2016/06/26 Category : 古代史 玉虫色の笑み うちの大海人は入鹿の息子っていう特殊設定です。悪しからず。 その日は父に勉強を見てもらう約束をしていた。 昼過ぎには戻るからと微笑んだ父。それが、俺と父の最後の会話になった。 頭を撫でようと伸ばされた父の細い手を、もう子供ではないのだからと振り払ったことをどれほど悔いたことだろう。「大海人様、あなたはここからお逃げください」 宮中から送り返されてきた父の遺体を安置した部屋で、祖父……蘇我蝦夷が言った。 父、入鹿の遺体に掛けられた筵をめくろうとした俺の手を、見ないほうがいい、と押しとどめ、祖父は尚も言う。「あなたは確かに入鹿の子だが、同時に宝大王様の御子でもあり、……葛城皇子の異父弟でもある。 その血筋を利用してどうか……どうか生き延びてください。 あなたさえ生きていれば少しは……」 声を詰まらせ、祖父が筵を愛おしげに撫でる。 何度も何度も筵を、いや愛する息子の遺体を撫でながら、震える声で祖父は言った。「少しは、これも救われましょう」 だけど、俺は首を横に振った。そして、嫌ですと叫んだ。「俺だけ生き延びるなんて嫌です! 父の為に戦わせてください! それが叶わぬならせめて……」 せめて一緒に死なせてくれと俺は懇願した。 このときの俺は何もわからぬ子供だった。が、俺の出生が決して褒められたものではないことくらいは分かっていた。あろうことか皇后と密通し、俺という不義の子までもうけた父は、殺されても仕方のないクソ野郎だったのかもしれない。 だが、俺にとってはただ一人の父であり、この国で誰よりも強く賢い父は俺の自慢だった。 その父を殺した異父兄に頭を下げるなど、死んでも嫌だった。 祖父に取り縋って泣く俺を、背後から伸びてきた四本の腕が羽交い締めにした。高向国押とその息子、麻呂。祖父と父の腹心の部下だった親子だ。「国押、麻呂」 祖父の声が響く。「儂の最後の命令だ。大海人皇子様を外へお連れしろ」「御意」 何かを堪えるように一瞬歯を食いしばってから、国押が短く答える。 国押、麻呂、二人がかりで押さえられ、力づくで引きずられながらも俺は叫び続けた。「離せ! 一人だけ生き延びるなんて嫌だ! 離せ!! 父上のために戦う!!」 涙で視界がぼやける。「堪えてください!」 腕の力はそのままに、そう言って俺を諌めた国押もまた、泣いていた。麻呂も同じだ。「もう君大郎は……、入鹿様はいない。 あの方が亡くなってしまった今、一体どなたのために戦うというのですか。 助かるべき命を空しく捨てるおつもりですか!」 有無を言わせぬ力で高向の親子は俺を担ぎ上げた。 諦観の笑みを浮かべた祖父の姿が見る見るうちに遠ざかる。 それでも尚、俺は手を伸ばした。「おじいさま!!」 ここで別れてしまえば、もう二度と。* 隣に寝ていた青年がやにわに身を起こした衝撃で、鎌足は目を覚ました。「大海人様?」 いかがなさいました、と鎌足は先程まで情を交わしていた相手の名を呼ぶ。「俺は寝てたのか」 よりによっておまえの隣で、と苦々しく呟きながら、大海人はその長い髪を無造作にかき上げた。 適度に筋肉のついたしなやかな背中を覆う栗色の髪。彼の父親のものと同じ色をしていた。「少し夢見が悪かっただけだ。起こして悪かったな」 取り繕うようにそう言って大海人が笑う。 ああまたその笑みだ、と思った。 常にニコニコと笑みを絶やさぬ人懐こい皇子。人は皆、彼のことをそう形容する。だからこそ、逆賊蘇我入鹿の息子でありながら生き延びることができたのだろう、と。 その笑みは玉虫色だった。誰にもその胸の内を悟らせぬための。「夜明けにはまだ間がございます」 簾の隙間から流れ込んでくる空気は湿気を含んで重く、まだ深い夜の雰囲気を漂わせていた。 大海人のほうに腕を伸ばすと、彼は大人しく鎌足の隣にもう一度寝そべり、その腕の中に収まった。 鎌足が皇子の長い髪を一房手に取り、さらさらと弄ぶ。ひんやりとした髪が火照った身体には心地よい。「そういえば」 大海人が言った。「兄上は本当にこの難波の都を捨てるおつもりか?」 その言葉に小さく頷いてから、鎌足が言う。「すでに間人皇后様は葛城皇子様と同行なさる意思を固めておいでです」 大海人はくすくす笑った。肌を沿わせているため、微かな振動が鎌足にも伝わった。「そうだろうな。姉上は兄上のことを殊の外慕わしく思っておられる」 葛城皇子と間人皇后は同母の兄妹でありながら男女の関係にあるのではないか。そんな口さがない噂があることを言外に匂わせつつ、大海人は笑う。「で、飛鳥に戻ったらいよいよ兄上が即位するのか?」「それは……どうでしょう」 適当にはぐらかしながら、鎌足は大海人にのしかかった。顎を掬い上げ、唇を奪う。秘めやかな水音が真っ暗な閨に響いた。 都を飛鳥に戻した後は、宝皇女に重祚していただこうと思っている。鎌足と葛城の二人で決めたことだ。豪族どもの恨みを買うような政策をまだ沢山推し進めなければならない状況である。葛城皇子を帝として矢面に立たせるのはまだ早い。 が、そのような政治のことは大海人は知らなくても良い、と鎌足は思っている。 彼はこうして、ただ自分の欲望を受け止めていてくれれば良いのだ。 父の仇に組み敷かれる状況を皇子がどう思っているのかは知らない。 だが、あの蘇我入鹿の息子をこうして自由にできるというのは、鎌足にとっては無上の喜びだった。 尤も、大海人は父を殺された恨みをその玉虫色の笑みで覆い隠し、あわよくば寝首を掻いてやろうと今の関係を受け入れているだけかもしれないが。まあ、それはそれで一興である。 自身の内腿にかけられた鎌足の手を、大海人はやんわりと押しとどめた。「楽しい時間は終わりだ」「まだ夜です」「そうだが、まさか同じ匂いをさせて殿上するわけにもいかないだろう? 一旦家に戻って湯でも使ってこい。 変に勘ぐられて、兄上の悋気を被るのはごめんだ」 また次の夜に。大海人はそう言って自分から鎌足に口付けた。 [1回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword