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水月庵

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愛と情─或いは牛肉と納豆─




「拗らせ副将軍と大和撫子」の続編のような話。

 その日、彦根藩主井伊直澄は江戸の上屋敷で寛いでいた。
 今日は登城する予定もなく、家老に任せている国許にも大きな問題もなく、久しぶりにのんびりできる日だった。
 着流しに羽織を引っ掛けただけの姿で脇息にもたれかかり、ほっと息をつく。
 まもなく正午になろうかという頃。
 午後は少し読書でも進めようか。
 そんなことを考えつつ、半ば開け放した障子から真昼の庭を眺めていると、チリンチリンと鈴の音がした。
 直澄の顔がふっと緩む。
「玉藻、おいで」
 直澄が手招きすると、縁側から部屋へ入ってきた三毛猫は嬉々として主人の膝に乗った。
にゃあと鳴き、猫の玉藻は主人の膝で丸くなる。
 そうして穏やかなひとときを楽しむことしばし。

「殿、よろしいでしょうか」
 襖が開き、遠ざけていたはずの小姓が遠慮がちに姿を見せた。






「どうした?」
 直澄がそう問いかけると同時に、玉藻も彼の膝の上でぴくりと耳を立てる。
「実は今、門前に水戸様の駕籠がお見えになっておりまして……。
 確かお約束などはなかったと記憶しておるのですが」
「確かに約束はしておらぬが……」
 とはいえ、御三家の当主であり副将軍とも呼ばれる彼を無下にはできない。
「急ぎ場を整えよ。それと私も身支度を」
 小姓に命じ、自分もわたわたと立ち上がる。
 が、その直後、廊下のほうがやにわに騒がしくなり、直澄はふと動きを止めた。

「水戸様、しばしお待ちを」
「すぐに場を整えますゆえ」
 慌てた様子の小姓達の声が徐々に近づいてくる。
 それと共に、やや荒々しい足音も。
 怯えたように玉藻が直澄の足にぴったりとくっつく。
 そんな彼女に構う暇もなく、先程小姓が少し開けていた襖がスパーンと全開になった。
 姿を見せたのは勿論、天下の副将軍徳川光国だ。
 鮮やかな緋色の羽織とその胸元についた三つ葉葵が眩しい。
「これは水戸様。このような着流し姿で申し訳ない」
 向こうが勝手に来たのだし、自分の家でどのような格好をしていようが自由なのだが、決してそのような不快感を表さないのが井伊直澄という男だった。

「先程まで座っていたところで申し訳ありませんが」
 そう言って、光国に上座を勧める。
「いや、この辺でいい」
 光国はそう言って本当にその辺に……襖のほど近くに腰を下ろした。
「それでは拙者もここで」
 直澄は光国の対面に腰を下ろした。

「それで、今日はどのようなご用向きで」
「その……」
 むくれたような表情で目を逸らしたまま、光国はなかなか本題を切り出そうとしない。
 それでも辛抱強く待っていると、光国は直澄に何かの包みをずいっと差し出した。
「これは?」
「水戸名物の黒豆納豆だ。その、この前の、茶会のときの……礼というか」
 段々声が小さくなっていって、最後のほうはあまり聞き取れなかった。
「そんな。却ってお気を遣わせてしまいましたね」
 直澄は笑顔になって包みを受け取った。
「ありがたく頂戴いたします。水戸の納豆は格別と伺っておりますので楽しみです」
「うん。その……井伊どのは納豆は好きか?」
「大好きです」
 毒気のない笑顔でそう言われ、光国は居心地悪そうに俯いた。
 そんな光国に玉藻がトコトコと近寄り、小首を傾げて気遣わしげにニャ、と鳴く。
「何だ、別に腹は痛くないぞ」
 言いながら玉藻の首のあたりを撫でてやると、彼女は満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「猫の言葉がわかるのですか?」
 玉藻を撫でながら二言三言会話のようなものを交わしている光国に、冗談半分で直澄が問いかける。
「べ、別に! ただ、大体こんなことを言っているのかなと思っただけで……」
 恥ずかしさからか、また光国がむくれてしまう。
 どうしたものか。
 むくれてしまった副将軍に、直澄と玉藻は困ったように顔を見合わせた。

 光国の膝に前足を引っ掛けてちょっかいを出していた玉藻が突然、ぴんと耳を立てた。彼女がせわしなく動くたび、首につけられた鈴が愛らしい音を立てる。
 何事かと思っていると、厨のほうから飯の炊ける匂いが風に乗って仄かに届いた。
 玉藻はそちらの方角に向かってひくひくと鼻を動かしている。
 やがて、小姓が一人入ってきて、昼餉でございますよと玉藻を手招きした。
 彦根藩主の寵愛を一身に受けている玉藻は、しかしどこまでも色気より食い気の女である。ニャンと甘えた声を出して小姓の腕に飛び込んだ。
「こちらの昼餉はいかがいたしましょう」
 玉藻を抱えた小姓が直澄に問う。
 そうだ、と直澄は膝を打った。
「水戸様もご一緒にいかがですか?せっかく納豆もいただきましたし」
 そう言われて、光国は無意識に腹を押さえた。
「ちょうど国許より反本丸も届いたところでして」
 駄目押しのように添えられた言葉に、光国はぱっと顔を上げた。



 橘紋があしらわれた御櫃を開けると、白い湯気がふわりと立ち上った。
 小姓の白い手によってよそわれる白米は粒が立ち、つやつやとまるで生娘の肌のような輝きを放っている。
 小姓はそのいかにも美味しそうな白米が盛られた器をまずは光国の膳の上に、次いで直澄の膳の上に置いていく。
 白米の器の隣には、先程光国が持ってきた黒豆納豆が美々しい漆器に入れられて鎮座していた。
「それでは」
 いただきますと手を合わせ、直澄が黒豆納豆に手を伸ばす。
 混ぜるのもそこそこに白米の上に乗せようとする直澄を、光国は慌てて止めた。
「最低百回は混ぜないと味が引き出せないだろうが」
 当たり前のようにそう言う光国に、直澄が首を傾げる。
「そういうものにござりますか」
「常識だ。まったく、これだから西国の者は」
 光国の言う通り糸で豆が見えなくなるほど何度もかき混ぜてから食す納豆は香りも引き立ち粘り気も絶妙で、なるほど確かに美味だった。

 光国と直澄が納豆に舌鼓を打っている様子を見届けると、小姓は縁側に移動し、そこに設置した七輪に『反本丸』をおもむろに並べ始めた。
 ジュッと香ばしい音を立てて脂が溶ける。
 味噌と脂の焼ける匂いが縁側から部屋へサッと吹き込んだ。
 反本丸などといかにも薬のような名が付いているが、その正体は何のことはない、牛肉の味噌漬けだ。
 彦根は陣太鼓に用いる牛皮を幕府に献上するため、牛の屠殺を幕府より唯一認められている藩である。
 とはいえ、幕府が肉食を禁じている以上、その肉を食らうことは許されぬはずなのだが、良質の牛肉は滋養強壮の薬にもなると中国の書物にも書いてある、だからこれは薬である、として反本丸こと牛肉の味噌漬けを藩内で製造および販売することを許可してしまったのが誰あろうこの井伊直澄なのだ。
 そしてこの妙なる美味の『薬』の評判は瞬く間に広がり、それを商う彦根は大いに賑わった。
 肉食を禁じていたはずのお上さえ、今では牛皮よりもこちらの『薬』のほうを楽しみにしている始末だ。

「井伊どのも顔に似合わず大胆なことをなさる」
 いい具合にこんがり焼けた近江牛の味噌漬けを目を輝かせて見つめながら、光国は言った。
「『生き物を大事に』と仰るのであれば、皮だけをとって捨てるのではなく、余すところなく利用することこそ肝要にござりましょう」
 新しく盛られた白米の上に反本丸を乗せつつ、直澄はいたずらっぽく笑った。
 つやつやと輝く白米に香ばしく焼けた味噌と肉汁がじわりと染み込む様を思わず凝視していた光国も、さあ水戸様もと促され、一も二もなく肉に箸を伸ばす。
 美味い。
 光国は目を瞠った。
 上品な合わせ味噌の味。そして、味噌漬けにしてあるせいか獣肉の臭みなどは一切感じない。噛みしめるほどに味噌の奥から肉本来の甘みが染み出す。それから、味噌と肉汁の染み込んだ飯の美味いこと。
 あっという間に完食してしまった。

「ここに、付いております」
 直澄がそう言って自分の左頬の辺りを指差す。
 何事かと思って自分の頬を触ると、飯粒が指にくっついてきた。
 気まずい表情でそれを懐紙になすり付ける。
 と、光国ははたと動きを止めた。
 どうしたのだろうと怪訝な顔になる直澄を余所に光国は眉間に皺を寄せる。
 何をしているのだ、自分は。
 井伊直澄はいきなりふらっと現れて光国の最愛の兄である頼重の心を掻っ攫っていった、光国からしてみれば天下の大泥棒である。可愛い顔の下に蛇のごとき邪悪な性根を隠し持った極悪人である。
 だから先日のお礼にかこつけて文句の一つも言ってやろうと乗り込んできたというのに、敵の根城でうっかりと飯を二杯も平らげてしまった。しかも頬に飯粒までつけて。
 天下の副将軍が牛肉ごときで懐柔されるとは痛恨の極みである。

「あの……」
 心配顔の直澄が何かを言う前に、光国は顔を上げ、正面から直澄を見据えた。
「兄上もここでこの肉をよく召し上がるのか」
「え? ええ、そうですね。頼重どの、あ、いえ失礼、讃岐守どのも美味しいと言ってくださるのでよくお出しいたしますが」
 この男は普段は兄のことを諱で呼んでいるのか。つまり、やはりそういうことなのだな。光国は奥歯を噛みしめた。
「反本丸を食べさせて兄に精を付けさせて何をする気だいやらしい」
「決してそのようなやましい意味では」
 直澄が慌てて首を横に振る。先程の白米のように白くつややかな肌が見る間に赤く染まった。

「どうしておまえなんだ」
 光国が言った。
「どうして兄上はおまえなんか選んだんだ。おまえなんか何も知らないくせに!
 俺にはもう兄上しかいないのに。初めて、兄上と同じくらい大切だと思わせてくれた妻はとっくに死んだ。兄上に……兄上の子に本来兄上が継ぐはずだった水戸を返すために俺は自分の子も捨てた!
 それなのに俺は兄上に選んでもらえなかった。
 この惨めな気持ちがおまえにわかるか!」
 切れ長の目に涙をにじませ、噛み付くように直澄に鋭い言葉を放つ。
 無様だな、と自分でも思った。
 直澄に繰り言を言ったとて何も変わらないし、もし今日のことが直澄を通じて兄の頼重に伝わったらうんざりされてしまうかもしれないのに。
 それでも、止められなかった。
 直澄は面食らったように目を丸くした。
 が、すぐに何かを考えるようにその目を伏せる。
 その顔に向かって光国が更に何か言いかけようとしたとき、直澄はすっと視線を上げ、正面から光国を見据えた。
 そして一言、こう告げた。
「わかりませぬ」

「何だと」
 気色ばむ副将軍の視線をまっすぐに受け止め、直澄は再度言った。
「わかりませぬ。拙者にはあのように素晴らしい兄君などおりませぬゆえ」
「あ……」
 光国が口ごもる。
 立て板に水のごとく、直澄は続けた。
「それに、拙者には妻がいたこともござりませぬ。
 彦根の城の端っこの薄暗い部屋の中、将来へ何の希望もなく、気まぐれにやって来る長兄にただ虐げられるだけの日々。
 それでも、そのような拙者を慕ってくれる娘が城中に一人だけおりました。やがて彼女との間に子ができました。
 しかしその子は、部屋住みの穀潰しに子など不用と、父と兄の命で生まれてすぐに家臣の家に養子に出され、こうして藩主となった今でも、所詮この身は甥が成人するまでの中継ぎゆえ、たった一人の我が子を呼び戻すことも、会うことすらかないませぬ。
 そのような拙者に、兄君に愛され、奥方に愛され、御子を自らの意志でお捨てになった貴方様のお気持ちなどわかりませぬ」
 淡々と話す直澄に、光国は先程までの勢いを完全に失っていた。
 そんな光国に、直澄はにこりと笑いかけた。
「とまあ、先程の水戸様のお言葉にお答えするならばこのようなところでございますが、互いの不幸自慢ほど不毛なこともありませぬな。
 申し訳もござりませぬ、少し平静さを失ってしまっておりました」

「いや……こちらこそ、悪かった。そもそも礼を言いに来たのに、胸糞悪い話をしてしまった」
 気勢を削がれた光国はヨロヨロと立ち上がった。
 出て行こうとするのを直澄が慌てて引きとめる。
「お待ちください、水戸様! 拙者とてこのような憎まれ口を叩きたかったわけではなく……!」
 光国は立ったまま振り返った。その光国に視線で先程まで座っていた場所を指し示し、もう一度座るように促す。
 光国は渋々座り直した。
「その、拙者と讃岐守どののこと、水戸様が御立腹なされるのも当然にございます。そのことについては、お詫び申し上げます」
 手をついて、直澄は頭を下げた。
「別に、俺がとやかく言う問題でもないし。どうせ俺など……」
 羽織の紐を指にくるくると巻きつけ、光国は完全にいじけてしまっている。

「それと、水戸様にお会いしたら是非にも伝えておかねばと思っていたことがひとつございます」
 めげずに直澄は言い募った。
 光国が直澄に目を向けた。
「讃岐守どの、いいえ敢えてこの場では頼重どのと呼ばせてくださいませ。頼重どののことです。
頼重どのはいつでも、貴方様のことを大事に思っておいででございます。
 そして、貴方様が兄である己を差し置いて水戸のお家を継いだことをずっと気に病んでいらっしゃるのなら、申し訳ないと。
 そのことで弟を恨んだことなど一度もなく、むしろ初めて出会ってから今までずっと大切な弟なのに、苦しませて申し訳ないと、折に触れて頼重どのは仰っています」
「こんな俺でもまだ、兄上は大切と……」
 光国はぽつりと呟いた。
 直澄は頷いた。
「あの方が誰を愛しても、貴方様があの方の大事な御方だという事実は揺らぎませぬ」
 言われて、光国は涙を流した。
 白い頬を透明な涙が伝う。
 慌てて、涙を拭った。懐から懐紙を取り出し、鼻を噛む。

 光国が落ち着くのを待って、直澄は言った。
「先程いただいた黒豆納豆、まだ余りがございますので大切に頂きますね」
 まだ涙の残る顔で、光国は頷いた。
「それと、もしよろしければ反本丸も少しお持ちしますか」
 先程の異様に美味い牛肉の味噌漬けである。
 光国はこくこくと二回頷いた。

 ややあって小姓が持ってきた反本丸の包みを受け取り、直澄が見送る中門前に駐めた駕籠に乗り込む。
「今日は済まなかったな。……ありがとう」
 駕籠の小窓を開けて直澄にそう言えば、直澄も笑顔で応えた。
 駕籠が動き出す。
 どこか穏やかな気持ちで光国は駕籠に揺られた。
 自分が兄の唯一の人ではないのは寂しいが、兄とて自分をこよなく愛してくれているのだ。
 思いがけず、それを知ることができて良かった。
 かくなる上は兄と直澄のことも温かく見守って……
 そこまで考えたところで、いや待てよ? と光国は首をひねった。
 先程の直澄の話を要約すると、つまるところ。

 所詮おまえは弟なんだから分をわきまえて恋人である俺様に楯突いて来るなよ。

 ということなのではないだろうか。
 一度そう思うと、もはやそうとしか思えなくなった。
「してやられたわ!!」
 光国は駕籠の床を殴った。
 突然駕籠の中で暴れ始めた副将軍に、一体何事かと担ぎ手がびくりと肩を震わせた。

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