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水月庵

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ナイルの雫 第3章−1

「すげぇ……」

朝起きてすぐ、窓の外を見たアイリは思わず呟いた。

辺り一面が、水に浸かっている。
昨日までは確かに陸地があったのに。

昨日までは確かに地平線から顔を覗かせていた太陽が、今日は水平線からお出ましだ。
今昇ってきたばかりの太陽が放つ光が、水面に反射してキラキラしている。

朝らしい柔らかい眩しさに、アイリは僅かに目を細めた。

が、その紫の瞳はすぐに見開かれることになる。

突如、肩にずっしりとした重みを感じたからである。

「ちょっ……何だよ」
やや不機嫌な声でそう言っても、重みは一向になくならない。

「よかったー……」
アイリに寄り掛かっている重い物体は、本当に嬉しそうな口調でそう呟いた。

アイリは外から視線を外し、その物体に目を向けた。

物体は、ジェセルだった。
どうも今日はアイリの手を煩わせることなく一人で起きたらしい。
感心なことだ。

「で? よかったって何が」
アイリが聞くと、ジェセルは心底嬉しそうな様子で話し始めた。

「ほら、エジプトはナイルの賜物だから」
だから今年もちゃんとナイル川が増水してよかった、とジェセルは言った。

その言葉にアイリも、ああ、と微笑んだ。
ナイル川は毎年、決まった時期に氾濫する。
その増水した水が、上流から肥沃な土を運んできてくれ、今年も豊かな実りが約束されるのだ。




「今年もこれで一安心だ。
 もし氾濫しなかったらどうしようって思うと胃が痛くてさ」
ジェセルはそう言って笑った。

「神経細いなおまえ」
アイリも笑った。

ちなみに、二人が結婚してから今日で3ヶ月である。
といっても諸事情により男同士の結婚のため何もないが。

だが、3ヶ月も共に暮らしているとだんだんとお互いのことがよく分かってくる。

例えば、ジェセルは朝が弱いということとか、アイリは何だかんだいって面倒見のいい奴だということとか。

「なぁジェセル」

どれくらい、外の景色を見ていただろうか。
ジェセルは、アイリの声に、視線を彼へ戻した。

「何?」

「あー……えっと、その……だな」
アイリは視線を泳がせた。

アイリは、視線を泳がせたまま自身の長い髪をかきあげた。
「いや、ごめん。何でもねぇ。
 ……早く支度しねーと朝議に遅れるぞ」

いつものアイリらしくもなく、何だか歯切れが悪い。

そんな彼の様子が気にはなったが、
早く支度をしないと朝議に遅れることも事実なので、
ジェセルは朝の支度をすることにした。

朝議に遅れでもしたら、絶対セヌウにどやされる。
普段穏やかな人に限って、キレたら怖いのだ。

ジェセルを朝議に送り出してから、アイリは一人悠々と朝食をとることにした。

テオとメイが朝食を運んでくる。

エジプトへやってきてからは、大体食事はこの3人でとることになっている。

本当は、女官であるテオとメイが王妃であるアイリと一緒に食事をとることは常識はずれなのだが、
食事は一人でするより二人や三人でしたほうが楽しい、というのがアイリの考えだ。

それにしても、とアイリのパンを用意しながら、メイが言う。

「本っ当に驚きましたわ。
 まさか、王妃さまが男性だったなんて」

そう、この3ヶ月の間にしっかりばれている。
といっても、アイリがへまをしたわけではないのだが。

俺も、とすっかり素に戻っているアイリが言い返す。
「俺も驚いたぞ。
 まさかメイが、キアンの妹だったなんてな」

そう、実はメイは、キアン将軍の妹である。
アイリが男だということがメイにばれたのも、キアンがぽろっともらしたせいだ。

「でも、言われてみればちょっと似てるかも」
テオが言う。

けっ、という表情になったメイが言う。
「似ーてーまーせーんー。
 あんな、エジプト人のくせにロン毛な奴とは似てません!」

そう、キアンはエジプト人にしては珍しく、髪が肩より長い。
エジプト人にしては珍しく、というのは、地毛は短く整えて、上から鬘や頭巾を被るのがエジプト流だからだ。

「ていうか、俺もロン毛野郎だけど」
クスクス笑いながらアイリが言う。

「お……王妃さまはいいんです!」
慌ててメイがそう言った。

「なぁ……」
先程より、幾分低めなトーンでアイリが言う。

「どうなさいました?」
つられて、テオとメイの声もトーンが下がる。

別に深い意味はないのだが、と前置きしてからアイリはぼそっと言った。
「あいつ、いつ第2王妃娶んのかなーって」

そう、ジェセルは近々異母妹のネフェルト王女を第2王妃として娶ることになっている。
アイリはどこからともなくその話を聞いた。

「そ……それはー……」
思わずメイが口ごもる。

「あ、あのアイリさま、どこでそれを?」
そう問うテオの口調も、気づかうようなそれになる。

そんな二人に、アイリは苦笑した。
「何そんなに心配そうな顔してんだよ。
 俺が新しい王妃に嫉妬なんかするわけねーだろ?」

そうだ、その通りだ。
アイリは心の中で呟く。

一体何がどうタイミングが悪かったんだかジェセルと自分は夫婦になったが。
向こうは男で、こっちも男。

どう考えても、真っ当な夫婦ではない。
だとすれば、ジェセルが第2王妃を迎えるのも自然の成り行きだ。

毎朝彼を叩き起こすのも。
ナイルの氾濫を一緒に喜ぶのも。
そして、ともにエジプトを治めるのも。

本来、そのネフェルト王女とかいう人がすることだ。

……ってちょっと待て。
何で俺微妙に落ち込んでんの?!

アイリは久しぶりに心の中で一人ボケツッコミをしてしまった。



「キアン、セヌウどの」

後ろから声をかけられて、二人は振り返った。

「あのさ、さっきヒッタイトから書簡がきたって聞いたんだけど」

二人を呼び止めたのは、彼らの王だった。

ああ、と思い出したように呟いて、セヌウはジェセルに書簡を渡した。

「ヒッタイトから、か?」

ジェセルはその内容にざっと目を通す。
と、その顔色が見る見る変わってゆく。

「ちょ……キアン、ちょっと来い」
ジェセルは、そう言ってキアンをずるずる引き摺っていった。

「おい、ジェセル、痛いって。
 引き摺らなくても俺ちゃんと歩けるっつの」

ジェセルは自分の部屋までキアンを引き摺っていった。

キアンは、仮にも王の部屋だというのに、無遠慮にもその辺にどっかりと腰を下ろした。

ジェセルもキアンの向かいに腰を下ろす。
そして、2つの杯にワインを注ぐと、片方をキアンに差し出す。

「この書簡に、ヒッタイト皇妃が王子を産んだと書いてあった」

「ふーん、めでたいじゃん」

「ああ。
 皇妃が産んだ子は、カラン皇子とシャラ皇女に次いで3人目だな……ってそれはどうでもよくて!」

ジェセルはやけに焦っている。

「……アイリに、ヒッタイトへ来いと書いてある」

珍しく、渋い顔をしたキアンがぽつりと言う。
「……そりゃ、拒めねーな……」

「だろ?
 弟の誕生を祝いに来いというのは、至極真っ当だ」

だが、とジェセルは呟く。

「キアン、覚えてるだろ?
 アイリの輿入れのときのこと」

「ああ、覚えてる。
 行列を襲ったのは、何故かヒッタイト人だった。
 ……だから何か裏があると思ったってわけか。
 
 何でかはわからねぇが、ヒッタイトはアイリさまを殺そうとしている。
 そんなとこに単身乗り込んでいって、生きて帰れるわけがないってか」

そう言ってから一瞬後、キアンはくすりと笑った。

「な……何笑ってるんだ。
 今は笑うトコじゃないだろ」

「……いや」
そう言いながらも相変わらずキアンはにやにやと笑っている。

「おまえさ、アイリさまのこと、好きだろ?」

ぶーーーっ!

ジェセルは、口に含んでいたワインを盛大に噴き出した。

「うわっ……ちょ…何だよ汚ぇな」

「お……おまえが変なこと言うからだ!」

垂れ目がつり目になるほど目尻を上げてジェセルは怒鳴った。
その顔は、さっきまでは青かったのに今は真っ赤だ。

「へー、図星。
 いやいいんだぜ?
 俺そーゆーのに割と理解あるほうだし」

「だーかーらー。違うって。
 そんなんじゃない」

いくら否定しても、キアンのにやにやは収まらない。

「いい加減、認めろよ」
キアンはそう言ってジェセルを小突く。

「だから……」

「なら訊くけどさ。
 好きでもなけりゃヒッタイトから押し付けられた皇女(男)なんざ
 死のうが生きようがどうでもいいはずだ」
違うか?と言われて、ジェセルは押し黙る。

それに、とキアンは続ける。
「まず、最初にアイリさまを殺さなかったのは何でだ?
 おまえは戦をしたくないからだって言ったけど、
 事実ミタンニ戦ではそこまで兵力も消耗してないぜ?」

「……」

「それと、未だに第2王妃を迎えないのは、アイリさまに惚れ込んでるからじゃねーのか?」

ジェセルは何も言わない。
ちょっといじめ過ぎたかな、とキアンはぽり、と頭をかいた。


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