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水月庵

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千年先の世界

鎌足×中大兄、鎌足→入鹿

もうすぐこの国は、沈む。
鬼の仕業だと人は言う。

「私は間違っていたのか」
皇子は呟く。
「私はただ、この国を守りたかった」
白い頬を涙が伝う。
「唐にも……どの国にも負けぬ国を作ろうと……。
 日出づるこの倭を担おうと私はずっと走り続けてきた」

どこまでも続く黒い大海原を不知火が漂う。
その光景は、ただひたすらに美しく私の目に映った。

「鎌足、私は間違っていたのか」






まもなくこの国は沈む。
年老いた女帝の命と共に。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

この美しい皇子とその弟、二人の皇子が恋した女の言寿ぎと共に旅立った兵士達は、もの言わぬ不知火となって今、祖国へと帰ってきた。

葛城皇子の称制2年、我が国は、大国唐と同盟を結び百済を侵略せんとする新羅を叩くため、同盟国である百済へ援軍を送った。
しかし、……いや、考えてみれば当たり前のことだ。
まだ若い我が国が唐に勝てるわけもない。
我が倭が送った援軍は敗れ、その兵士の多くが屍となって帰ってきた。
そして、我が国の女帝もまた、異郷の地で今まさに息絶えんとしている。

口さがない民らは言う。
これは呪いなのだと。
罪なくして死んだあの人が鬼となって、女帝と国を連れ去ろうとしているのだと。

「あの人ならばもっと上手く立ち回ることができたのだろうか」
皇子が自嘲の笑みを浮かべる。
「天才と……その才覚に並ぶものなしと讃えられたあの人なら。
 なあ鎌足。おまえも本心ではそう思っているのではないか?」
皇子は笑う。

「何を仰せられます、皇子」
あなたはこの国を導く唯一の人だ、と、柄にもなく慌てた声音で言い募った私の言葉を、葛城皇子は一笑に付した。

「私は知っているぞ、鎌足。
 おまえがあの男を……蘇我入鹿を愛していたことを。
 思いが届かぬ故におまえは今でも入鹿を恋い続けている。
 私は所詮その形代に過ぎぬ。
 入鹿を憎いと言いながら、おまえはずっとあの男の影を追っているのだ」

私は用意していた返事を飲み込んだ。
何も言うことができなかった。
すでに老境に差し入ろうかという歳になって。
それでも尚、あの人への思いが、年甲斐もなく胸を焦がす。

蘇我入鹿。
その名は私にとって呪いだ。
私と、そしてこの葛城皇子が共謀して手にかけたその人は、私にとって一番憎らしい人、そして愛しい人。
つまりは、出会ったその日から入鹿様は私にとって永遠の人だった。

「戯れ言を仰いますな、皇子よ」
そう言うのが精一杯だった。
「私たちには感傷に浸っている暇などありません。
 何より、その資格などないのです。
 これは私たちが招いた戦。もの言わぬ不知火は他ならぬ私たちが生み出したものなのですよ」

言いたいことだけを言って、私は皇子の前を辞した。
数多くの政敵を無情に葬っておきながら、そして孫も生まれようという年齢に差し掛かっているにも関わらず、皇子は儚く、美しすぎる。
まるで、私が守ってやらなければ消えてしまうと思う程に。
そんな皇子が、今の私には重すぎた。

その夜、私は夢を見た。
いや、夢というにはそれは生々しい。

口さがない民は言う。
女帝の命を攫わんとする悪鬼は、傘を目深に被った姿をしているのだと。

鬼は私の夢枕に現れた。
目深に傘を被った姿のその鬼は、顔を隠していても分かる。あの人だ。
貴方のことを、私は一日たりとも忘れたことはない。

「入鹿さま」
私は夢現の中で鬼に呼びかけた。

「私を、恨んでいますか」
貴方を裏切り、殺した私を。

「憎んでいますか」
貴方の理想を理解できなかった私を。
その結果が、この地獄だ。
貴方は今より20年も前に、この未来を予見していた。
貴方が描いた未来図を打ち砕き、醜い今の様を作り出したのは、他ならぬ私だ。

鬼は泣いていた。
何も言わずに泣いていた。

「悲しんで、いるのですか」
涙を頬が伝うのがわかった。
それは、貴方を殺してから、自ら自分に禁じていた感情だった。

「愛しているのですか。
 自らを裏切り殺した国を、貴方は、それでも尚」

鬼が傘を脱いだ。

私は年老いたのに、貴方は若く美しいままだ。
生まれながらに全てを持っていた貴方。
どうしてもかなわなくて、だからこそ憎らしくて堪らなかった。殺したい程に。
けれど愛していた。
叶わないから、憎らしいから、恨めしいから、だから愛した。

鬼は何も言わない。
ただ、白珠のような涙を流し続ける。

触れられないのは解っていた。
それでも私はその柔らかな髪に手を伸ばした。

「入鹿さま。もし貴方が生きて、大臣の位にいたなら、もっと違う方法があったのでしょうね。
 貴方はきっとこの国を亡国の憂き目になど遭わせはしなかったでしょう」

鬼はきょとんと私を見返した。

私は苦笑する。

「私は貴方には到底及ばない。
 でも入鹿さま。それでも私は足掻いて見せましょう。
 貴方が愛したこの国のためならば」

鬼が微笑んだような気がした。
仕方ないな、というように。
任せたぞ、というように。

それは余りにも私にとって都合のいい夢だった。

「皇子」
翌朝、私は船の甲板に立つ葛城皇子に呼びかけた。
きっと一睡もできなかったのだろう、その白い肌には痛々しい隈が浮かんでいる。

「兵を退きましょう。
 そして、都を遷しましょう。
 旧来の豪族に弄ばれず、なおかつ、海の向こうの脅威を受けず、それに立ち向かえる場所。
 そうですね、近江などいかがです?
 近江ならば外から攻撃を受けることもなく、尚且つ変事あればすぐに打って出ることができます。
 何しろ難波の津までは近江の湖から船を出せばすぐですからね」

「何だ鎌足。
 やけに生き生きとしているではないか。
 私はこの敗戦で十年は老け込んだというのに」

「十年老け込んでその美貌とは大したものだ」

私の軽口に、皇子は大げさにため息をついた。

「戯れ言を言っている場合か。私たちはともすれば敗戦の将として処刑されるかもしれないんだぞ」

「仰る通り。
 であれば、我々が考えなければならぬのは、どうすればその運命を避けられるか、では?
 果たして我が国にとっての逆賊は蘇我入鹿か、はたまた私たちか、それを決めるのは……そうですね、千年後のこの国の民達ではないでしょうか?」

私の言葉に、皇子は声を出して笑った。
潮風に黒髪を靡かせて笑う皇子は、それはそれは綺麗だった。

「ならば私たちがすべきことは、この国が千年ののちも栄えるように手を尽くすこと。
 おまえはそう言いたいのか?」

「御意にございます」

そう。私は少年の頃に蘇我入鹿に恋い焦がれた。
甘樫の丘に立ち、都を見下ろして微笑むあの人は、私の永遠だ。
その想いは今も消えはしない。
あの人と過ごした日々に感じた愛しさ、悔しさは死んでも忘れない。
けれど、彼に恋したその期間の、何倍も長い時間を皇子と歩んできた。

今更何を言っても皇子は信じないだろうが。
それでも私は、葛城皇子、貴方を愛している。

己の敵になるならば親族であろうと、妻の父であろうと葬ってきた血塗れ皇子。
その度に、血の涙を流してきた優しい皇子。
私は貴方が好きだ。
天才などでなくていい。
美しい顔を歪めて足掻く貴方が、ただ愛おしい。
共に歩むのは、貴方をおいて他にはないと思う。

貴方は不敵に笑う。
「これから忙しくなるな、鎌足」

私は応える。
「それでも、歩みを止めるわけにはいきません。
 ……千年先の我が国のために」

皇子は笑った。
その笑顔が、皮肉にも昨夜の鬼と重なって見えた。

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