そなたわしを味わい……わしの点てた茶を味わいたいと申すか」
 直澄ににじり寄り、その白い手を握りながら若き将軍が言う。
 嫌な顔ひとつせず、直澄は楚々と微笑んだ。
「はい、ぜひに。上様のお茶を味わいとうございます」
 その微笑みに、将軍の表情はより一層明るくなった。

「水戸殿」
 将軍が光国に向き直る。
「はい」
「聞いた通りじゃ。直澄がどうしてもと言うのでな、少し残してやるがよい」
 助かった。光国は心の中で、ほっと胸を撫で下ろした。
「そういうことなら仕方がないですね。せっかくの上様のお点前ですが、断腸の思いで少し譲って差し上げることにいたしましょう」
 言いながら、ちらりと直澄の反応を伺った。さり気なく将軍の手を解きつつ、彼は相変わらず柔和な笑みを浮かべている。
 大した男だ。
 感心するとともに、もしかして自分はこの男に大きな恩を着せられたのではないかと穏やかならぬ気持ちが胸を這い上がってきた。



「だからさぁ、なんでおまえはそう悪いほうにばかり取るんだ」
 相も変わらず江戸城大廊下間の畳の破壊活動に勤しむ従弟を背後から取り押さえつつ、光義は言った。
「井伊どのはおまえと上様の様子を見るに見かねて庇ってくれただけだろう」
「いや違うな」
 憤懣やるかたないといった表情で光国が光義を振り返って睨む。
「顔怖っ」
 正直な感想が口をついて出た。
「あいつは俺に恩が売れたと内心絶対ほくそ笑んでやがる」
「井伊どのがそんな腹黒いことを考えるわけがないだろう」

「おまえはあの泥棒猫の肩をもつのか」
 そう言い放った光国の顔はさながら般若面だった。
「泥棒猫っておまえ……。
 まあ確かに頼重さんと井伊どのはただの同僚というには親密すぎる……ような気もするが……」
「やっぱり光義だってそう思うだろう!?」
「まあな。いや、だとしてもだ。おまえに泥棒呼ばわりされる筋合いはないだろう。そもそも頼重さんは別におまえのものじゃないんだし……ああすまん俺が悪かった、泣くなよ」
 この従弟は実に英邁な人物ではあるのだが、最愛の兄のこととなると途端に情緒不安定になって扱いづらいことこの上ない。
 ぼろぼろと涙をこぼす光国に、光義はお手上げだと言わんばかりに肩をすくめた。

「とにかくだな」
 光国が落ち着いた頃合いを見計らって光義は言った。
「井伊どのの内心がどうであれ、彼と頼重さんの関係がどうであれ、おまえがあの人に助けられたのは事実だろう。ちゃんと礼は言っておけ。大人の礼儀としてな」
 何が悲しくて三十過ぎの従弟に礼儀作法の初歩を説かねばならないのか。
 若干やりきれない思いで光義は言った。
「絶対嫌だ。あいつには頭を下げたくない」
 グスグス鼻をすすりながら、光国はまだほざいている。
「駄々っ子かよ」
 光義は嘆息した。呆れながらも、一応光国に懐紙を渡してやる。
 それで鼻をかみながら、光国は言った。
「俺だって頭ではわかってるさ。大人の対応をしないといけないことくらい。
 でも気持ちがついていかない。
 よりにもよって俺の兄上を掠め取ったあいつに助けられるなんて」
 光義が思うに、もし本当に頼重と直澄が深い仲だったのだとしたら、直澄は光国が自分の恋人の大切な弟だからこそ助け舟を出したのだろう。
 だがそれを口に出すとこの従弟は『大切な弟』というところにのみ食いついてきそうだと思ったので口には出さなかった。
 代わりに、ちゃんと礼は言っておけよともう一度念押ししておいた。
 こんなくだらないことで親藩と譜代筆頭に波風が立つなどまっぴら御免だ。御三家筆頭として、光義は強くそう思った。

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